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第二四章 死の呪い

「……これはさすがに予想外でした。シキルが夢中になるのも仕方ありませんね……」


 耳許で囁かれた言葉に、僕はハッとして目を開いた。

 どうやら気を失っていたらしい。実際のところ、イヴリースの体に飛びついてからの記憶はほとんど残っていなかった。

 声のしたほうに顔を向けてみると、すぐそこに彼女の顔があった。その顔は初めて見たときよりも幾分か生気が感じられて、奇妙なたとえだが、ちゃんと人間の顔に見える。それまでは、蝋人形か何かが不思議な力で人間の真似事でもしているのではないかと少し疑っていたくらいだった。

 そのままぼんやりとイヴリースの顔を見ていると、彼女はクスッと笑って、それから僕の唇に軽く口づけをしてきた。まだ名前くらいしかろくに知らない相手のことを決めつけるのもどうかと思うが、彼女のほうからそんなことをしてくるとは思わず、僕は少しドキッとしてしまう。


「もう人間であることも、女性であることも捨てたつもりでしたが……」


 そう言いながら、またイヴリースがキスをしてきて、そのまま僕の背中に腕を回して優しく抱擁してきた。


「やはりあなたは違うのですね、勇者エドワルド。運命すら狂わすあなたなら、わたしを狂わすことなど造作もないということなのでしょう……」


 言葉を続けながらも、何度も何度も愛おしげにキスをしてくる。最初に抱いていた印象とあまりに違いすぎるそのそのギャップに、僕はただただドキドキすることしかできない。


「あなたは……」


 やがて満足したのか、ふーっと長めの息を吐きながら、イヴリースが僕の胸許に視線を落とした。つられて見下ろすと、先ほどまでイヴリースの胸許に浮かんでいたはずの紋様上の痣がいつの間にか僕の胸に現れていて、代わりに彼女の胸許からは消失している。


「あなたは死にます。この呪いを解かないかぎり」


 そう言って改めて僕に満面の笑顔を見せると、イヴリースは再び愛おしげに僕の唇にキスをしてきた。


     ※


「レベルを奪われ、新たに呪いをかけられ、おまえは本当にダメなご主人さまだな」


 そう言って僕を見るファリンの顔は、もはや怒りを通り越して呆れているようだった。

 本当に情けない話である。今回に限っては男としても情けなかった。

 イヴリースは僕に残酷な事実を告げたあともすぐには解放してくれず、むしろそこからが本番だとでも言うかのように徹底的に僕の体をねぶり尽くしてきた。アリスもその方面では強い女性だと思っていたが、それすらもおままごとに見えてくるレベルである。あそこまで完全に主導権を奪われるのは僕の人生においても初めてのことで、あのままいつまでも満足してくれなかったら、呪いの発動を待つまでもなく僕は死を迎えていただろう。

 一方、僕がイヴリースから開放されてもとの部屋に戻ってきたとき、少なくともファリンとアリスに関してはとくに変わった様子は見られなかった。ただ、イストリエに関してはもう完全にできあがっていて、それまで着ていたローブの代わりに僕の外套を体に巻きつけながら、ロッキングチェアの上ですっかりグニャグニャになっている。


「ひょっとして、あれからずっとこの調子だったの?」

「ぬ……? まあ、そうだが」


 僕の質問に、何故かちょっと首を傾げながらファリンが答えた。

 体感的には数時間どころの騒ぎでは済まない時間が経過していると思うのだが、そんなに長いことこの調子だったとしたらさすがに恐れ入る。


「こちらでは十分程度しか経っていないのでしょう。シキル、そろそろシャンとなさい」

「んんっ……!? おひひょうはま……!?」


 外套は噛んだまま、イストリエが慌てて顔を上げる。もうこれは彼女にあげよう。いくら綺麗な女性ゆかりのものとはいえ、唾液やまみれの外套を着るのはさすがに気が憚られる。

 扉から出てきたイヴリースは最初に着ていた暗灰色のローブを再び身にまとっており、その表情もあのまったく正気を感じないものに戻っていた。その雰囲気はベッドの中にいたときとはもはや別人で、実は僕の知らないところで本当に別の誰かと入れ替わっていると聞かされても素直に信じてしまいそうだ。

 というか、今の話を鵜呑みにするなら、イヴリースは時間すら操るというのだろうか。人の命すら呪いでどうにかしてしまう彼女であれば、あるいは時すら超越することも可能なのかもしれないが……。


「あなたが……『予言の魔女』?」


 部屋から出てきたイヴリースをじっと見つめながら、アリスが訊く。

 イヴリースは静かに微笑みながら、ゆっくりと頷いてみせた。


「ええ、そうです。こうしてお目にかかるのは初めてになりますね、アリスフェルン王女。わたしのことは、イヴリースとお呼びください」

「イヴリース……!? そんな……では、あなたはかつての……!?」


 アリスの顔が驚愕に染まる。

 どうやら彼女はイヴリースという名に聞き覚えがあるらしい。


「ご記憶にとどめていただき、ありがとうございます。おそらく今の王室でわたしの名を覚えている者は、先王の遺児であるあなたくらいでしょう」

「お父さまがよく嘆いてらっしゃったわ。かつて宮廷に在りし二人の至高の術師、そのうちの一人がイヴリース……権力闘争に腐心する貴族院やそれを抑えられない王室に失望して隠棲されたと聞いていたけど……」

「本当であれば、そのまま隠棲しているつもりだったのですよ。ですが、わたしには光が見えてしまったのです。この国を照らす光が……」


 そう言うイヴリースの目が、何故か僕に差し向けられた。

 不思議と彼女が僕の顔を見ているときだけはその暗い瞳の奥に情念に似た光が宿っているような気がして、はからずも僕はドキドキしてしまう。

 実はギャップに弱いのだろうか。それとも、本能的に身の危険を察しているのか。


「……ぼ、僕?」

「下半身の欲望に負けて、レベルも命も奪われるような情けない男がか?」


 ファリンが横から半眼で睨んでいる。

 何だかんだでしっかり怒ってるな。あとで埋め合わせを考えねば……。


「そうです。このままでは、あなたは死にます」


 一方、イヴリースはにっこりと満面の笑みで言った。

 理由は不明だが、こういうときだけ底抜けの笑顔になるのが本当に怖い。


「死の運命から逃れたくば、竜の血を手に入れなさい」


 恐れ慄く僕に、再び真顔に戻ってイヴリースが言った。


「竜の血……?」

「そうです。あなたであれば、手に入れることも容易いでしょう」

「それが呪いを解いてくれる条件ってこと?」

「そう考えていただいて、問題ありません」


 イヴリースは静かに頷き、その口の端をニィッと歪めた。怖い。

 ともあれ、竜の血か。付呪師なり錬金術師なりが呪術の媒介や薬品の調合に用いたりすることくらいは知っているが、高価な上に流通量も極端に少ない稀少品である。

 もっとも、入手ルートについては心当たりがあった。ただ、それはレベルが健在だったころの話であり、今の僕でどうにかなるものではないという問題があるのだが。


「死の呪いを預かり受けていただいたお礼に、あなたのレベルをお返ししましょう」

「……えっ!? ほんと!?」


 僕の心を読んでいたかのように、イヴリースがそんなことを申し出てくる。

 マジかよ。それは願ったり叶ったりである。こんな形であっさりと返してもらえるのは少し拍子抜けだが、とはいえ、死の呪いを新たにかけられているわけだから、むしろレベルくらい返してもらわないと割に合わない話ではあるか。


「シキル。待たせてしまったわね。さあ、あなたのレベルを勇者エドワルドにお返ししてさしあげなさい」

「ああ、ああ、ついにこのときがきたのですね!」


 イストリエが何やら歓喜した様子でロッキングチェアから立ち上がる。

 それと同時に先ほどとは別の扉がバタンと音を立てて開き、さらに僕のほうへと駆け寄ってきたイストリエが無理やり腕を掴んでくると、ものすごい勢いでその部屋のほうへと引っぱっていく。


「さあ、勇者さま、勇者さま! すぐにはじめましょう! わたくしのほうはもうずっと準備ができているのです!」

「き、貴様! エドをどうしようと言うのだ!」


 ファリンが引きずられる僕の体に慌てて飛びついてくる。た、たすけて、ファリーン!


「邪魔をなさらないでください! わたしはこのときをずっと待ち焦がれていたのです!」


 しかし、イストリエが怪しい眼光を放ちながらファリンを睨みつけると、次の瞬間には勢いよくファリンの体が後方に弾き飛ばされていた。

 人化しているとはいえ、フェンリルをこのようにあっさりと弾き飛ばすなんて――。


「んなっ……!? ば、バカな! 貴様、その力は……!」

「お忘れですか? 今のわたしには勇者さまのお力が宿っているということを」

「くっ……! エドッ!」


 驚愕するファリンの顔が目の前で閉じられた扉によって見えなくなり、呆気にとられる僕はそのまま信じられない膂力でベッドのほうに放り投げられる。

 そして、上から飛びついてきたイストリエによってあっという間にその身を剥かれてしまうと、まるで初めて彼女と夜を過ごしたときと立場を逆転させたかのように優しく全身を愛撫される。


「ああ、ああ、なんと逞しい体、この肌触り、甘やかな汗の香り……夢にまでみた勇者さまがついに我が手の中に!」

「あ、あの……?」


 僕の外套も何処かに放りだしていたのか、すでに一糸まとわぬ姿のイストリアが興奮したように全身のこすりつけてくる。

 一方の僕はそもそもが弾切れな上に早すぎる展開にまるでついていけておらず、イストリエの淫靡で過剰すぎるスキンシップにも興奮するより先にドン引きしてしまっていた。


「存じております。きっとお師匠さまとの営みでお疲れでしょう。ご安心ください。わたくしの血を舐めれば、たちまちに力を取り戻すことでしょうから」


 今度はそう言ってイストリエが自分の親指の先に歯を立てると、うっすらと血の染み出しはじめたその指先を無理やり僕の口の中に突っ込んできた。

 もちろん飲むつもりなどなかったが、彼女の指先に滲んだ血液が僕の舌に触れた瞬間、全身に電流が走ったかのような強烈な衝撃に苛まれる。

 それと同時に頭の奥のほうがのぼせたようにぼんやりとしはじめ、体の奥底から少しずつ温度が上がっていくような感覚とともに、元気を失っていたそれも僕の意思とは無関係に起立しはじめた。


「ああ、ああ、なんと雄々しい……この瞬間をどれほど待ち侘びたことか……勇者さま、あの夜からずっとずっと想い焦がれておりました。わたしの『真名』は『シキル』……どうかシキルとお呼びください」

「シキル……」

「ああ、勇者さまぁ……」


 イストリエ——シキルが感極まったように漏らしながら僕の唇に貪るようなキスをしてきて、気づいたときにはすっかり元気になったそれが彼女の体を貫いていた。


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