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12.謎の老人

「──ぽーん、ぽーん、ぽーん」


 三獣の祠の前で練習を開始してから一時間が経ち、桃姫の蹴鞠は高度化していた。

 鞠を落とさずに連続して蹴り上げて浮かすだけでは飽き足らず、どれだけ天高くまで鞠を飛躍させられるかへの挑戦が始まっていた。


「──ぽーん、ぽぉーん、ぽぉおーん」


 桃姫は声を上げながら、赤い鼻緒の雪駄を履いた足で器用に鞠を蹴り上げる。

 着実に滞空時間が伸びていった鞠は、遂には花咲山一帯の木々の背丈と同じ高さまで上がっていた。


「──ぽぉおおーん、ぽぉおおおーん」


 峠道の木々の間に見え隠れする青空──千切れ雲がぽつぽつと浮かんだ空に、赤い絹糸で刺繍された鞠が気持ちよさそうに舞い上がる。

 三獣の祠の前から先に行かないという桃太郎との約束を守りつつ、桃姫が空飛ぶ鞠を見て気持ちよくなっていた、正にその時であった──。


「──ピーヒョロロロオー」


 一羽の大きなトンビが青空を泳いでいた鞠目掛けて鳴きながら滑空すると、足爪で──むんず──と鞠を掴み取って、天高く飛翔していった。


「──ええええええええっっ!!」


 先程まで鞠を見てぽーっとしていた桃姫は、まさかの事態に絶叫すると、即座にトンビを追いかけて走り出した。


「……返してええええっっ! ──母上から貰った大事な鞠なのおおおッッ!」


 空飛ぶトンビに向かって桃姫は両手を突き出すと、なりふり構わず絶叫しながら走り──あっという間に祠の前を通り過ぎて峠道を山の頂上に向けて駆け上がっていく。


「──ピーヒョロロロロオー」


 怒声を発しながら追いかけてくる桃姫の存在に気づいているのかいないのか、トンビは気持ちよさそうに鳴き声を上げながら木々の上を羽ばたいて飛翔する。


「──返せええええええっっ!!」


 桃姫は顔を真っ赤にしながら叫び、履いている雪駄の片方を脱いで掴むとトンビに向かって全力で放り投げた──。

 しかし、10歳の少女の腕力で投げられた雪駄は、トンビの高さまで届くこともなく、ただ空中に小さな弧を描くだけで終わった。

 カラカラ──と乾いた音を立てながら峠道に落下した雪駄を見た桃姫は、両手を地面について泣きだした。


「──あああー! ──なんでええー!! ──あああーッッ!」


 桃姫は先程までの楽しかった1時間を反転して凝縮したかのような強い悲しみに襲われて盛大に泣いた。


「──いやだー、あああー! ──なんでえー!」


 人通りのない山奥で人目を気にせず桃姫が泣いていると、チリン──という金輪の音を立てながら、一人の老人が歩み寄ってきた。


「──お嬢ちゃん。もう泣かなくてよろしい」

「……え」


 特徴的なしゃがれ声に対して、顔を上げた桃姫が声の主を見ると、その老人は満面の笑みを浮かべながら右手に黄金の錫杖、そして左手に赤い鞠を携えていた。


「あ……え……」


 桃姫は困惑しながら老人が手に持つ赤い鞠を凝視した──それは間違いなく、トンビがかっさらっていった桃姫の赤い鞠であった。


「──ほれ」


 笑顔を浮かべ続ける謎の老人が赤い鞠を桃姫に向けて転がすように投げた。

 眼前に転がってきた鞠を桃姫は両手で大事に掴むと、今度は悲しみではなく感動の涙を流しながらよろよろと立ち上がる──。


「え……あ……お、お爺さん……」


 桃姫は老人を鞠越しに拝むように見ながら言うと、老人は少し歩き、落ちていた雪駄を拾い上げた。


「──大事なものなのだろ? 失くさないようにせんといかんな。かかかか……」


 そう言って笑った老人は片方裸足になっている桃姫の前に足を通せる向きで雪駄をそっと置いた。


「あの……あ……ありがとうございます」


 桃姫は頭を深々と下げて、素足を雪駄に差し入れて履いた。


「──構わんよ……人に感謝されることには慣れておるのでな」


 老人が笑みを浮かべながら静かに告げると、その老人の言葉に対して何か得も言われぬ不気味さを感じ取った桃姫は自然と涙が止まった。


 ──この人には関わっちゃいけない。


 桃姫の直感がそう強く訴えかける。


「……ありがとうございました」


 桃姫は再度の礼を言いながら老人に向けて御辞儀をすると、来た道を戻ろうと後ろを振り返った──その瞬間だった。


「う……!」


 桃姫は岩のような硬い物体に思い切りぶつかって、その衝撃で地面に尻餅をついた──そして、桃姫はぶつかった"岩"を見上げて小さく声を漏らした。


「……っ」


 それは"岩"ではなく、梵字が書かれた赤い呪符を顔に貼り付けた灰色肌の大男だった──。

 大男は"ぜー、ぜー"と呼吸を荒くしながら肩を揺らしており、桃姫はその大男の額から二本の角が伸びているのを見た。


「……い……いや……」


 桃姫が引きつった顔で振り返り、老人に助けを求めると──満面の笑みを浮かべる老人の後ろにもう一体別の灰色肌の大男が立っていた。

 こちらは呪符に書かれている梵字が異なっている上に緑色をしている、更には額から伸びる角の本数も一本であった──。


「ああ……怖がらなくていいのだよ。こいつらは大人しいからね──ちょっかいを出さなければ何もしないように"躾"てある」


 老人は穏やかな声音でそう言うと、桃姫が尻餅をついた拍子に手落として、老人の履いた高下駄にぶつかって止まった赤い鞠を拾い上げた。


「それより──失くさないほうがよいと言ったばかりだろ、お嬢ちゃん──?」


 老人が赤い鞠を差し出しながら、桃姫に近づいてくる。


「いや……」


 桃姫が迫りくる老人を拒絶して、後退りしながら体を強張らせた瞬間──老人が鞠を手放して、桃姫の髪を一房掴み取った──。


「──そうかい、そうかい。お嬢ちゃんが……なあ」

「ッッ──離してっ!」


 細い目をカッ──と見開いて鼻を鳴らした老人に対して、桃姫は両手で突き飛ばすように押すと、何とか立ち上がった。

 そして老人に怯えた表情を見せたあとに背を向けると、立ちふさがる岩のような大男を見上げた。


「──グゥゥウウウ……!!」


 大男は唸り声を上げながら、黄色い眼球をギョロリ──と桃姫に向けて、呪符の隙間から見下ろした。


「あの……あの……!」

「──手を出すな。行かせてやれ」


 恐怖に慄いた桃姫の姿を見た老人が命令するように大男に向けて告げると、大男は黙って桃姫の前から移動して道を開けた。

 桃姫はその瞬間に脱兎のごとく走り出して、老人と二人の大男から距離を取ると一瞬だけ振り返って──そしてまた走り出した。


「──よもや、こんな山奥で桃の娘に会うとは……いやはや……やはり、桃とわしは深い因縁で結ばれておるのかのう……」


 老人は白い髭を撫でながら、見えなくなっていく桃姫の背中に向けてそう言う。そして、黄金の錫杖を赤い呪符の大男に向けて鳴らした。


「……さっさと喰え前鬼──まったく、息を荒くしおってからに」


 老人が吐き捨てるように言うと、前鬼と呼ばれた大男は後ろ手に握っていた息の根が止まったトンビを眼前に取り出した。

 そして、赤い呪符に隠された口の部分を黒い舌を伸ばしてめくり上げて、太く尖った牙を見せながらそのままかぶりついた。


「……グウー。ウー……!」


 もう一体の大男が緑色の呪符の下からよだれを垂らしながら前鬼の様子を羨ましそうに見ていると、老人は横目でその大男を見ながら口を開いた。


「……後鬼よ、喰いたいならば自分で取れ。このトンビは前鬼が自分で石を投げて取った獲物だ」


 老人はそう言うと、足元に落ちている桃姫の赤い鞠を見た。


「──桃の娘。可愛そうだが……仕方あるまいの──今日は、そういう日──なのだから」


 そう呟いた老人は、前鬼がグチャグチャと音を立ててトンビを食べる音を耳にしながら静かに目を閉じた。

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