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第二七章 我慢の限界

 扉を潜って辿り着いた洞穴の風景に見覚えはないが、この国で竜の血を確実に手に入れられる場所なんて限られているし、そこが何処であるかくらいは最初から検討がついていた。おそらくは『紅き眠り竜』の棲家だろう。

 もともとはダンジョンだったそこは洞穴といってもやけに広々としていて、薄暗くはあるが閉塞感は感じない。風景に見覚えはなくともその雰囲気には何処か懐かしさを感じるものがあり、何となく懐かしい思いに浸っていると、僕の後ろでバタンと扉が閉まる音がした。振り返ると、そこにあったはずの扉がなくなっている。

 なるほど、イヴリースの言っていた片道というのはこういうことか。まあ、要件が終わったらまた元の姿に戻ったファリンに送ってもらえばいいので別に問題はないが……。


「……エド」


 ふと、先に洞穴の中に足を踏み入れていたファリンが、こちらに背を向けたままポツリと僕の名を呼ぶ。

 そして、やけにゆっくりとこちらを振り向いてくると、何かを堪えるように唇を噛みながらキッと僕の顔を睨んできた。


「どうやらレベルが元に戻ったのは本当のようだな」

「分かるんだ?」


 僕が訊くと、ファリンはギュッと拳を握りしめながらますます鋭い眼差しを向けてくる。


「気配がまるで違う。それに、何より……」


 そう言いながらファリンは自分の足下でも睨むかのように俯くと、そのまま頭突きでもするかのように僕の胸許へと飛び込んできた。


「匂いが違う! ただでさえ甘美なおまえの匂いが、まるで熟れた果実のごとき芳醇さを醸し出しているのだ! これまでは女の匂いに紛れることもあったが、もはやどれだけ女の匂いがつこうとおまえの匂いを感じないことはない! わたしが……わたしがあの部屋で、どれだけ衝動を抑えることに難儀していたことか!」


 ファリンが凄まじい勢いで僕の胸許に顔を押しつけてきて、僕はその勢いのままバランスを崩して尻餅をついてしまう。

 レベルが戻った影響で僕の匂いが強くなるなんてなかなか意味不明な話だが、彼女の感じている『匂い』というのは単純に体臭やそういったものではないのだろう。


「ああ、わたしだけのご主人さま……やっと、やっと二人きりになれた……竜の血なんてどうでもいい……もうずっとこうして二人っきりで……」


 ファリンはもうすっかりスイッチが入ってしまったようで、荒い息を吐きながら僕の首筋やら顎先やらをペロペロと舐めはじめている。完全に犬化しているのだが、本人にその自覚はあるのだろうか。


「そうは言うけど、竜の血を持って帰らないと死んじゃうかもしれないしさ」

「くっ……許せぬ……! 我が主の命を縛って己が目的のために利用するなど……!」

「まあ、僕の自業自得な部分もあるけど」

「そうだぞ! むしろ、ほとんどはおまえの軽率な行動が原因であろう!」

「でも、僕がレベルを奪わなければ、君とこういう関係になることだってなかったよ」

「うっ……ご主人さまぁ!」


 さらにファリンが強くのしかかってきて、いよいよ僕は完全に押し倒されてしまう。薄暗い洞穴の中、僕の顔を見下ろすファリンの潤んだ瞳だけがやけにキラキラと輝いてみえる。


「もうよい。わたしはもはや完全に壊されたのだ。どれだけ腹が立とうとも、こうしておまえの匂いに包まれているだけでたちまちに心が満たされてしまう。ああ、でも、ご主人さま、せめて今はわたしだけを見て……」


 ファリンが縋りつくように僕の唇を奪ってきて、僕もそんな彼女の体を優しく抱き返す。やはり僕はギャップに弱いところがあるようで、こうしてすっかり塩らしくなってしまったファリンを見ていると、何だか無性に愛おしくなってしまう。


「ファリン……心配しなくても、君が望むかぎり僕はずっとそばにいるよ……」

「ああ、エド……わたしの愛しいご主人さま……」


 なるほど、今さらになって思い出したが、あの夜はきっとこんな感じに僕はファリンに愛を囁いたのだろう。

 すっかりスイッチが入ってしまった僕たちは、そこが竜の棲まう場所であることも忘れて互いの体を求め合っていく。


     ※


「しばし元の姿に戻りたいのだが、頼めるか?」


 薄暗い洞穴の中というムードにかける場所でたっぷりムーディに愛し合った僕たちは、少しの休憩を挟んでようやく洞穴を進みはじめた。

 先の一言があったのは、それから程なくしてのことである。この先、竜の棲家に辿り着けば戦闘になる可能性は高いし、ファリンとしてもそのときに備えたいのかもしれない。鼻の効く彼女であればすでに標的との距離も把握できている可能性がある。


「どうすればいいんだろう。もとの姿に戻ってもいいよって思えばいいのかな」


 何となく、かつて望むと望まざるとに関わらずシノギを削り合っていたフェンリルの雄々しき姿を想像する。考えてみれば、当時はそもそも雌だなんて知らなかったし、こんな関係になるだなんて露ほども思わなかったな。


「ぬ……いけそうだ。やはり、エドの意思次第で戻れるようだな。少し離れておれ」


 ファリンに言われて僕が少し距離を取ると、それを合図にしたかのように彼女の体が光の渦に包まれはじめた。そのまま少しずつ大きくなっていく光の渦がやがて閃光をまき散らしながら炸裂し、本来のフェンリルに戻ったファリンが悠然とその姿を見せる。


「……長く人化しすぎたせいか、いよいよこちらのほうが違和感が出てきたな」

「よく見るとこっちの姿もモフモフしてて可愛いね」

「ぬっ……こ、こちらの姿でも、その、情欲を感じたりするのか?」

「いや、それはないけど」

「ぬう……」


 さすがに僕でも許容限界はあるぞ。


「まあよい。それより、少し時間をもらうぞ」


 ファリンは特に気にした様子もなく、何を思ったのかその場に伏せをする。すると、彼女の獣毛が風もないのにゆらゆらと揺らぎはじめ、仄かな光とともにその獣毛が少しずつ体から抜け落ちて宙を漂いはじめたではないか。

 さらその獣毛は風に乗るようにファリンの頭上へと集まり、やがて糸のように絡まり合って一反の布地を紡いでいく。

 まるで純白のマフラーのようだ。ファリンの体毛のように見る角度によっては黒くも見える不思議な色合いで、何か特別な力でも秘めているのではないかと錯覚するほど神々しい。


「あの女に外套を渡してそれっきりであったろう。これからは我が獣毛で紡いだこの布をまとうがよい」


 ファリンがそう言うと、宙に浮いていたその純白の織物がゆらりと僕のほうまで舞い降りてきて、そのまま僕の首許に巻きついてきた。実際に身につけてみると思った以上に布地としての面積があって、マフラーと言うよりはケープに近いかもしれない。


「これを僕に?」

「うむ。肌身離さず身につけておくことだ」

「なんかいい匂いがする」

「ぬっ……!」


 僕がマフラーの匂いをスンスンと嗅いでいると、ファリンが面食らったようにピョコンとその場に飛び上がり、そのまま光に包まれてもとの姿に戻ってしまった。

 その顔は薄暗い中であってもそうと分かるほどはっきりと真っ赤になっていて、前回もそうだったが、感情の昂りがあると元の姿を保っていられなくなるらしい。

 ファリンはそのまま僕の体に飛びついてくると、何を思ったのか脇の下あたりに顔を突っ込んできて執拗に匂いを嗅ぎはじめる。


「お、おまえばかりずるいぞ!」


 どうやら、そういうことらしい。何とはなしにファリンの髪や頭から生えている耳のあたりを嗅いでみると、マフラーと同じちょっといい香りがした。香水の香りのような上品なものではないが、お日さまをたっぷり浴びた芝生のような香りがするのだ。


「あっ……ダメ、ご主人さま……またイケナイ気分になっちゃう……」


 またあっさりスイッチの入ってしまったファリンが僕の首筋にキスをしてくる。

 その吐息は熱く、僕の顔を見上げる瞳はすっかり劣情に染まっていた。こうしてトロトロになっているファリンはこの上なく愛らしいが、しかし、こんな風に少し進んでは休憩を繰り返していたのでは一向に前に進めない。


「ファリン……」

「いや、いやっ……ご主人さま、お願い……」


 僕はやんわりとファリンの体を離そうとするが、もうファリンのほうはすっかりその気になっているようで、反抗するように僕の体を強く抱きすくめてくる。

 彼女にとっては本気で竜の血などどうでもいいのだろう。この欲求に忠実すぎるところはファリンの美徳ではあるが、こういうときは少し困りものかもしれない。

 それに、こうやって甘えてくるのもずるい。僕は無理やり迫られるよりも甘えられるほうが弱かったりするので、こんな態度に出られるとあまり強く突っぱねられないのだ。もしやとは思うが、ファリンは本能的にそのことを察しはじめているのだろうか。


「……ヒトのねぐらで何してんのさ」


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