王国南部にある『紅き眠り竜』の洞穴から東の森までは、通常なら馬の足でも三日はかかる距離にあった。その距離をわずか数十分で翔けてしまうわけだから、ドラゴンの飛行能力というものにはただひたすら敬服するより他はない。
もっとも、その旅路が快適だったかどうかは別問題で、僕は無限に続くかと思われるその数十分をただひたすら震えて過ごすことになってしまった。
情けない話ではあるが、僕にとってレザリアの背中から見下ろす光景は絶景を通り越して恐怖でしかなかったのだ。今後も状況によっては長距離を移動しなければならない局面に遭遇するかもしれないが、レザリアの背中に乗るのはあくまで最終手段ということにしたい。
「エドの温もりを感じられて、最高のひとときだったぞ」
「マスターの温もりを感じられて、最高のひとときだったよ」
僕とは対象的に、従魔の二人は実にご満悦そうだった。まあ、僕だけビビっていたことは恥ずかしいから内緒にしておこう。
ともあれ、無事に東の森に辿りついた僕たちは、その足ですぐにイヴリースたちの待つ家屋へと戻った。入ってすぐのリビングには僕たちが『紅き眠り竜』の洞穴に出立したときと変わらずアリスとイヴリースがいて、ロッキングチェアに座ったまま驚いた様子でこちらを見つめている。
「も、もう戻ったの? イヴリースの話では、南の洞窟に向かったって聞いてたけど……」
「優秀な足が見つかってね」
「マスター、ボクのことを足扱いは感心しないね」
横からレザリアに頬っぺたを抓られてしまった。いでで。
「そちらの方は、もしかして『紅き眠り竜』……?」
――と、そんなレザリアの姿を見るなり、アリスがポツリと呟く。
さすがに何の説明もなく気づかれるとは思わず、僕は思わず目を丸くしてしまう。
「え、分かるの?」
「あ、その……イヴリースが、いろいろと教えてくれて。これまでのこととか……それに、これからのことも」
「『予言』ってこと?」
「そう……なるのかしら。白狼、あなたのことも聞いたわ」
「ぬ……そうか」
レザリアの反対隣で、ファリンが少しばつの悪そうな顔をしながら僕のほうをチラリと見やる。今になって思えばさっさと話しておけばよかったのだが、けっきょくファリンの正体については話せずじまいだった。何か言い訳でもと考えかけたが、今さら取り繕う意味もない気がしたので、僕は素直にアリスに頭を下げる。
「ごめん、隠してるみたいな感じになっちゃって」
「いいのよ。気にしてないわ。もし何か事情があって隠していたなら、もうその必要はないってことを伝えたかっただけ。それに、むしろわたしとしてはちょっと安心したくらいよ」
「安心?」
「だって、あなたのそばにいる女性で人間はわたしだけってことでしょう?」
「ぬ? 人間だから何だと言うのだ?」
「ボクたちより優位性があると思ってるわけじゃないだろうね?」
おう、これマズい展開ですよ。
何かを察したらしいファリンとレザリアの瞳が怪しい輝きを帯びている。
アリスもうっかり余計なことを言ったと思ったのか、慌てて首を振っていた。
「あ、ご、ごめんなさい。べ、別に他意はないの。それより……」
「無事に竜の血を手に入れたようですね」
アリスの言葉を遮るように、今度はイヴリースが口を開く。
いつの間にかロッキングチェアから立ち上がっていた彼女は、僕ではなくレザリアのほうをじっと見ていた。
「あれ、君……」
視線に気づいたレザリアが、イヴリースの顔を見て怪訝そうな顔をする。
「何処かで会ったことある?」
「はい。お久しぶりですね、『紅き眠り竜』」
「……そうか、あのときの人間! ボクのコアを壊しにきた!」
「そうです。随分と昔の話になりますが」
えっ、マジかよ。意外な繋がりの判明である。
でも、あの洞穴のコアが破壊されたのは随分と昔の話だと聞いた覚えがあるのだが……。
「人間って、時間が経つと老いる生きものじゃなった?」
「通常は、そうですね」
「あれって何十年も昔の話だったと思うんだけど」
「そうですね。時が経つのは早いものです」
レザリアも時の流れについては言及しているが、対するイヴリースは軽く流すだけで、真面目に取り合おうという気はないらしい。
見た目には二十代後半くらいにしか見えないイヴリースだが、実はかなりご高齢だったりするのだろうか。まあ、床の上の彼女に関して言えば、確かに歴戦の猛者感はあったが。
「それより、あなたがこうしてこの地に同道してくれたということは、勇者エドワルドのもとに下ったと認識してよろしいでしょうか」
年齢について言及する間もなく、イヴリースが確認するようにレザリアに訊く。
その訊きかたに何か気に触る部分でもあったが、レザリアの顔に剣呑な光が宿る。
「そういう言いかたはやめてよ。ボクは愛を知っただけ」
「ぬう……!」
「まあ……!」
おう、そういう感じでしたか。これはマズいですよ。
「どちらでも構いません。あなたの血と魔狼の血、そして、悪魔の血が揃えば、死の呪いにすら打ち勝つ強い生命力を得ることができるでしょう」
幸いにもイヴリースはサラッと流してくれた。ありがとう、イヴリース。
「わたしの血も必要なのか?」
一方、目を丸くしたのはファリンである。ここにきて自分も血を取られるとは思ってもいなかったのだろう。
竜の血に加えて魔狼の血、さらに悪魔の血か。
悪魔の血というと、あのやけに元気になってしまうシキルの血液のことが思い出されるが……。
「これよりあなたたちの血を用いて霊薬をつくります。死の呪いにここまで抗することもできたのは、ひとえに勇者エドワルドの持つ力ゆえ。ですが、それもいつまで保つかは分かりません」
「そういえば、今のところ何ともないけど……」
何となく、自分の胸のあたりに視線を向ける。
服の下に隠れているために今は分からないが、僕の胸に不可思議な紋様状の痣が浮かび上がっているのは純然たる事実で、それが死の呪いだと言われれば、まあそうなんだろう。
ただ、実際にそれで何か体に変調をきたしているかと言われれば、とくにそういったことはない。正直なところ、本当に死の呪いだなんて大それたものなのかどうかも疑わしく感じられるほどだ。
「勇者エドワルド。あなたには、自身の身を……いいえ、あなたを取り巻く全てのものを護るための強い力が備わっています」
ふと、イヴリースの顔がゆっくりとこちらを向き、僕を見つめるその目がすっと細められる。
その視線に何処か不気味なものを感じた僕は、背筋に走る冷たい予感を誤魔化すように肩をすくめながら訊く。
「それは僕の勇者の《加護》が持つ力ってこと?」
しかし、イヴリースは薄く笑みを浮かべたまま首を振った。
「いいえ。その力は、勇者にあらず……」
そして、静かに告る。
「それは『英雄』の力。神が授けし、あなただけが持つ特別な《加護》の力……」
「英雄……?」
そういえば、僕の《加護》の刻印はもう随分と前に変化していて、それが何を意味するのかこれまでまったく分かっていなかったが……。
「……あれ?」
――と、そのときである。
急に胸が苦しくなるような感覚にに襲われ、いきなり膝から力が抜けてその場にくずおれた。突如として心拍も激しくなり、それに伴って呼吸も荒くなる。
何者かによって心臓を鷲掴みにされているような、そんな痛みにも似た感覚である。激しい目眩に視界が歪み、あっという間に膝立ちでいることすら辛くなってきた。
「エ、エドッ!? おい、どうなっている!? 貴様、エドに何かしたのか!?」
「センパイ、落ちついて!」
頭の上からファリンとレザリアの声が聞こえてくる。
だが、その声すらもうここではない何処か遠くでのやり取りのように感じられた。
「急ぎましょう。シキル、起きてください」
「ふぁい……おあようございま……まあ! 勇者さま!」
「アリスフェルン王女、先にお話した手順で、皆の血液を集めてください」
「え、ええ。了解よ」
「シキル。部屋の準備を。すぐにはじめます」
「はいっ!」
立て続けに扉の開く音がする。もう僕の視界には床の木目しか見えず、バタバタと駆け回るみんなの足音だけがやけに騒がしく響いている。
「エド、大丈夫か!? くそっ……わたしの血でよければいくらでもくれてやる。レザリアよ、貴様も相違ないな!?」
「センパイ、ボクのことはレジーって呼んでよ。その『名』で呼んでいいのはマスターだけ」
「ええい、そんなことは今はどうでもよい!」
「まあいいけど……もちろん、ボクも問題ないよ。それでマスターが助かるなら安いもんだし。でも、もしマスターが助からなかったときは、イヴリースとか言ったっけ。君たちも無事では済まさないよ?」
「はい。もし勇者エドワルドが没したときは、そのまま遠慮なくすべてを焼き尽くしていただいてけっこうです。わたしも勇者エドワルドなき未来には興味がありません」
「何でもいい! 早くエドを助けてやってくれ! エド! 大丈夫か!? わたしの声は聞こえているか……!?」
誰かが僕の体に優しく触れている感覚がする。おそらくはファリンだろう。
ただ、僕にはもうその言葉に答える気力すらなく、真っ白に染まった視界の中でいよいよ完全に床の上に倒れ込んでしまった。
そこから先のことは、よく覚えていない。