「おまえの魅力はわたしが一番よく理解している。我が盟主たる男なれば、人間の雌を魅了せしめるなど容易きこと。わたしをここまで狂わせる男を前に、どうして人間ごとき下等なる者が正気を保っていられようか。つまり、これはある種の必然。分かっている。分かってはいるが……」
ファリンは朝からずっとこの調子である。
もう十回は同じ台詞を聞かされていると思う。
「ちゃんと屋敷を出る前に相手してあげたじゃん」
「馬鹿にしおって! あの程度で足りると思うたか!? 昨夜はいったい何度あの女を抱いたのだ!? 五回か!? 十回か!? その倍は抱かれねばわたしの気は晴れぬ!」
「朝からそんなに頑張れないよ」
「ぬうううっ!」
ファリンは人目も憚らず地団駄を踏んでいる。
王都にきて二日目、仕事に行くというミュリエルと別れたあと、僕たちはその足で王都の冒険者ギルドを目指していた。別に急ぎの用があるわけではなかったが、そろそろ前回の依頼の報酬が受け取れるかもしれないし、タイミングがよければシェリーと顔を合わすこともできるかもしれない。
シェリーとファリンが顔を合わせたらどんな化学反応を起こすか、少し怖い気もするが、一方で少し楽しみな部分もあった。こんなことを言うと顰蹙を買うかもしれないが、ヤキモチを焼いている女の子の姿自体は単純に可愛らしいから好きなのだ。
とはいえ、さすがに朝っぱらから抱くだの何だのと喚き散らしているファリンには困りもので、平穏な城下町の風景の中にあってはすでにかなりの異彩を放ちつつある。ただ、おかげで彼女がフェンリルだと思う人間はまずいないだろうという謎の安心感も芽生えていた。もし同族がファリンの姿を見たら卒倒するかもしれないが、そもそもフェンリル族の個体数なんてドラゴンよりも少ないと言われてるくらいだし、そうそうニアミスする機会もないだろう。つい最近まで西と東で二体もいたこの国が少し異常なのだ。
「とはいえ、あの女の家で食べた食事は至上の美味さと言わざるを得なかった。食事だけはまた世話になってもいい」
「まあ、当面は彼女の家で寝泊まりする予定だけどね。呪いの解析結果とかも聞かないといけないし」
「なぬ? であれば、今宵もあの料理の品々を味わうことができるのか……!」
ファリンが涎を啜りながら瞳を輝かせはじめる。先ほどまでプンスカしていたくせに、欲求に忠実な犬だ。これで自分は人間よりも崇高な存在だと信じてやまないのだから、本当に恐れ入る。もっと理性を持て、理性を。
「ぬ……?」
——と、不意にファリンの視線が前方に向けられた。
つられて見やると、道ゆく人々の合間を縫うようにして、一人の少女がこちらに向けて駆けてきている。まるで何かから逃げているかのようだが、王都の城下町なんていうこの上なく治安のいい場所で誰かに追いかけられるなんてことがあるのだろうか。
「そ、そこの人たち、わたしを匿って!」
「ええ?」
何故かその少女は、僕らの姿を見るなり助けを求めるようにそう言った。
な、何故だ。他にも都合のよさそうな者たちは他にもいるだろうに。
「うむ。近うに寄れ」
「わ、分かったわ!」
しかし、何故かファリンのほうはびっくりするほど素直に従った。そのまま少女を自分のそばまで手招きすると、不思議な術を使って氷の膜のようなものの中に閉じ込めてしまう。
思わずギョッとする僕だが、見る見るうちに少女を包み込んだ氷晶はまわりの風景に溶け込んでいき、目を凝らして見ないと分からないくらいほとんど透明になってしまった。もしや氷の表面の微妙な凹凸で光の屈折角を調整しているのだろうか。
「おい、そこの者たち!」
ほどなくして、今度は随分と豪奢な身なりの男たちがゾロゾロと押し寄せてきた。肩章のついたその装衣は王立国軍の中でも精鋭とされる近衛術師隊が身につけるもので、僕はまたしてもギョッとしてしまう。
そんなご立派な方々が徒党を組んでまで追いかけてくるなんて、この少女はいったい何者なのだろう。というか、ファリンの正体もうっかりバレたりは……しないか。ミュリエルですらその正体までは看破できなかったのだから、おそらくよほど高位の術者でもないかぎりそちらの心配はないだろう。
「な、何かご用でも?」
ひとまず僕が聞くと、近衛術師隊の中で階級章つきの肩章をつけている男性が周囲に視線をめぐらせながら言った。
「このあたりで身なりのいい少女を見かけなかったか? 金色の長い髪をした、美しい容貌をした娘だ」
「それなら、そこの角を曲がっていったのを見たぞ」
僕ではなくファリンが、右手のほうに見える交差路を見やりながら言う。
しかし、男性はその言葉に訝しげに眉を顰めた。
「それは本当か? その少女がお前たちに声をかけているところを隊の者が目撃しているらしいのだがな」
「隠れる場所はないかと訊かれたから、その先に空き倉庫があると伝えたのだ。信じるかどうかは貴様らの判断に任せるがな」
「……そうか。情報提供に感謝する。おまえたち、行くぞ」
男性はまだ少し納得していなかったようだが、それでも愛想のないファリンの様子からそれ以上の情報を引き出すことは不可能だと判断したのだろう。男性はそのまま仲間たちに指示を出すと、交差路のほうに向かって走り去って行った。
「あ、ありがとう。で、でも、そろそろ降ろしてもらえる?」
——と、今度は頭上から声がする。
見上げてもパッと見は何も見えなかったが、目を凝らしてみると先ほどの少女を包み込んでいた氷晶がいつの間にか宙に浮かび上がっていた。なるほど、これは気づけないか。
ファリンがチラリと視線を向けると、音もなく氷晶が砕け散り、解放された少女がパンツを丸見えにさせながら自由落下してくる。僕は慌ててその体を抱きとめるが、今度はそれを見てファリンが怒声を上げる。
「な、何をしている!」
「いやだって、あの高さから落ちたら怪我しちゃうよ」
「この女なら、それくらいの受け身は取れよう!」
「え? そうなの? ていうか、知り合い?」
僕は腕の中で目を白黒とさせる少女を見下ろし、それからプリプリと不機嫌さを露わにするファリンの顔を見やる。
「い、いえ、初めてお見受けするわ。その、ありがとう。助かりました。もう大丈夫」
少女が自ら地面に足を下ろし、乱れた衣服を整えながらホッと息を漏らす。
改めて見ると確かに身なりはよさそうで、急所を護るだけの最低限の装甲を施されたその装衣などは、一見すると騎士見習いでもしている良家の子女のように見えなくもない。
近衛術師隊に追われるくらいだから、王家に連なる貴族のお嬢さまがお城なりお屋敷からの脱走でもはかったのだろうか。
しかし、なんだってファリンは即断でこの少女を庇おうなどと思ったのか。
「あの、助けてもらったついでに、もう一つお願いがあるのだけれど」
これで一件落着と思っていた僕の予想に反して、少女はまだ僕たちとの関係を断ちたくないようだった。今度はいったい何だろう。綺麗な子ではあるし、お近づきになれるのであれば何だってする所存だが。
「わたしを冒険者ギルドに連れて行ってほしいの。また先ほどの者たちと遭遇する可能性もあるし……」
「分かった。ともにいこう」
「ええっ?」
もとより断るつもりはなかったが、またしてもファリンが先に即答した。な、何故。
ともあれ、少女はホッとしたように小さく息をつきつつ言葉を続ける。
「ありがとう。わたしはアリス……そう、アリスよ。こう見えて、いちおうは勇者の加護を授かっているの」
なんと。こんなところで僕以外の勇者とご対面できるとは。
ひょっとして、ファリンはそのことを匂いか何かで感じ取ったからここまで素直に従っていたのだろうか。
「わたしのことは『白狼』と呼ぶがいい。この者はエドワルドだ」
僕の代わりに自己紹介までしてくれた。というか、今後は人前で『白狼』と名乗るつもりなのか。まあ、通名がないと不便ではあるのだろうが。
「分かったわ。よろしく頼むわね、白狼、エドワルド」
「うむ。先ほどの者たちを近くに感じればすぐに匿うゆえ、あまり離れず歩くことだ」
「ええ、了解よ」
何故かすでに信頼関係が構築されているように思える。いったい何故。
僕が訝しむようにファリンの横顔を見つめていると、その目がギロリとこちらを睨んだ。
「……五回か!? 十回か!?」
え!? これって当てつけなの!?