王都ジェノア=レリンは、メイガスの街から馬の脚であれば一日足らずで辿り着ける距離にあった。
距離的に近いこともあって交流は盛んであり、双方の間を行き来する馬車は一日に何度も往来しているし、王都行きであれば片道利用も可能な貸し馬屋があったりするくらい交通の便もいい。
だが、あいにくと僕たちにそれらの交通手段を利用することはできなかった。
というのも、本能的にファリンの正体に気づいた馬たちがその姿を見るなりすっかり怯えてしまい、馬車に近づけば馬が暴れるわ、貸し馬屋に行けば馬が厩舎から出てこなくなるわといった有り様だったからである。
「わたしが元の姿に戻れるのであれば、背中に乗せてひとっ走りなのだがな」
王都まで続く街道を歩く道すがら、ファリンがそう言って溜息をついた。
仮にファリンが元の姿に戻れたとして、フェンリルの背に乗るなんて恐れ多いことがはたして本当に許されるのだろうかとは思う。
まあ、そのフェンリル本人からの提案に口を挟むだけ野暮かもしれないが、もしそんな姿を道行く人に見られでもしたら、少なくとも変な風聞を立てられることだけは避けられない。あるいは『勇者エドワルドはフェンリルすら従える猛者である』なんて噂になってさらにモテモテになってしまう可能性もあるが……。
「ぬ……?」
そんなことを考えていると、不意にファリンが足をとめた。
何やら不思議そうな顔をして自分の体を見下ろしているが……。
——突如、その体が光の渦に包まれる。
何事かと思わず目を見張る僕の前で、光の渦はどんどん大きくなっていく。
そして、その光が炸裂するかのように周囲一帯が純白に染め上げられたと思うや否や、先程まで人の身であったはずのファリンの姿が何故か元の魔狼のものに変貌していた。
「お、おお……!? も、戻れたぞ!」
「な、なんで急に?」
「何故か急に戻れるような気がしたのだ。まるで誰かがわたしに『元の姿に戻れ』と言っているような感覚がして……」
「ええ? 『神の声』みたいな?」
「分からぬ。だが、確かに神から許しをいただいたような不思議な感覚ではあったが……」
魔狼の巨軀を取り戻したファリンは、懐かしむように自分の体を見下ろしながらくるくるとその場でまわって見せた。
「うむ。やはりこの姿はこの姿で落ち着くものだな」
「この姿のほうが、じゃないの?」
「最近は人の身でいることのほうが多いと言っただろう。コアとの繋がりを失った魔物は存在を維持するだけでも消耗していくのだ」
なるほど。そういえば、南に縄張りを持つ『紅き眠り竜』も「起きてるとお腹が減るからできるだけ寝てる」とか言っていた気がする。
(そういや、あいつも元気にしてるかな……)
何となく、かつて何度となく剣を交えた強く怠惰な魔物の姿が脳裏に思い出される。
『紅き眠り竜』はいわゆるレッドドラゴンと呼ばれる種の魔物で、ファリンと同様に護るべきコアはすでに破壊されて久しいが、その怠惰な性格ゆえか、今も自分が生み出されたダンジョンをそのままねぐらにして惰眠を貪り続けていた。
(まあ、アレを倒せる冒険者がいるとは思えないけど……)
僕はこれまでに何度か冒険者ギルドからの要請を受けて『紅き眠り竜』の討伐に向かったことがあるのだが、不覚にもそれらはすべて失敗に終わっている。
あまりに頑強すぎる表皮のせいで、どれだけ大量に武器を持ち込んでもすべてダメになってしまうのだ。
冒険者ギルド側に何度か有効そうな『古代遺物』級の武器をよこせと要求したこともあるが、あいにくとその要請が通ったことはなかった。
こちらから手を出さなければ被害といっても家畜や農作物を喰らわれるくらいだし、貴重な『古代遺物』を提供するくらいならもう一種の天災だと思って諦めてしまおうということなのだろう。近隣の農村からすれば傍迷惑な話であるが。
「よし、それではさっそく我が背中に乗るがよい。ここから王都までなら一瞬で辿り着けよう」
ともあれ、ファリンは意気揚々とそんな提案をしてきた。
「そんなにかっ飛ばされたら、僕のほうが飛んでっちゃうよ」
「しっかりと全身全霊で我が背に抱きつくのだ。向かい風は我が術によって防ぐゆえ、最初の加速さえ耐え切れればそれほど苦労はすまい」
そう言いながら、ファリンが伏せをして上に乗るよう促してきた。僕は諦めてその巨躯によじ登ると、うつ伏せのような姿勢をとってギュッと全身をその背中に押しつける。
こんなふうに街道のど真ん中でフェンリルが大人しく伏せをしている姿というのは常識的に考えて異様以外の何ものでもないし、その背中に人間が乗っているだなんて光景も長い歴史の中でなかなか類を見ないものだろう。
幸いにも街道に僕たち以外の人の姿はないが、こんなところを誰かに見られたりしなくて本当によかった。
「ああ……背中にエドの温もりを感じる……」
ゆっくりと立ち上がるファリンは、何故か艶めいた声でそんなことを呟いている。大丈夫かな、この犬……。
「よ、よし、行くぞ。しっかり強くわたしの背中を抱きしめるのだぞ?」
「はいはい」
抱きしめるという表現に違和感を感じつつも、うっかり本当に振り落とされてしまうわけにもいかないので、僕は言われたとおり『しっかり強く』ファリンの背中にしがみついた。
「んんっ……だ、だめっ……!」
やけに甘ったるい吐息とともに、ファリンが疾駆する。
何がダメなのかはさっぱり分からなかったが、少なくともその初速に関しては間違いなく『ダメ』なものだった。少しでも油断していたら慣性に耐えきれずおいてけぼりにされていたことだと思う。さすがにもう少し加減してほしい。
もっとも、加速がひと段落するころには周囲を見る余裕も出てきて、街道を行き交う馬車や旅人の合間を風のように駆け抜けていくその様子はなかなかに壮観だった。
あまりに早すぎるせいで道行く人は突風が吹いたとしか思っていないようだったが、ひょっとしたら世間的に突風だと認識されている現象のいくつかはこうして高速で移動する魔物だったりするのかもしれない。
しかし、ここまで加速するのはいいとして、とまるときはいったいどうするつもりなのか。
「見えてきたぞ!」
ファリンの声に顔を上げると、前方に王都ジェノア=レリンの城壁が見えてきた。
そのままファリンは向きを変えて街道を離れ、右手のほうに見える森のほうへと進路を取る。
「この姿のまま城門近くに行くわけにはいかぬ。まずはあの森に向かうぞ」
ファリンがそう言った瞬間、不思議なことが起こった。僕の体の下から彼女の姿が消えたのである。
見えなくなったのではない。本当にいなくなったのだ。僕は空中に投げ出されたまま、慣性に従って空中をまっすぐ森に向かって飛んでいた。
「ぬええっ!?」
まさかファリンが今さら僕に反旗を翻したなどとは思わないが、はたしてこれはどういうことか。
呪いを受ける前の僕であれば高レベルゆえの『影響力』を頼りに何か打開策を考えたのだろうが、今の貧弱な僕に為せることなど皆無である。
ファリンに何か考えあってのことだと祈りながらも今ひとつ確信を持てないまま空を裂いていると、やがて前方に森の木立が迫ってきた。このままの勢いで木の幹にでもぶつかろうものなら、間違いなく僕は死ぬ。
ボフッ——。
すっかり覚悟を決めて目を閉じていた僕だが、意外にも激突した木の幹は表面がモフモフとしており、痛みはほとんど感じなかった。何事かと目を開けると、眼前に柔らかそうな白い毛に覆われた幹がそびえ立っている。
はて、こんな木なんて生えていただろうか。不思議に思いつつ触り心地のいい幹の表面を無心に撫でまわしていると、何処からか甘い声が聞こえてきた。
「んんっ……エド、やだっ……」
そこでようやく気づいた。これはファリンの尻尾だ。
僕が慣性によって何処まで飛んでいくか、あらかじめ計算していたのだろう。その上でさらに自身だけ加速して先まわりし、自慢の尻尾で僕を受けとめてくれたわけだ。何て優秀な犬っころであることか。せっかくだからもう少し尻尾を撫で撫でしてやろう。
「う、うそっ……! だめ、だめっ……! これ以上は、もうっ……!」
僕の下でファリンがその巨軀を震わせ、次の瞬間、なんとその体がまたしても光の渦に包まれだした。
僕は衝撃でその場から弾き飛ばされ、もんどりうって地面を転がる。
そのまましたたかに顔面を打ちつけて涙目になっているうちに閃光が弾け、周囲を真っ白に染め上げた光が収まるころには人化したファリンがその場で荒い息を吐いていた。
「エド……」
ファリンはまるで酩酊でもしているかのように真っ赤な顔をして、ユラリユラリとゾンビのような足取りでゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
これ、ひょっとしなくてもマズい状況ではなかろうか。そんな予感だけはひしひしと感じるものの、逃げ出したところで逃げ切れるとは思えず、僕は恐怖にその身を震わせることしかできない。
「エド、エド……」
そのままファリンはゆっくりと僕の体にしなだれかかってくると、まるで石像にでもなったのかと思うくらいのものすごい重圧で地面に押し倒してきた。
荒い息を吐き、あまりにも深い真紅の瞳でじっと上から見下ろしてくる彼女の耳にはもはや僕の声が届くかどうかも分からない。いや、おそらく届かないだろう。
実際のところ、僕はもうその時点ではすっかり諦めていた。どうせファリンの背に乗ることなった時点で、こうなることは定められていたのだ。長い人生、たまにはこういう経験も必要だと思って受け入れることにしようと思う。