「まだだ! まだ足りぬ! ええい、この後に及んでまだ別の女の匂いをつけて帰ってくるとは! バレぬとでも思うたか! このうつけ! うつけご主人さまめ!」
ミュリエルの屋敷に帰るなり僕はファリンに寝室まで引きずり込まれ、本当に何も出なくなるくらい徹底的に搾り取られた。正直、血を見るかと思ったほどだ。僕がそこまで完膚なきまでに干からびても、まだしばらくファリンは無理やり僕のそれを起立させようと奮闘していた。
その間、アリスのほうは屋敷つきの家政婦に案内されて湯浴みをしていたらしく、おかげでファリンによって執り行われた蛮行が彼女の耳目に触れることはなかった。ただ、どうせなら湯浴み直後の彼女の麗しい姿も一目くらい拝見したかったし、そういう意味では少し間が悪くもあったかもしれない。
日が暮れるころにはミュリエルも研究所から帰ってきて、僕たちは彼女にアリスのことと明日からの予定を説明した。
アリスの顔を見た瞬間のミュリエルの表情が随分と異様な感じだった気もするが、それがどういった理由によるものかは訊いても教えてくれなかった。まあ、アリスが何処か良家の子女であることは間違いないだろうし、王都暮らしが長いミュリエルのことだから何処かで顔を見たことくらいはあったのかもしれない。
夕食後、ミュリエルに僕の呪いに関する報告を聞くことになっていたが、先に湯浴みを済ませたいということで、急に手持ち無沙汰になってしまう。昨日に続いて今日もファリンは爆食からの爆睡と三大欲求に忠実すぎる姿を晒しているし、こうなったらアリスに相手でもしてもらうか。
「今日は、いろいろとありがとう」
屋内にアリスの姿が見えないので何とはなしに二階のテラスに向かってみると、彼女はそこで一人風に当たっていた。
金糸のように美しい髪が夜風にそよぎ、陶器のように滑らかな肌が月明かりの下でほんのりと光って見える。その佇まいは匂い立つほど高潔で、僕のような怠惰で自堕落な人間は見ているだけで目を焼かれる気分だった。
「別に大したことはしてないさ。ほとんどはファリ……ええと、白狼がうまくやってくれただけで」
「そうね。彼女にも礼を言わないと。でも……ふふ、こんなこと言ったら笑われるかもしれないけれど、冒険者ギルドであなたに助けられたときは、子どものころに絵本で読んだ英雄が現れたのかと錯覚してしまったわ」
「よかった。いつも君みたいな綺麗な女の子を救う英雄になりたいと思ってたんだ」
「あら、本当? でも、それだと綺麗じゃない女の子はどうでもいいってことかしら」
「この世に綺麗じゃない女の子なんていないから、僕にはちょっと分からないな」
「……ふふっ、おかしな人」
アリスはそう言って嫋やかに笑った。ううむ、月明かりのせいもあるのだろうか、びっくりするほど美しい女性だな。
「……わたし、実は家出してきたの」
テラスの柵に手をかけて城下町の夜景を眺めながら、ポツリとアリスが言った。そんなことは出会ったころから分かっていたし、まるで一大告白のように言われたところで反応に困るのだが、とりあえず僕は表面上だけでも驚いた風の顔をしておく。
「どうして、家出なんかしたの?」
僕が訊くと、アリスは天上の月を見上げるように遠い目をしながら答える。
「お告げがあったの。もう何年も前のことだけど、こくお……いえ、その、『父が倒れたら、東の森にいる『予言の魔女』を訪ねよ』って……でも、まわりの人たちにそんな話をしたところで誰も信用してくれるはずがないし、もう自分の力でどうにかするしかなかった」
「お父さんが倒れたんだ? 病気か何かで?」
「ええ……まあ、そんな感じね。その、ちょっと複雑な事情があるんだけれど……」
アリスは少し言葉を濁す。その複雑な事情とやらに興味がないわけではないが、あまり立ち入ったことを訊いて彼女を困らせるのも本意ではない。
「君はそのお告げを信じてるわけだ?」
ひとまず僕は、当たり障りのないことから訊いてみることにする。
「父が倒れるまでは、ただの夢だろうと思ってたわ。でも、最近になって、またわたしの夢枕に『予言の魔女』が立ったの」
「お告げというのも、その『予言の魔女』が?」
「ええ。こんな話、もちろんすぐに信じてくれるとは思っていないわ。でも、本当かどうか確かめるためにも、わたしは東の森に向かわなくてはならない……」
「疑ってなんかいないさ。こうしてせっかく君が話してくれたことに疑念を抱くくらいなら、最初から騙されて痛い目を見るほうが僕には合ってる。もちろん、そんなことにはならないと信じてるけど」
僕はゆっくりとアリスの隣まで歩いて行き、彼女がどういった反応をするか窺ってみる。さすがにアリスも僕の言葉を額面どおりに受け取ってはいないだろうが、それでもその顔に警戒心のようなものは窺えない。
「あなた、本当に不思議な人ね。いつもそうやってのらりくらりと人の心の隙間に入っていくの?」
「さあ、どうかな。でも、もしうまく君の心に滑り込めたなら、ひとまずは大成功ってところだろうね」
「わたし……わたし、今ほど自分の世間知らずを呪ったことはないわ」
そう言ってこちらを見上げるアリスの瞳は、夜空に舞う星々を反射してキラキラと輝いていた。その頬がほんのりと上気していることにも、彼女の震える唇が何かを期待していることも分かっていて、しかし、僕はもう少しだけ意地悪をする。
「君の知る世間には、僕みたいな悪い男はいなかった?」
「ええ、そうね……わたしにもう少しばかり男性に対する免疫があれば、きっとこんなに心が乱されることもなかったでしょうに……」
「僕に協力できることなら、何でもするけど」
「意地悪ね。あなたにできることなんて、何もないわ」
「……本当かな?」
鼻先が触れるくらいに顔を近づけて、じっとアリスの瞳を覗き込む。静かなテラスにアリスが息を飲む音だけが響き、その瞳が激しく揺らいだ。彼女の唇が何かを求めるように薄く開かれ、僕は堪えきれずにその唇にキスをする。
驚いたように目を見開くアリスだが、そこに拒絶の色は感じられない。アリスの手が何かを求めるように僕の体に触れ、そのまま僕たちは互いを求め合うように抱き寄せ合いながら、月明かりの下で何度も何度も口づけを交わしあう。
さすがにこのまま押し倒すにはまだ少し準備不足を感じるが、前段階としては十分すぎる成果だろう。
「一つだけ言わせて……」
もう数えるのも億劫になるほどの口づけを交わしたあとで、ポツリとアリスが言った。
「きっといつかあなたは、わたしの心を奪ったことを後悔するわ」
「それは『予言』かい?」
「ええ、そうよ」
言いながら、アリスはまた僕にキスをしてきて、たっぷりと味わうように僕の唇を弄んだあとで、嫋やかに微笑みながら言った。
「これは『予言』……アリスフェルン・ディエ・ジェノア=レリンというとても偉大な預言者が残した、逃れようのない『予言』よ……」