無事にシェリーの顔を見ることはできたが、依頼の報酬精算というもう一つの用事はまだ残っている。いつまでも入口の前で人集りを作っていては邪魔になるだろうし、いったん僕たちは建物の中に入ることにした。
王都の冒険者ギルドはさすがに広々としており、依頼板などはランクごとに複数の掲示板が用意されている上、パーティメンバーを募集するための掲示板なども別途設置されているようだった。
おまけに食事や冒険前の作戦会議に使えそうなラウンジのようなスペースも備えられていて、ひとまず僕はその一角にファリンと一緒に腰を落ち着けると、壊れかけの彼女が正気を取り戻すまで辛抱強く手を握ったり背中をさすったりし続けた。
「うううっ……」
やがて、ファリンの瞳に光は戻ってきたが、今度はボロボロと泣き出してしまった。
実に感情の起伏が激しい犬である。というか、フェンリルって泣くんだな、なんてことを暢気に考えつつも、僕は涙に濡れるファリンの頬にそっとキスをする。
「ごめんよ、ファリン」
「許さぬ! ぜったいに許さぬ!」
ダンッダンッ! ——と、ファリンが泣きべそをかきながらテーブルを叩く。頼むからうっかり叩き壊すのだけはやめてくれよ。
「なんと情けないことか! おまえのことも許せぬが、ここまで容易く心乱される我が弱さもまた許せぬ! だが、これだけははっきり伝えておくぞ! おまえがどれだけ他の女になびこうと、わたしは絶対におまえのそばを離れぬからな! わたしがおまえに呪われているように、おまえもわたしに呪われていると心得よ!」
ボロボロと大粒の涙を流しながら、それでも憤怒にその顔を染めてファリンが吼えた。
よかった。すっかり元気そうだ。互いに互いを呪い合うような関係だなんて、そんなことは最初にこうなったときから覚悟している。重要なのはそれが僕に取って御しやすいかどうかであって、幸いにもファリンのこの気質は感動的なくらい御しやすい。
「大丈夫。この先、僕がどれだけたくさんの女性と出会って、ひとときの時間を分かち合うことがあったとしても、僕の隣を共に歩んで行くのは君だよ」
「んんっ……そんな、そんな上辺だけの言葉で……!」
僕が再びファリンの頬にキスをし、ファリンも潤んだ瞳でこちらを見つめ、それから改めて僕たちは唇を重ね合う。ラウンジの衝立がうまくまわりの視線を塞いでくれるが、たまたま席の近くを通った冒険者が僕たちの様子に気づいてギョッとしている。
「ダメ……ご主人さま、わたし、もう……」
「いや、さすがにここでは別の意味でダメだけどね」
夢中になって唾液の交換をしているうちにすっかり蕩けてしまったファリンがその場で服を脱ぎ出しそうになり、僕が慌てて制止する。
責任の一端は僕にもあるのだろうが、ファリンにもまだ人間的な常識に欠けるところがあって、油断しているとのっぴきならないことになる。
――と、そのときである。
「東の森なんかよりも、この近くのダンジョンに行こうぜ。最近できたばかりのダンジョンだから、何かお宝があるかもしれねえ」
「いいえ、東の森に行かなくてはならないの。わたしは冒険がしたいわけではないのよ」
不意に何処からか押し問答をするような声が聞こえてきた。
片方の声に聞き覚えがあるような気もするが……。
「やめとけよ。あんた、慣れてなさそうだから知らないんだろうが、東の森は『黒狼』の縄張りだ。このあたりの情勢を知ってる冒険者はまず近寄らねえ」
また別の人物の声が聞こえてくる。
ラウンジの衝立から身を乗り出して声のするほうを覗き見てみると、先ほど別れたアリスが何人かの冒険者にかこまれて問答をしている様子が窺えた。
「それくらいは存じています。でも、どうしても東の森に行かねばならないの。誰かわたしと共に行ってくれる冒険者はいない?」
「そんなに護衛が必要なら、あんたがギルドに依頼を出しゃいいじゃないか。おそらくAAAランク……それでも受注されなくて、Sランクに昇格しちまうかもな」
「そんな……」
「なあ、そんなことより俺たちと行こうぜ。お嬢ちゃんみたいなどう見ても経験の浅い冒険者は、まずは俺たちみたいなベテランと一緒に行くのが安全だ」
アリスをかこんでいた冒険者の一人が、下卑た笑みを浮かべながらその体に触れようとする。それを察したアリスが反射的にその手を払いのけるが、その反応に男は瞬時にその顔色を変貌させる。
「テメェ、親切にしてやろうってのに、どういうつもりだ!」
「ご、ごめんなさい。でも、あなたのほうこそ急に……」
「こっちは自ら死にに行こうって世間知らずなお嬢さんを必死にとめてやってんだぜ!? それを無碍にするってぇのはどういつもりだ!? あぁ!?」
「ご、ごめんなさい……」
アリスはすっかり萎縮してしまっている。彼女をかこっている冒険者たちはいずれも同じパーティの面々のようで、皆一様に下卑た表情を浮かべながら様子を見守っていた。
ギルド内には他にもたくさんの冒険者の姿があるが、その光景を遠巻き眺めながらも仲裁しようとする者まではいないようで、僕はひとまず隣のファリンの顔を見やる。
「ぬ……助けるのか?」
「そりゃ、女の子が困ってるみたいだからね」
「ふん。好きにするがよい」
ファリンが何処か不服そうに唇を尖らせながらもそう答え、許可を得た僕は喜び勇んで衝立を乗り越えると、そのまま颯爽とアリスたちのもとへと駆けつける。
僕から言わせてもらえば、困っている女の子がいるのに助けないなんてことは常識的に考えてあり得ないことだ。そもそもいっちょ噛みするだけで手軽に好感度を稼げるこんな機会を逃すなんて、正気の沙汰とは思えない。
「なんだてめグフォっ!?」
僕はいの一番にアリスに絡んでいた男の顔面を殴り飛ばした。レベルによる『影響力』はもちろん人間相手でも適応されるが、今の僕はむしろ弱いほうなので、遠慮なく全力で殴りかかることができる。
「て、テメェ!」
「いきなりなんだオラァ!」
「やっちまえ!」
僕の奇襲に最初は驚いていた冒険者たちも、すぐに気勢を上げて殴りかかってくる。とはいえ、東の森ごときでグダグダ言っている程度の連中が僕に触れられるはずもなく、ものの五分もしないうちに全員残らず床の上に沈んでいた。拳が痛え。
「ちょ、やりすぎよ! ……でも、助けてくれてありがとう。あなた、強いのね」
アリスには少し非難の目で見られてしまったが、その瞳の奥に仄かに信頼の輝きが宿るのを僕は見逃さなかった。着実に好感度は稼げたはずだ。ひょっとしたらこれを機に高貴な身分の子女と懇ろになれるやもしれん。
「エド……」
――と、いつの間にか追いかけてきていたらしく、ゆらりと背後にファリンの影が立つ。
ま、マズい。さすがに今は少し自重したほうがいいかもしれない。とはいえ、好感度を稼ぐこと自体は別に問題ないだろう。これはある種の種まきのようなものだ。
「東の森に行きたいんだって?」
ひとまず僕が訊くと、アリスは重々しく溜息を吐きながら頷いた。
「ええ。東の森に、どうしても会わなくちゃいけない人がいて……」
「僕たちが一緒に行こうか?」
「なぬ?」
「えっ、でも……」
「僕じゃ頼りないかな?」
「あ、いえ、ごめんなさい、そういうわけでは……」
アリスは否定したが、やや困惑ぎみなその表情を見るに、どうやらそういうことらしい。
ファリンのあの謎の氷術を見れば僕たちがただ者でないことくらい想像がつきそうなものだが、まあ、あれだけですべてを察せよというのは無理があるか。
それに、僕だって過去はどうあれ今はレベル12というちょっと初心者に毛が生えたレベルの冒険者でしかないことは純然たる事実である。
「東の森には、もう『黒狼』はおらぬ」
不意にファリンがポツリと言った。
そういえば、少し前に『黒狼』はファリンが喰らってしまったのではなかったか。
「えっ……その、ごめんなさい。どういうことかしら?」
アリスは明らかに信用していない様子で、訝しむようにファリンの顔を見つめる。
「そのままだ。『黒狼』は『白銀の魔狼』によってすでに喰らわれておる」
「そんな……でも、そんな話は……」
「なかろうよ。当然のことだ。『黒狼』の身はすべて『白銀の魔狼』の血肉となった。魔の者同士の争いゆえ、討滅の報も立ちようがあるまい」
「ど、どうしてあなたはそこまで詳しいの?」
「知りたいか」
「ファリン」
「内緒だ」
「ええ……?」
ずるりとアリスがつんのめった。ファリンは不服そうに頬をプクッと膨らませているが、素直に僕の言うことを聞いてくれたことだし、あとでしっかりヨシヨシしてやろう。
「どのみち、他にあてがないなら僕らを頼ってみてもいいんじゃないかな? 僕はそこまでだけど、こっちの彼女は信じられないくらい強いんだ」
改めて僕が言うと、アリスはしばらく考え込むように俯いていたが、やがてその顔を上げながら口を開く。
「……そうね。何度も頼りにさせてもらって申し訳ない気もするけど、他に頼れる人もいなさそうだし……」
言いながらアリスが横目でギルド内に視線をめぐらせ、もうすでに僕たちへの関心を失っているまわりの冒険者たちの姿に失望にも似た溜息を漏らしていた。先ほど絡んできた冒険者たちはまだ床の上でのびているが、それすらも気にされていないようだ。
「よし、それじゃ即席パーティの完成だ。東の森となるとここから三日くらいかな。出発は明日でもいい? 挨拶をしとかなきゃいけない人がいるんだ」
「それが、その……わたし、いろいろとあって今は家に戻れないの。できればすぐにでも出立したいのだけれど……」
僕の申し出に、アリスが少し難色を示す。何やら事情があるらしいが、近衛術師団から追われていたこともあるし、やはり家出同然で飛び出してきたのだろうか。
「なれば、我らが拠点としている屋敷に貴様もくればよい」
「え……?」
「部屋の数にはゆとりもあろう。家主も事情を話せば理解してくれるのではないか」
そこで、ファリンが横から助け舟を出してくれる。ナイスアシストだ。
実際、僕にもそれは良案に感じられた。あれだけ広いお屋敷なら居候が一人や二人増えたところで変わらないだろうし、おそらくミュリエルも僕が新しい女の子を連れ込んだくらいではゴチャゴチャ言わないはずだった。
「で、でも、いいの? 迷惑じゃないかしら……」
「いいんじゃないかな。長旅とまではいかないけど、帰りのことも考えたらやっぱり準備はちゃんとしておいたほうがいいだろうし」
「……それはそうね。確かに、わたしも焦りすぎて考えが及んでなかったわ。それじゃ、甘えさせてもらってもいいかしら」
改めて申し出てくるアリスに頷き返すと、僕たちは冒険者ギルドを出ていったんミュリエルの屋敷に戻ることにした。往復一週間弱の旅路ともなれば旅糧などの準備もしなければならないし、場合によっては改めて携行品の買い出しに行く必要もあるかもしれない。何だか大事になってきたような気もするが、まあ楽しめればよしとしよう。
それはそれとして、屋敷までの帰り道の途中で依頼の報酬精算を忘れていたことを理由に僕だけの冒険者ギルドに戻り、まだ仕事中だったシェリーをあの手この手で呼び出して一時の逢瀬を楽しんだことだけは僕だけの秘密である。
「この程度で埋め合わせができたなんて思わないでよ?」
「僕の人生なんて、君への埋め合わせのために存在してるようなもんだよ」
「よく分かってるじゃない。こんなの、まだまだ全然足りないんだから」