「バークレイ教授はただいまご多忙でして……」
「エドワルドが会いたがってるって伝えてくれないかな」
王立神魔研究所は、エントランスに入った時点でそうと分かるほど騒然としていた。窓口の奥では内線がひっきりなしに鳴り響いているし、職員も慌ただしそうに出入りを繰り返している。
僕自身も受付を済ませてから窓口に呼び出されるまで、すでにかなりの時を待たされていた。その上で、目的の人物は多忙だからと門前払いされかけている状態だ。
何か色々と間が悪いタイミングなのかもしれないが、こっちだって火急的な事態であることには変わらない。ここまで待たされたのだから、せめて取り次ぎくらいはしてほしいところだった。
「……はい……ええ、エドワルドと名乗っていて……えっ?……あ、はい……」
幸いにも話の分かる職員だったようで、二十分くらい押し問答を繰り返したら渋々と内線をかけてくれた。
やりとりをしている最中、不機嫌さを隠しもしないこの職員の態度には思うところもあったが、僕の名を『バークレイ教授』に伝えてくれるのであれば、今回は目を瞑ろう。
「しょ、承知しました……そのようにお伝えします……」
やがて、受話器を握る職員の顔が戸惑いの色に染まる。
この職員にとっては予想外で、僕にとっては予想どおりの会話がきっと受話器の向こうでは繰り広げられている。
「失礼いたしました。バークレイ教授はご多忙につき手が離せないため、西館三階の執務室まで直接お越しいただきたいとのことです」
すっかり恐縮した様子で、職員が告げた。まさかこのような展開になるとは微塵も想像していなかったのだろう。
もっとも、僕から言わせればまったく逆で、こうなることは最初から確信していた。ミュリエル・バークレイは僕が会いにくれば必ず時間をつくってくれる女性だし、そのために僕はあしがけ五十分も粘ったのだ。
「人間の社会はかように面倒なものだな」
待っている間、意外にもファリンはずっと大人しくしていた。いや、正確に言えば僕の手や頭や脇の下の匂いを嗅いでいたりはしたが、少なくとも人に迷惑をかけるような真似はしなかった。
「まわりに気づかれたりしてないかな?」
「どうであろうな。訝しげにこちらを見る術師の視線は感じたが、敵意のようなものは感じなかったように思う」
ちらりと周囲に視線をめぐらせながら、ファリンが言った。
まあ、連れの体臭をひたすら嗅ぎ続ける変な女がいれば、誰だって不審に思うくらいはするだろう。
「仕方なかろう。ここまで人間の匂いが多いとさすがに落ち着かんのだ。今のわたしは自由に元の姿に戻れるわけでもないしな」
「それと僕の匂いを嗅ぐことと、何の関係があるのさ」
「知れたことを。最愛の盟主の匂いを嗅ぐことでわたしは心の安寧を得ているのだ。んんん……何度嗅いでも堪らぬ」
ファリンが歩きながら強引に僕の脇の下に顔を突っ込んできて、たまたますれ違った研究所の職員がギョッとしたように目を見開く。
仮にファリンの正体がバレていないとしても悪目立ちをしてしまうこと自体は避けられないようで、僕はやけに天井の高い廊下を歩きながら陰鬱に溜息を吐く。
というか、すっかり従魔気分だが、あれは表向きだけの話ではなかったのか。
「む、そこか」
——と、三階まで階段を昇っていくつかの角を曲がったところで、不思議なことが起こった。
僕が何も言っていないのに、ファリンが目的地である部屋の所在に気づいたのだ。
部屋の扉がここまで見かけたどの部屋のものより豪奢だったからそれで判断したのかも知れないが、どうにもファリンの視線は扉ではなくその奥に続く部屋そのものを見透かしているように感じられる。
「分かるの?」
「いや、何となくだ。明らかに他とは違う匂いがする。おそらく向こうもすでに我々には気づいているだろう」
「そんなことも分かるの?」
「当然だ。むしろ、おまえは何も感じないのか?」
「さっぱり」
「暢気な……それでよく今までわたしと渡り合えてきたものだな」
「僕に分かることなんて、目の前の女の子が僕にとって都合のいい子かそうでない子かってくらいだけどね」
「ぬっ! なんだか心がゾワッとする発言だな!」
ファリンがその髪をブワッと逆立たせながら僕を睨みつけてくる。
ただの軽口のつもりだったが、少し迂闊だったかもしれない。すっかり牙を納めているせいで忘れがちになるが、今の僕の生殺与奪権を握っているのは間違いなくファリンのほうなのだ。
不用意に機嫌を損ねるのは危険だろう。うっかり余計な一言が口を突きそうになる前に、僕は慌てて部屋の扉をノックする。
「どうぞー」
中から返答があり、僕はそのまま扉を押し開ける。それと同時に古びた紙とインクの匂いが突風のように押し寄せてきて、僕は意味もなく故郷の村でよく遊びに行っていた図書館の憧憬を思い出す。
その部屋は、パッと見で分かるほど書物で埋め尽くされていた。中に入って真っ先に目につくのは、左右の壁を埋め尽くす無数の本棚である。さらにそこに収まりきらなかったであろう書物が数々が、床の上に乱雑に積み上げられている。
部屋の一番奥には窓があるらしいが、その前には分厚い暗幕がかけられていた。光源は天井から吊り下げられた魔導ランプのみで、その光量も部屋全体を照らすには心許なく、まだ昼間だというのに室内は薄暗い。
「久しぶりじゃない。わたしの体が恋しくなっちゃった?」
改めてそう声をかけてきたのは、部屋の主、ミュリエル・バークレイである。部屋の奥に設えられたデスクの向こうで、蠱惑的な笑みを浮かべながらこちらを見つめている。
ミントグリーンの長い髪にあまり健康そうには見えない白い肌、小さな丸ぶち眼鏡の奥の瞳は琥珀色で、気怠げに見えるその顔立ちには同時に何処か妖艶さも漂っていた。
歳はまだ二十代半ばほどだったはずだが、王立神魔研究所で単独の研究室を持つ『国家術師』の一人であり、若き天才付呪師としてその界隈では有名な人物である。
「君のほうこそ、そろそろ僕を恋しがるころじゃないかと思ってさ」
挑発には挑発で返すのが僕の流儀だ。僕はミュリエルの視線を真正面から受けとめながら、薄く笑って応じる。
「あら、よく分かってるじゃない。本当なら、わたしのほうからメイガスの街に遊びに行こうかと思っていたくらいよ。それなのに、昨日から急に忙しくなっちゃって」
「そうらしいね。だから、受付で小一時間くらい待たされてでも顔を見に行ってやらないとなって思ってたんだ。僕に会えないフラストレーションで仕事にならなかったら、困る人もいるだろう?」
「嬉しいわ。いっそ仕事なんて投げ捨てて、今すぐ二人っきりで旅にでも行きたい気分よ」
「ぬう!」
蚊帳の外にされていると感じたのか、ファリンが後ろから僕の尻を抓ってきた。いてえ。
というか、凄い形相をしている。まさかとは思うが、ヤキモチを妬いているのではあるまいな。あるいは先ほどの軽口に対して立腹していたのも、自分を軽んじられたからではなく単に嫉妬から怒りに駆られていただけなのか。
「可愛らしい子を連れてるわね。さすがのあなたでも種族の壁を越えるほどの広い守備範囲を持ってるとは思わなかったけど」
こちらを見つめるミュリエルの視線が、僕からファリンのほうへゆらりと動く。
「食わず嫌いはよくないからさ。今は一番のお気に入りさ」
「ぬ……」
「あら、妬けるわね。シェリーちゃんが聞いたら、どう思うかしら?」
「いや、まあ、それは……」
「ぬ?」
痛いところを突かれる。この話題はあまり続けるべきではないな。
「あなた、随分とうまく人間に化けてるようだけど、ひょっとしてライカンスロープ? あるいはケット・シーとか?」
焦る僕をよそに、ミュリエルはその興味を完全にファリンのほうに移したようだ。
ファリンは耳の先をピクッと動かすと、まるで感情を押し殺したかのような低い声音で答える。
「そのような下等な者どもと見紛われようとはな……屈辱的ではあるが、それだけわたしの力の制御が卓越したものであると考えることもできようか」
「あら、気に障ったかしら? よかったら、参考までにあなたがどんな種族か教えていただけると嬉しいんだけど」
一方、ミュリエルは余裕たっぷりに微笑んでいた。
どうしよう、あまりよくない状況な気がする。ミュリエルは自分がどれほど恐ろしい相手を前に挑発めいた物言いをしているのか、おそらく理解していない。
討伐難度Sランクの魔物というのは、基本的に軍隊が相手をするレベルの脅威である。いくら『国家術師』である彼女でも、フェンリルを一人で相手にできるほどの力は持っていない。
つまり、もし機嫌を損ねたファリンが何かの弾みで暴れ出そうものなら、その時点で誰も彼女をとめることはできないのだ。万が一にでもそういう予兆があれば、もう僕が体を張るしかないだろう。
それはそれとして、そろそろファリンは僕の尻を抓るのをやめてほしい。これ以上は本当に千切れる。
「知りたくば、教えてやろう」
——と、不意にファリンが、低く冷たい声で言った。
その瞬間、ゾワリと背筋に悪寒のようなものが走り、場の空気が一気に張り詰める。
「我は魔狼。『白銀の魔狼』フェンリルなり。我が盟主の御前ゆえ無為な血は流すまいが、本来であればすでにその首、失われていて不思議はないものと心得よ」
心弱き者ならば見つめられただけで絶命するのではないかというほど凄絶な眼差しで見据えながら、ファリンがミュリエルに告げる。
周囲の温度が一瞬で氷点下まで下がったと錯覚するような異様な空気が場を満たし、気づいたときには僕は腰の長剣に手を伸ばしていた。
今さらファリンに斬りかかろうとは思わないが、これはもはや本能だ。
ミュリエルも状況の変化にはすぐに気づいたようで、椅子が倒れるのほどの勢いで立ち上がると、傍らに立てかけてあった杖を手に身構えている。
ただ、その顔は何かの冗談かと思うほど蒼白で、もはや彼女に正常な判断力が残っているかどうかは疑わしかった。
この調子ではファリンが大人しくしていても、今度はミュリエルが暴走する危険性がある。ここはもう僕が体を張るしかない。覚悟はしていたが、やはりこうなるのか。
「ファリン!」
僕は長剣の柄から手を離すと、即座にファリンの体を抱きしめた。
「んあっ……!?」
「えっ……」
「よーしよしよし!」
僕はそのままファリンの背中をひたすら優しく愛撫する。
興奮している動物はこうやってあやせばいいと何処かで見た覚えがあるのだ。それが正しい情報かどうかなんて僕には分からないが、今はやるしかない。それに、ファリンには絶対に通用するだろうという謎の確信があった。
「あ、あっ……だ、だめっ……エドぉ……!」
ファリンはすっかりフニャフニャになって僕の腕の中に収まっていた。
異様な気配を察した研究所の警備員や職員が緊迫感も露わに詰めかけてきたが、そんな僕たちの熱い抱擁を目にして皆一様に怪訝な顔をし、時には互いに顔を見合わせながら不可解そうに首を傾げて立ち去っていく。
「た、助かったわ。ごめんなさい、少し軽率だったみたい」
場の空気がすっかり落ちついたころ、ぐったりと肩を落としながらミュリエルが言った。
その額にはびっしりと脂汗が浮かんでいて、前髪の一房がペタンとくっついている。
「でも、まさかフェンリルを使役しているなんて思わないじゃない? あなたがそういった高位の魔物たちと何度も剣を交えていることは知っていたけど……」
「成り行きでさ」
「冗談じゃないわ。成り行きでフェンリルを従えられるような人間なんて、ここ数百年の歴史を見ても存在しないわよ」
「だったら、僕の名を刻んでおけばいいさ。ついでに人類で初めてフェンリルを抱いた男かもしれないって注釈もつけといておくれよ」
「あなた……えっ、本当に……?」
ミュリエルが筆舌しがたい表情で僕を見つめ、その肩からズルリとローブがずり落ちる。
別に冗談と思って聞き流してくれてよかったのだが、ミュリエルは意外にも額面どおりに僕の言葉を受けとったようだ。
まあ、すっかりに骨抜きになって僕にすがりついているファリンの姿を見れば、ただの冗談でないことくらいは想像もつくか。しかし、この駄犬はどうしたものか。
「ああ、エド……わたしだけのご主人さま……」
自分の足ではしっかり立てないほどグニャグニャになりながら、ファリンが譫言のように呟いている。
少なくとも、今のコイツを見てその正体がフェンリルだと察せられる者はいないだろうな……。