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10.おつるちゃん

「──桃姫……起きなさい、桃姫」

「……ん。んん……?」


 小夜の声で目を覚ました桃姫は、うねる寝癖のついた桃色の髪を持ち上げながら上体を起こした。


「桃姫、もう父上は出ていきましたよ。桃姫も着替えて、お祭りの準備をしないといけないでしょ?」

「……ん……お祭り……そうだ……」


 桃姫は下半身を布団に入れたまま寝ぼけ眼をこすりながら言うと、櫛を持った小夜が隣にさっと座って、桃姫の髪を手際よく梳き始めた。


「村の人たちに蹴鞠の披露をするんでしょ? だったらちょっとでも練習、しておいたほうがいいんじゃないの?」

「……あっ……うん、そうだね……」


 桃姫の長い桃色の髪は小夜の慣れた手捌きによって瞬く間に整えられると、ようやく桃姫は布団から抜け出して着替えを始めた。

 そして、白い寝巻きから萌黄色の着物に着替えると、昨日の御飯の残りで握られたおにぎりを食べ始めた。


「私はみんなが祭りで食べる料理の下準備をしないといけないから、桃姫はお祭りが始まる夕方まで遊んでいてね」

「はーい」

「あ、山の方には行っちゃダメよ。鳥居から先には行っちゃダメ──わかった?」

「はーい」


 味噌汁を飲みながら桃姫が答えると、小夜は玄関口に移動した。


「それじゃ、母上は先に行くからね」

「いってらっしゃーい」


 小夜が雪駄を履いて出ていくと、桃姫は手にしていた味噌汁をずずずと一口飲んでから、ちゃぶ台の上に置いて立ち上がった。


「よし──蹴鞠の練習しないと!」


 そう言って、居間の隅に転がっていた赤い絹糸で刺繍された鞠を拾い上げると、雪駄を履いて家の外に出た。


「あら、桃姫様。おはようございます」

「おはようございます、おばさん」


 家を出てすぐ、向かいの家のおばさんに声を掛けられた桃姫は会釈をしながら挨拶して返した。


「今日は桃姫様のお誕生よねぇ、おめでとうございます……何歳になったのか聞いていいかしら?」


 おばさんは愛嬌のある笑顔を浮かべながら言うと、桃姫は両方の手のひらを前に突き出して広げてみせた。


「──あっ……」


 その拍子に両手で抱え持っていた赤い鞠が地面に落ちて跳ねながら転がっていく。


「あらあら……」

「それでは、しつれいします」


 桃姫は笑うおばさんに向かって頭を下げると、転がる鞠を追いかけて走り出した。


「転ばないでねー」


 そんな桃姫の背中をおばさんが手を振りながら見送った。


「──桃姫様ぁ~」


 桃姫が村の端にある五本並んだ桃の木の下で蹴鞠の練習をしていると、気の抜けた声と共に一人の女の子が桃姫の元に手を振りながら近づいてきた。


「あ、おつるちゃんだ」


 桃姫がおつると呼んだ女の子は、桃姫と同じ10歳の短く太い眉毛が特徴的なおかっぱ頭で、左の耳元に髪留めの赤いかんざしを差した花咲村の住人だった。


「探したんだよ~、桃姫様がいない~、どこぉ~って」

「……おつるちゃん」


 桃の木の下にやって来たおつるに対して、桃姫は険しい顔をして言った。


「──桃姫様って呼ばないでって、言ったよね……」

「……え」


 おつるは困惑した顔を浮かべると、桃姫の真剣な表情をまじまじと見た。


「──私たちは"大親友"なんだから──"ちゃん"って呼んでって、"様"ってつけないでって、このまえ言ったよね」

「……あ」


 おつるは桃姫の言葉の意味を理解し、次の瞬間──パッと笑顔を見せながら口を開いた。


「──桃姫ちゃん──探したんだよ~」

「……うん!」


 桃姫も笑顔になって答えて返すと、おつると一緒に互いの笑顔を見せあった。


「おつるちゃん。なんで私を探してたの?」


 桃姫が赤い鞠を地面に──だむだむ──と叩きつけて跳ねさせながら言うと、おつるは人差し指を頬に当てて首を傾けながら口を開いた。


「えーっとー、あっ、ん? ──あっ、そうだそうだ! 桃太郎様に呼んできてくれって頼まれたんだよ!」


 おつるは言ったあとにハッとした顔を浮かべて桃姫の顔色をうかがった。


「……あれ……桃太郎様には、"様"をつけても……いいんだ、っけ……?」

「うん──父上にはつけて」


 おつるが恐る恐る尋ねると、跳ねさせていた鞠をピタッと両手で掴んで止めた桃姫は、さも当然だというように答えた。


「あ、あははは。うん、そうだよね。鬼退治の英雄、桃太郎様には"様"。当たり前だよね」

「うん」


 おつるがうんうんと納得しながら言うと、桃姫はまた鞠を地面にぶつけて跳ねさせ始めた。


「それでね、えーっと……桃太郎様はやぐらにいるから、早く行ってあげてね」

「うん、わかった。教えてくれてありがとう、おつるちゃん」


 跳ねる鞠を眺めながら告げたおつるに対して桃姫は答えて返すと、ふと、おつるの黒い瞳を見てから、跳ねさせていた鞠を両手で掴んで止めた。


「……おつるちゃん、どうしたの?」

「……え?」

「──なんか、いつもと違う感じがする……なにかあったなら、私に話して?」


 桃姫は穏やかな笑みを浮かべたおつるのその瞳の色に、悲しみをまとった違和感を感じて口にした。


「……うん……えっと……今日は、桃姫ちゃんのお誕生日だし、鬼退治を記念した大事な日だけど……実は、私とお母さんにとっても特別な日なの」

「……特別な日? おつるちゃんのお誕生日……は二ヶ月前だからちがうよね──あ……! おつるちゃんのお母さんのお誕生日だっ!」


 おつるの言葉から桃姫は推察して声を発すると、おつるは静かに首を横に振った。


「ううん……違うよ。桃姫ちゃんには、まだ言ってないことだから……たぶん、知らないことだと思う」

「え、なに……? ──教えてよ!」

「楽しいことじゃないから……言えない」


 桃姫は鞠を両手で強く握り締めながらおつるに問いかけるが、おつるは頑なに答えることを拒否した。


「教えておつるちゃん! 教えて! ──じゃないと絶交するよ!」

「……っ! ──それはやだ!!」


 桃姫の最終手段を聞き受けて、おつるが黒い瞳を見開いて声を上げると桃姫は真剣な眼差しで口を開いた。


「──じゃあ、教えて」

「……楽しいこと、じゃないよ?」

「うん……いいから、教えて」


 うながす桃姫に対して、おつるは深く息を吐いたあと、桃姫の濃桃色の瞳を見つめながらゆっくりと口を開いた


「……今日はね……お母さんのお姉ちゃんが──鬼ヶ島に連れ去られた日なの──」

「……っ!?」


 おつるの言葉を耳にした桃姫が、その衝撃で赤い鞠を手落とす。


「……おはるさんっていう人で、20年前のこの日……南の海辺で潮干狩りをしていたら、鬼に連れ去られてしまったって……だから毎年その日の朝は、砂浜にお線香を立てて……私とお母さんで、おはるさんの無事をお祈りするの……」

「…………」


 桃姫は呆然としながらおつるの言葉を聞き受けた。転がっていく赤い鞠が桃の木の根本に当たって止まった。


「──でも、桃姫ちゃん……! 桃太郎様が鬼ヶ島の鬼を退治してくださったから、もう大丈夫なの……! うん、おはるさんは帰ってこなかったけど、でも、もう鬼はやってこないから──」


 衝撃を受けた桃姫を安心させようと一生懸命に笑みを作ったおつるが懸命に言葉を紡ぐと、桃姫は居た堪れなくなっておつるの体をギュッ──と抱き締めた。


「──っっ」

「……ごめんなさい……! おつるちゃん……! 私、そんな大変な話、知らなかった……!」


 突然の行動に驚いたおつるに対して、桃姫は玉子色の着物を着たおつるの背中にすがるようにして声を発した。


「……ううん、あやまらないで、桃姫ちゃん……楽しい話じゃないから、私が話さなかっただけなの……」

「知ってなきゃいけなかったのに……私、おつるちゃんの大親友だから……絶対に知ってなきゃいけなかったのに……!」

「……いいんだよ……桃姫ちゃん……いいの……それに、ねぇ、桃姫ちゃん──」


 桃姫が濃桃色の瞳をうるませながら声を上げると、おつるはなだめるように優しく言いながら体を離して、桃姫の顔を見ながら告げた。


「──お誕生日、おめでとう」


 おつるが祝福の言葉と共に差し出した手のひらに乗せたそれは、小さな白い巻貝を赤い紐に通した腕飾りだった。


「今朝、砂浜で拾った一番綺麗な貝で、お母さんと一緒に作ったの」

「すごい……! 格好いい……!」


 桃姫はおつるから巻貝の腕飾りを受け取ると心の底から喜びの声を上げた。


「喜んでくれてよかった……桃姫ちゃんが私の誕生日にくれたこのかんざしみたいに、ちゃんとしたものじゃないから心配だったの……」

「ちゃんとしたものだよ! おつるちゃんが選んで作ってくれたんだから! ──おつるちゃん、ありがとう──私たち、ずっと大親友でいようね」

「うん……ずっと大親友だよ、桃姫ちゃん──」


 おつるは桃姫の言葉に強く頷いて答えて返すと、桃姫の前から離れた。


「それじゃあ、私は家に帰るから夕方になったらまた会おうね」

「うん! またね!」


 桃姫と言葉を交わしたおつるは桃の木の下から離れていき、しばらく歩いてから振り返り、桃姫に向かって手を振りながら声を発した。


「桃姫ちゃんは、桃太郎様のところに行くんだよ~! 忘れないでね~」

「うんー」


 桃姫も右手を振り返して答えると、左手に握った巻貝の腕飾りを見た。


「……おはるさんか……知らなかったな」


 呟くように言った桃姫は赤い紐を右手首に通すと、桃の木の下に転がっていた鞠を拾い上げてから、おつるが去っていった方角とは異なるやぐらが建つ村の中央に向かって歩き出した。

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