「──はい、今日はこれでおしまい……続きはまた今度ね、桃姫」
『桃太郎』と題された絵本が白く細い指でパタリ──と静かに閉じられた。
「……桃から生まれた──桃太郎っ……!」
優しく告げる小夜の膝の上に、体重を預けて寄りかかるように座った桃姫が両手を挙げながら元気よく声に出した。
「──ただいまー」
すると、玄関口から声が届き、のれんがひらりと開けられると、桃太郎が入ってきた。
「あなた、お帰りなさいませ──」
小夜が静かにほほ笑みながら夫の帰宅を迎え入れると、興奮状態の桃姫は『桃太郎』を手に取るやすっくと立ち上がった。
「──父上っ! ねえ! ねえ! ──父上は、桃の中にいたの!? ──桃の中ってどんなだったのっ!? ──桃の味はしたっ!?」
桃姫は絵本『桃太郎』を桃太郎本人に向けて突き出しながら、怒涛の質問をぶつけた。
「うっ……小夜……また、桃姫に読み聞かせていたのか。これで、何回目だ……?」
「さぁ──100回目からは数えていないです」
幼い愛娘の勢いに困惑する桃太郎に対して、小夜はくすりと笑いながら立ち上がると、炊事場に向かった。
「──ねえ! ねえ! 父上! ──なんで川から流れてきたの!? ──父上の父上と母上はどこにいるのっ!?」
桃太郎がちゃぶ台の前に置かれた座布団の上にあぐらをかいて座ると、全体重を膝の上に乗っけながら前傾姿勢で止まらない質問をぶつけてくる桃姫に向けて口を開いた。
「──私の父上と母上は、桃姫のお爺さんとお婆さんだよ。桃姫が生まれて来たその日に100歳で亡くなったと教えただろ? ──同じ日に老衰で死ぬなんて……最後の最後まで仲が良かったな」
「へえええ……え……? 桃の中から生まれて来たのに──お爺さんとお婆さんが、父上と母上……なの?」
桃姫が眉根を寄せながら考え込んで言うと、桃太郎は小夜が用意した急須からお茶を湯呑に注いで飲みながら口を開いた。
「そうだよ。というか、私は桃の中から生まれていない──お爺さんとお婆さんが不思議な桃を食べて、その日から精がついて元気に──」
「──あなたッ!!」
桃太郎がお茶をすすりながら言っていると、小夜の怒声が炊事場から居間にまで届いた。
「……ん、っと……そうだな。私が桃から生まれていたとしても、私を育ててくれたのはお爺さんとお婆さんだろ? ──だから、私にとっては父上で母上なんだよ」
「ふーん、よくわかんないけど……そっか──私も不思議な桃を食べてセイをつけて元気になりたいなー」
桃太郎の話を聞いているのかいないのか、桃姫は桃太郎の膝の上に座りながら呟くように言った。
「あなた……桃姫に変なこと教えないでください」
炊事場からお盆を運んできた小夜は、具沢山な味噌汁の入った漆塗りの器をちゃぶ台の上に三つ並べ、それぞれの器の上に長い箸を二膳、短い箸を一膳置きながら言う。
そして、畳の上に置かれていたおひつをちゃぶ台の上に置くと、白い布巾を取る。中には湯気を立てる炊きたての白い米が詰まっていた。
「はあ……もういいだろう。桃姫も明日で10歳になるのだから」
「何を言っているんですか、10歳はまだまだ子供ですよ。せめて16歳になるまでは──あなたは桃から生まれた『桃太郎』のままでいてくださいな」
桃太郎と小夜の会話など聞かず、桃姫は小夜が握り始めた白米のほうに夢中だった。
塩が入った水の器の中に指先をちょっと浸し、おひつの中のほかほかの白米をすくってそれを両手で軽快に握っていく。
以前、桃姫が小夜の真似をしておひつに手を伸ばしてみたら指先をやけどしてしまった。
それなのに、何故か小夜は表情一つ変えずに次々と皿におにぎりを並べていくのが桃姫にとっては不思議でしょうがなかった。
「……16か……16なぁ……」
「そうですよ、16です。あっという間ですよ」
湯呑のお茶をすすりつつ、桃姫の桃色の髪がふくらんだ後頭部を見ながら呟いた桃太郎に対して、小夜はおにぎりを握る手を止めずにほほ笑みながら言った。
そして、ネギ、豆腐、椎茸、大根、自然薯と具沢山な味噌汁と大皿に並べられたおにぎり、更には自家製の梅干しときゅうりの昆布漬けがちゃぶ台に揃った。
「──いただきます」
「──いただきます」
「──いただきます!」
三人ちゃぶ台を囲み、手を合わせて声を出し、夕飯の時間が始まるのであった。
「うん、うまいうまい……この椎茸は山越村のやつかな?」
「はい。これからキノコの美味しい季節ですからね」
桃太郎が味噌汁の具を味わいながら小夜と言葉を交わすと、桃姫は手に持ったおにぎりに大口を開けてかぶりつき、満足気にもぐもぐと咀嚼した。
「桃姫、先にお味噌汁を飲んで喉を湿らせてからね……じゃないと詰まっちゃうわよ」
「──んぐんぐ、うん!」
桃姫はおにぎりを口の中に入れたまま、ちゃぶ台に置いてある味噌汁の器を持ち上げずに自分の顔を近づけてズズズ──と吸って飲んだ。
「あー、桃姫。それ小夜に怒られるやつだぞ」
「……え?」
「こら! 桃姫! はしたない真似はやめなさいっ!」
「──はははは。ほーら、怒られた」
桃太郎は朗らかに笑いながら小夜に叱られる桃姫の困惑した顔を見た。
「えー……飲んでって言ったから飲んだのにぃ……」
「口答えしないの!」
「──はははははは」
三人の会話と笑い声は、開かれた格子窓から漏れる橙色の灯りと共に瓦屋根の家の外にまで漏れ出た。
そして食事が終わったあと、桃太郎が釜戸の火を竹筒で吹いて沸かした湯船に桃姫と小夜が浸かった。
「──湯加減はどうだー」
「──ちょうどいいよー」
「……えいっ」
桃姫が風呂場の隣の釜戸室にいる桃太郎の声に答えて返すと、小夜が桃姫の頭に桶でお湯を掛けた。
「──うわぁあ!」
「ふふふ……びっくりした?」
「母上ー、いきなりお湯かけないでぇー」
小夜が桃姫を胸に抱き入れながらいたずらっぽい顔で言うと、桃姫は顔を手で拭いながら抗議した。
「ごめんなさい。でも、昨日は髪の毛、洗ってなかったでしょ? だったら今晩は洗わないとね」
「──はぁーい」
桃姫は頬を膨らませながら言うと、湯船の外に頭を出した──小夜はそんな桃姫の小さな頭にお湯を掛けながら優しく丁寧に洗い始める。
「桃姫の髪の毛は……父上にそっくりで本当に綺麗な桃色よね……羨ましいわ……」
艶やかな長い黒髪を持つ小夜が桃姫の長く柔らかな桃色の髪の毛を一房手に取りながらそう言うと、桃姫は首を振った。
「──かくれんぼしてるとすぐに見つかっちゃうから嫌なの!」
「ふふふ……そんな贅沢言わないのよ──」
そして、仕上げにと思い、湯船の近くに置いておいた小さな筒を小夜は手に取った。
「……なぁに、それ?」
「──椿油の香油」
桃姫が横目で茶色い筒を見ながら言うと、小夜はほほ笑みながら答えた。
「今朝、村の商店で仕入れていたから買ったの。肥前の平戸が産地なんだって」
「……"ひぜん"? ──"びぜん"、じゃなくて?」
桃姫は自分が住んでいる備前ではないのかと思って小夜の言葉に対して疑問符を浮かべた。
「ふふふ、肥前は九州にあるのよ。そうね、備前と名前が似てるけど、ぜーんぜん違う場所」
「──ふーん……きゅーしゅーかぁ……日ノ本って大きいんだねぇー」
桃姫はわかっているのかわかっていないのか言い終わると、頭を引っ込めて湯船の中にぶくぶくと頭を沈めた。
柔らかい桃色の髪の毛がゆらゆらと湯面にただよっているのを小夜は見つめながら、椿油の小筒を元の位置に戻した。
「──桃の匂いがする髪の毛には、必要ないわね」
小夜はくすりと笑いながら言うと、桃姫と一緒にお湯の中にチャプン──と潜った。
「──おーい、二人ともー、そろそろ出てくれー」
釜戸室から桃太郎の声がしたが、その声を聞く者は風呂場には一人もいなかった──。
「──ねえ! ──私も不思議な桃を食べて、もっと元気になりたいよっ!」
風呂から上がった三人が居間に布団を敷いて寝ようと準備をしていたとき、桃姫が突如として大声を上げた。
「──桃姫は十分、元気な女の子だッ!」
「──桃姫は十分、元気な女の子ですッ!」
「……そうかなあ……?」
桃太郎と小夜の反論を同時に受けて、桃姫は首をかしげながら声を漏らした。
「夜遅くにご近所迷惑だから、あまり大きな声出さないでね」
「……はぁい」
小夜はそう言って布団を整えると、桃姫は小さな声で返事をして布団の上に座った。
「明日は村が10歳祝いのお祭りをしてくれるんだから、もう寝たほうがいいよ、桃姫」
「──うん」
桃太郎が言うと、桃姫は素直に頷いて川の字の真ん中の布団の中にもぞもぞと体を収めた。
それを確認した小夜が行燈の火を吹き消すと、居間は格子窓から入り込む月明かりによって青白く照らされた。
「……桃姫、お祭りは楽しみ?」
「楽しみ。だけど、父上。明日は私のためのお祭りじゃないって知ってるよ──明日は父上が鬼ヶ島で鬼退治をした日だもの」
「……そうだね」
月明かりの中、布団に横になった桃太郎と桃姫が天井を見ながら話していた。
「私が鬼退治を果たした10年後の同じ日に生まれたのが桃姫──だから明日は、鬼退治から20年が経った記念日──そのお祭りだ」
「……うん。ねぇ、父上? ……鬼退治の日のこと、お話して?」
桃太郎の横顔を見ながらねだる桃姫の言葉に対して、桃太郎は天井を見つめたまま表情を曇らせた。
「──あまり、思い出したくないな……」
「……そうなの……?」
「……ああ……仲間が、死んだから──」
桃姫が意外そうな顔で聞き返すと、桃太郎は天井をぼんやりと見つめながら静かな声で告げた。
「……仲間って、お供の……犬さんと……猿さんと……雉さん……だよね?」
「──ああ。それと……鬼もたくさん、退治したからね……」
桃姫が指を折って数えながら確認すると、桃太郎はそう付け加えた。
「私、知ってるよ……! 鬼は色んな村から、たっくさんの宝物と女の人を奪っていったって、だから父上が退治しないといけなかった──鬼ヶ島の鬼は、悪い鬼なんだよ……!」
「……そうだ……桃姫の言う通りだ──悪い鬼……悪い鬼、なんだよな──」
桃太郎の布団に顔をグッ──と近づけた桃姫が目を大きく開きながら言うと、桃太郎は目を閉じて呟くように口にした。
「ねえ、桃姫。父上は今日もたくさん働いてきて疲れているから……お話はおしまいにして、もう寝ましょう……ね?」
「……うん」
いい加減に聞いていられなくなった小夜が桃姫に声を掛けると、桃姫は頷いてから自分の布団の中に収まり、頭を枕の上に預けた。
そして、三人が眠気でうとうとし始めたとき、桃姫が唐突に口を開いた──。
「──父上、母上……ずっと桃姫のそばにいてね? ……桃姫が16歳になっても20歳になっても……ずっと桃姫と一緒にいてね……?」
「……いるよ。そばにいる。何よりも大切な桃姫は誰にも渡さない……」
目を閉じた桃姫が甘えるように口にすると、桃太郎は顔を桃姫に向けて強く誓った。
「……母上は? 母上も言って……?」
「うん……桃姫のことは、母上と父上が護り抜くからね。安心して、おやすみなさい……」
小夜も顔を桃姫に向けて言った。川の字で寝ているため、自ずと、小さな桃姫の体を通して桃太郎と小夜の視線が合う形となった。
「……約束だよ……約束……」
寝言のように小さく口にした桃姫は、すぐに静かな寝息を立て始めた。
「──おやすみ、桃姫──」
「──おやすみなさい、桃姫──」
桃太郎と小夜は、穏やかな顔で眠る最愛の桃姫に対して、そして桃姫越しに互いの愛する伴侶に言い合うようにそう告げた──。