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7.桃太郎

『桃太郎』 作・絵 小夜


 ──これは少し昔のお話です。備前にある花咲村という小さな村に、お爺さんとお婆さんが仲睦まじく暮らしておりました。

 ──ある晴れた日の朝、いつものように、お爺さんは花咲山へ芝刈りに、お婆さんは花咲川へ洗濯に行きました。


「──ハァ、参っちゃうね……! 参っちゃうよ……!」


 お婆さんは愚痴ばかり言いながら、洗濯物が詰まった桶をえっちらおっちらと抱きかかえて、川辺まで運びました。


「──こんな歳になってまで……! こんな重労働しなくちゃ……! ならないなんてねえ……!」


 お婆さんは草の上にドサッ──と洗濯桶を置くと、雲一つない青空に向かって腰を抑えながら伸びをしました。


「……村で子供がいないのはあたしら夫婦だけときた! ──はあ、なぁんでこんなことに、なっちまったのかいねえ……!」


 お婆さんは暖かな日差しを送り続けるお天道様をキッ──と睨みつけました。


「──ええっ!? いったい、あたしとお爺さんが何をしたって! ──言うのかねえ……はあ……」


 お婆さんはそう言って深いため息を吐くと、洗濯桶からひしゃくを取り出し、しゃがみ込んで桶の中に川の水を汲むことにしました。


「……しっかし、腹減っただなぁ……腹減ったぁ──何でもええから、腹いっぱい食いてぇだなぁ──ん?」


 お婆さんが愚痴を零しながらひしゃくで水を汲んでいると、川上から今まで見たこともない大きな桃が──どんぶらこ──どんぶらこ──と、流れて来るのを発見しました──。


「──え……? あれ……は──え? も……桃かいッッ──!?」


 驚愕したお婆さんはひしゃくを放り投げて立ち上がると、桃に向かって大声を張り上げました。


「──桃がぁっ! でっけえ桃がぁっ……! ──あ、ああ! ……どうすべか! どうすべかな……これはァッ──!」


 焦ったお婆さんは川辺を右往左往しながら叫びますが、このままでは桃は流れ過ぎてしまいます──。


「──や、やるしかねえだ……!」


 遂に意を決したお婆さんは、着物の裾をまくりあげ、草履を乱暴に脱ぎ捨てると、川の中に短い脚を踏み入れました。


「……いぎィっ! ──あ、ああ……! 冷てえ……! ──だ、だども、あんな立派な桃──滅多に喰えたもんじゃあねえッ!」


 お婆さんは桃を狙い定めた小さな黒い目をかっぴろげると、一歩また一歩──ずいずいと川の中に足を踏み入れました。


「──あんなでっけえ桃……! ああ、喰いてえ……! 喰いてえだよおッ──!」


 お婆さんはこちらに向かって流れてくる桃を睨みつけながらわめきますが、川の流れが早過ぎて思うように前に進めません。

 それでも何とか──何とか、もう一歩だけ前に足を踏み出したその瞬間でした──。


「──お、おわっっ!! ──おわァァあッッ!」


 その一歩分から、川底は深くなっていました──非力なお婆さんは川の流れに負けて、水面に浮かんだ体ごと流されてしまいます。


「──ああ、駄目だッ! ──こりゃあ、駄目だッ! ──爺さん、爺さァんッ! ──助けてくんろォッッ!!」


 川を流されていくお婆さんは、最大限の声量を発して、必死の形相でバシャバシャ──と水面を両手で叩きながら助けを求めます。

 ですが、お爺さんのいる山奥まで声が届くはずもなく、水流に押し流されるお婆さんはもはや絶体絶命の状況でありました──。


「──お助けいたしましょう──」


 ──お爺さんとは異なる、特徴的なしゃがれ声がお婆さんの耳元に届いた次の瞬間──棍棒のような太い腕がお婆さんの腕をグッ──と掴むと、軽々と水面から引き上げました。


「えっ……」


 ずぶ濡れになったお婆さんが困惑しながら振り返ると、後ろに立っていたのはお婆さんの背丈の五倍程もある赤い呪符で顔を隠した灰色肌の大男でした。

 筋骨隆々の大男は川から難なく歩き出ると、掴んでいたお婆さんの腕を離して、草の上にドサッ──と粗野に落としました。


「──おぬしは拾って参れ──」


 しゃがれた声が再び発せられると、緑の呪符を顔に貼りつけた大男がもう一人現れて、ザブザブ──と川に押し入り、流れて去っていく大きな桃を──むんず──と片手で掴み上げました。

 そして、ザバザバ──と大きな歩幅で川から歩き出ると、洗濯桶の隣まで桃を運んで、草の上にドンッ──と粗雑に置きました。


「……あらぁ」


 お婆さんは自分がずぶ濡れなのも忘れて、呆気に取られながらその光景を見ていました。


「──大事はないですかね、お婆さん──?」


 二人の大男に注意が行っていたお婆さんに対して、右手に黄金の錫杖を握った修験僧の白装束を着た老人が話しかけました──。

 骨ばって痩せ細りながらも、満面の笑みを浮かべたその老人は、白く長い髭を蓄え、同じく白く長い髪を頭の天辺で結っていました──。


「は、はいぃ……た、助かりました……どこのどなたかは存じ上げませぬが……助かりましたぁ……」


 困惑しながらも、何度も頭を下げ両手を合わせて感謝するお婆さんに対して、謎の老人は笑顔で頷いて応えました。


「──いえいえ、無事が第一。して、その桃はお婆さんが最初に見つけた桃──どうぞ、家に持ち帰って、たんと召し上がるとよろしい」


 老人は嫌味のこもっていない満面の笑みでそう言うと、お婆さんはあまりの喜びに目を爛々と輝かせました。


「そんな……! ──ありがたやぁ……! ありたがやぁ……!」

「──かかかかか……!」


 再び拝み出したお婆さんに老人は朗らかな笑い声を上げると、黄金の錫杖の上部に三つ並んだ金輪の音をチリン──と鳴らして合図を送りました。

 すると、灰色肌の大男二人は返事をするでもなく、老人の左右に黙って立ち並びました──。


「──よく晴れているから、濡れたお召し物はすぐに乾きましょうぞ──では、これにて失敬──」


 老人は終始変わらぬ満面の笑みを浮かべながら、左手で片合掌をして軽く頭を下げると、お婆さんに別れを告げました。

 そして、二人の大男に目配せすると、彼らを引き連れて、その場を立ち去ろうとします──。


「──あっ、ちょ、ちょいとお待ちを……!」


 全身びしょ濡れのお婆さんが去っていく老人の背中に向かって声を掛けると老人はぴたりと立ち止まりました。


「──なにかな?」


 背中を向けたまま応えて返す老人に対して、お婆さんは言いました。


「……あのぉ……やっぱり……助けてもらった上に桃を丸ごと頂くのは──だから……半分、おわけいたしましょう……かねえ?」

「──かかかかッッ!! ──いんや、結構、結構……! ──かかかかかっっ!!」


 老人はお婆さんにちらりと横顔だけを向けると、その白く長い眉毛を寄せて高笑いをしました。


「──そのお気持ちだけで腹がふくれましたわいの──わしらのことなどお気になさらず、丸ごと頂くがよろしい──きっと、美味なはず──」


 老人は再び片合掌をしてそう告げると、朗らかに笑いながら二人の大男共々、お婆さんの前から立ち去っていきました。


「……はあ、あんなに立派な御人が……備前にはいたんだねえ……」


 お婆さんは感嘆の声を漏らすと、草の上に置かれた大きな桃に目をやりました──熟れ切っているのであろう芳醇な香りがこれでもかと周囲に漂い、お婆さんの鼻孔を否が応でもくすぐります。

 お婆さんはうっとりとした表情で丸々とした見事な桃をしばらくの間見つめ続けました──いつの間にか濡れていた着物は乾き、朝方は憎たらしいとすら思っていたお天道様に感謝の気持ちまでもが芽生え始めました。


「……ほんに、ありがたいねえ……日頃の行いの、おかげかねえ……」


 穏やかな笑顔を浮かべたお婆さんは、真上に昇った太陽に向けて感謝の合掌をしながら、お辞儀をしました。

 ──するとその時、遠くの方から聞き覚えのある花咲村の住人の音痴な歌声がお婆さんの耳に届きました。


「──い、いけねえッッ!! ──他のもんに見つかる前に、早く持って帰らねえとッッ──!!」


 穏やかな顔つきをしていたお婆さんは、一転して血相を変えると、用心深く辺りを見渡しながら声を発しました。

 そして、洗濯桶の中身を豪快に投げ捨てて、代わりに大きな桃を乗せると、他の住人に鉢合わせしないように気をつけながら家路を急ぎました──。

 それから数時間後──夕方になって山から帰ってきたお爺さんに対して、お婆さんは大きな桃を見せながら日中に起きた不思議な出来事の顛末を話しました。


「──なんとまあ、そげなことがあっただかあ……!?」


 話を聞いたお爺さんは目を丸くして驚くと、狭い部屋の中央に置かれた洗濯桶の上で、強烈な芳香を放ち続ける大きな桃をじっと見つめました。


「──はあ……ありがたやだなあ……その御人は……仏様の化身かもしれんなあ……」

「──そうかもしんねえだ……ありがたやあ……なんまんだぶ……なんまんだぶ……」


 老夫婦は二人並んで正座すると、しばらくのあいだ立派な桃を拝み倒しました──そしていよいよ、二人して空腹の限界を迎えたその時──満を持したお爺さんが、炊事場から錆びついた大きな包丁を持って来ました。


「──お婆さんや……せっかくじゃ……桃、一緒に切らんか──?」

「──お爺さんや……なんだか……あたしゃ照れくさいのう──」


 お爺さんとお婆さんは照れた顔でそう言い合いながら、互いの手を重ねて握り締めた包丁の刃を大きな桃に押し当てて──割った桃を仲良く食べまし──。

 ──割った桃の中から、なんと玉のように愛らしい男の子の赤ん坊が飛び出して来たではありませんか──。


「──こりゃあ、たまげた──!」

「──あら、まあ──!」


 お爺さんとお婆さんは、びっくり仰天──二人は若い頃に男児を流行り病で亡くしていたため、これは仏様の粋な計らいなのだと考えて、大事に大事に育てる事に決めました──。

 そして、不思議な桃を食べたことによって精力が──そして、不思議な桃の中から産まれて来たので──お爺さんとお婆さんは、男の子の名前を〈桃太郎〉と、そう命名しました──。

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