桃姫の柔らかな桃色の髪の毛から漂った甘美な桃の香りが鼻孔に残り──老人のかつての記憶を呼び起こした。
「──御師匠様! 来てくださったのですね……!」
「……桃。鬼退治、でかしたのう。風の噂を聞いたあと、すぐさま村に飛んで来ようと思うたのだが──まぁ、わしにも色々と用事があってのう」
若き日の桃太郎は、花咲村を訪れた老人──"御師匠様"を歓喜の声と共に出迎えた。
「御師匠様のことです、きっと日ノ本各地で善行を行っておられたのでしょうね」
「うむ……まあ、そのようなものじゃよ」
桃太郎が感心しながら言うと、老人は黄金の錫杖をチリン──と鳴らしながら満面の笑みで頷いた。
「──鬼ヶ島には鬼しか入れない。鬼ヶ島に行くなんて無謀だ──村の者にこう言われた時、御師匠様は私にこうおっしゃってくれましたね──仏が入れぬ場所はない。大丈夫だ、桃。おぬしには仏の加護がついておる──と」
桃太郎が老人を家に招き入れて縁側に誘うと、老人と桃太郎は並んで座りながら語り合った。
「うむ──いかにも」
「……船が鬼ヶ島に着くまでの間、あの言葉を何度も胸の中で繰り返して……そして私は、自分を奮い立たせる力に変えていたのです」
桃太郎は嬉しそうに、噛みしめるようにそう告げると、老人は照れ笑いを浮かべながら太陽に照らされる庭を歩く一羽の雀を眺め見た。
「かかかか……! そうかそうか──わしのような老いぼれの言葉が鬼退治の役に立ったようでなによりだ」
「言葉だけではありません……! 鬼退治にまつわるすべて……そのすべてを、私は御師匠様から授かりました!」
桃太郎は老人の謙遜の言葉に対して、立ち上がらんばかりの勢いで身を乗り出して言った。
「かかかか、落ち着け、桃……ああ、そういえば、お供の三獣は亡くなってしまったようだのう」
「っ……はい……」
老人がふと思い出して口にすると、一瞬にして桃太郎の表情が暗くなった。
その様子を横目で見た老人は、深刻そうな桃太郎の顔を見て思わず吹き出してしまう。
「ふっ、そう暗くなるでない、桃──鬼ヶ島から亡骸を持ち帰ったと聞いたぞ。供養塔でも建ててやれば喜ぶだろうて」
「はい……私に与えられた財宝を使って花咲山の峠道に祠を建てました……」
桃太郎は命を捧げて鬼退治を全うした三獣のことを思いながら両膝に握り拳を置いて、三羽に増えた庭の雀を見ながら言った。
「うむ。良い心がけじゃな──まあ、三匹とも由緒正しい出自の獣だ。きっと桃太郎が鬼退治を果たしたことを光栄に思っておるわいの」
老人は笑みを浮かべながら言うと、桃太郎も握り締めていた拳を緩めて頷いた。
「はい。そうだと信じています……不思議なのですが、祠に祈りを捧げると今でも彼女たちの息吹を感じる瞬間があるのです」
「……彼女たち、とな……?」
桃太郎の言葉に老人は疑問符を浮かべて聞き返した。
「はい、お供の三獣はみなメスでした。御師匠様は、ご存知ではありませんでしたか……?」
「いや、知らん。かかかかっ……獣の雌雄など、わしは興味がなかったものでな──日ノ本各地を巡った折に、縁が生まれた土地の獣を譲り受けて、12歳の記念として桃に渡しただけだ……共に強くなるように言うてな」
「そうですか……そうですよね──しかし、まだ案外、三獣は私の近くにいるのかもしれません」
「──なるほどのう……」
桃太郎は青空を見上げて濃桃色の瞳を明るく照らしながらそう言うと、老人は軽く頷いたあとに湯呑のお茶を一口すすった。
「──さて、桃や。わしはそろそろ旅立たなくてはならん」
老人は不意に縁側から立ち上がって腰を反らして伸びをすると、桃太郎に向かって言った。
「えっ……!? もうですか……!? せっかく花咲に来たのですから、一泊でもしていってください……!」
「いや、その気持だけで結構──村を訪れた理由は桃の顔を見るため……それは十分果たせた。それに、この村は居心地がよい、長居すれば離れ難くなってしまうのでな」
慌てた桃太郎も立ち上がって老人を引き留めようとするが、老人は左手のひらを前に出して首を横に振りながら告げた。
「……旅立つとは……いったいどちらへ向かわれるのでしょうか?」
桃太郎は風のようなこの老人を自分の意思で止めることは不可能だと理解し、せめて行き先だけでも尋ねようとした。
「──何処とは決めとらんが……ちと、体がなまってしまってな。また行くあてのない全国行脚でも始めようと思う──そうだのう。日ノ本を一周したころに、またこの村で会えるだろうて」
老人は穏やかな笑みを浮かべて言うと、桃太郎は眉根を寄せながら考え込んだ。
「そんな……御師匠様にはまだ何も恩返しが出来ていないのに……そうだ……お爺さん! お婆さん! 財宝のいくつかを御師匠様に差し上げてください!」
桃太郎は家の中に向けて声を掛けると、ちゃぶ台に座っていた老夫婦が互いの顔を見合わせた。
「……そ、そうだねえ……村長から我が家に配られたお宝はそんなに多くはないけれど……ええっと……何があったかねえ……」
しぶしぶといった感じで座布団から立ち上がったお婆さんは、タンスの引き出しを開けて中を物色する。
「いやいや、結構ですよ、お婆さん──あの日、あなたと一緒に川から流れてきた桃を拾い上げ、そうして生まれてきた桃太郎と不思議な縁で師弟の関係となり、鬼退治の役に立つことが出来た……それだけでわしは満足──かかかかっ」
「……なんと、なんと立派な御人なんだべか……」
「ありがたやあ……なんまんだぶ……なんまんだぶ……」
快活に笑った老人の温かい言葉にお爺さんとお婆さんは涙を流しながら手を合わせて喜んだ。
「──それでは、達者でのう……桃」
「御師匠様……本当に、ありがとうございました……!」
右手で黄金の錫杖を突きながら左手で片合掌した老人が別れを告げると、桃太郎は深々と頭を下げながら感謝の言葉を述べて、両隣に立つお婆さんとお爺さんも頭を下げた。
「──こちらこそ……ありがとうのう、桃……桃太郎よ──」
老人が漆黒の眼をカッ──と見開いた。過去の記憶は桃姫の甘い桃の香りと共に過ぎ去り、老人はおもむろに白装束の懐に左手を差し入れた。
そして、スッ──と黒い呪札の束を取り出すと、赤い文字で呪文が書かれたその札を宙空にバラ撒き、即座に左手で片合唱しながら孔雀明王のマントラを唱えた。
「──オン──マユラギ──ランテイ──ソワカ──」
老人がマントラを詠唱したあと、右手に持つ黄金の錫杖を地面に突いてチリン──と高く鳴らす。
すると宙空を舞った呪札が紫色に光り出して、大きな円を描くように繋がりながらバッ──と広がった。
それは丁度、"門"のような形をしており、まさに開かれた"門"のように円の奥には向こう側の景色が伺い見えた。
人気のない花咲山の峠道に突如として現れた紫色に怪光する"呪札で形成された門"──"呪札門"。
「──桃よ……今夜、20年ぶりにおぬしに会いたい鬼がおるそうじゃよ──」
風に揺れる水面のようにゆらゆらと揺れ動く呪札門の向こう側に見える景色は、花咲山の峠道ではなかった。
血の色をした赤い太陽が浮かび、不気味な霧が虚空を覆い尽くした異様な空間──鬼ヶ島。その中枢──鬼ノ城の広場に集結した100人余りの赤い眼をした鬼の軍勢が武装して居並んでいた──。
「──楽しみにしておれ──桃太郎──かかかかかッッ!!」
深淵の眼を持つ老人は、顔面に貼り付いているかのような常に変わらぬ満面の笑みを浮かべて盛大に高笑いしながら告げた。
桃姫の平和で平穏な日常を、鬼ヶ島から怒涛の勢いで流れ込んでくる邪悪な暗闇が、瞬く間に侵蝕しようとしていた──。