「こ、これ以上は食えぬ……」
フェンリルが人のベッドに勝手に寝転がりながら、その上で勝手なことを言っている。すでにその顔はびっくりするくらい紅潮していて、魔物でも酒にはしっかり酔うのだなというどうでもいいことに僕は密かに感心する。
食事が終わったあと、まっすぐ歩くことすらできなくなったフェンリルを伴って、僕は寝ぐらにしている宿屋に戻ってきた。
宿の店主にベッドが二つある部屋に変えて欲しいとお願いしたのだが、今は空きがないので当面は我慢するか別の宿に移って欲しいとのことである。
僕のような長期滞在の冒険者を受け入れてくれる宿屋はそこまで多くなく、このままメイガスの街に滞在するなら当面は一つのベッドで『同衾』せざるを得ないかもしれない。
これがごく普通の人間の女性であるなら僕としても願ったり叶ったりなのだが、見た目こそ可愛らしい女の子なだけで、眼の前にいるのは白銀の魔狼フェンリルだ。さすがに僕でも魔物を抱こうという気にはなかなかなれなかった。
それに、場合によってはしばらくメイガスの街を離れることになる可能性もある。その点についても本当ならフェンリルと話し合いたいところだったのだが、肝心の彼女がこのザマでは今日のところは諦めたほうがよさそうか。
「せっかく人化できるのに、美味しい料理も酒の味も知らなかったなんて、もったいないことをしたね」
僕も同じようにベッドに腰を下ろしながら、ぼんやりと天井を見上げているフェンリルに言う。部屋に入ったときに胸当てなどの鎧一式は外していて、今は材質のよく分からないアンダーウェアのみという格好になっている。
「必要なかったのだ。人化はあくまで存在の維持に必要な力の消費を抑えるためのもの。食事も必要量が摂れるのであれば問題なかった。人間の貨幣にも限りがあったしな」
なるほど、確かにお金の問題はありそうだ。いくら冒険者ライセンスを持っているからといって本当に人間に混じって活動をしていたわけではあるまいし、人間の貨幣を得る機会なんて冒険者と対峙する機会があったときくらいだろう。
「よかったじゃん。いっそこれからは僕の命を狙うより美味しいものを食べたり飲んだりすることにその生涯を捧げてみるってのはどう?」
「馬鹿なことを言うな。わたしにとって貴様との決着をつけるのこと以上の命題はない」
さいですか。
ゲンナリと溜息を吐く僕だが、ふと、フェンリルの首がぐるんと回って僕の横顔を見つめていることに気づく。
「……ただ、これまでは貴様の命を奪ったその先に何があるのか、少し懐疑的に思うことはあった」
「というと?」
「目的を果たしたあとのわたしの存在意義とはなんだろう……とな。神に与えられし使命に従って人間を根絶やしにすべきとも考えたが、わたしはすでにその使命を捨て去り、己が欲望を満たすことに腐心するようなはぐれ者だ。今さら神の僕に戻ろうなどというのも、おこがましい考えであろう」
そのあたりの感性は、正直なところ僕にはさっぱり理解できなかった。
好きに生きればいいと思うのだが、変に知性を持ってしまったせいで色々と複雑に考えすぎてしまっているのだろうか。
「だが、わたしには今回の経験ではっきりと見えた」
何やらその瞳に決意を宿しながら、フェンリルが再び天井を見上げて拳を握りしめる。
「貴様との雌雄を決した暁には、わたしは世界中の美味いものを求めて旅をしよう。まだ見ぬ種々様々な美味いものが、わたしに食されることを待ちわびている。思うに、今日という日はわたしにそれを気づかせるために存在したのではないかと思うのだ」
「前向きなヤツ」
賢いのか単純なのか、いまいちよく分からん。
僕は今一度嘆息すると、真剣な顔で天井を見上げるその横顔に訊いた。
「そこまで明るい未来を描けてるのに、なんでまだ僕との勝負にこだわるのさ」
「…………」
フェンリルはすぐには答えず、再びぐるんとその首だけをこちらに向けてくる。
「わたしは、逃げたのだ」
そして、ポツリと言った。
「逃げた?」
「貴様と初めて対峙したとき、わたしは初めて死の恐怖に駆られた。それまでに対峙した人間とは明らかに違う、この者はわたしに死を運ぶものだと」
「そんなに一方的でもなかったと思うけどな」
「貴様に余裕があっただけだ。だから、貴様は狙いをわたしからコアに切りかえることもできたのだ。貴様がコアを破壊したとき、わたしはダンジョンという呪縛から解き放たれたことを感じた。その瞬間にわたしを支配したのは、その場から逃げ出したいという情けない思いだけだった」
「ホントに?」
「ああ。認めたくはないが、認めざるを得ない。わたしは己の弱さに慟哭し、それはわたしへの呪いとなった。わたしは貴様を倒すことでしか、もはや前には進めぬ。あのときコアを護ることができなかったわたしが今なお生き続ける意味があるとすれば、それは貴様を倒すことに他ならない」
「そんな大袈裟なことかな」
「大袈裟なものか。貴様を討ち果たすことでしか、わたしは本当の意味で自由になることができないのだ。だが、今の弱々しい貴様を倒したところでも意味はない。わたしは白銀の魔狼たる者のプライドとして、全身全霊をもって勇者エドワルドを倒す。そうでなければ、また新たな悔恨が残るだけだろう」
「真面目なヤツ」
まあ、どれだけ熱く語ったところで、それを言っているのがお腹をパンパンに膨らませた赤ら顔の少女では大した説得力はない気もする。
「万が一僕が負けたら、そのときは、どうせなら美味しくいただいてくれよな」
冗談めかして僕が言うと、フェンリルはニヤリと口の端を歪めた。
「ふっ……食べてなどやるものか。貴様の亡骸は我が秘術にて永久氷晶の中に捕え、一生涯わたしのそばにおくのだ。神の使命すら忘れてしまうほどにわたしを狂わせ、そして、わたしに自由というものを与えた男が存在したことの証としてな」
「真面目に言ってる?」
「わたしはいつだって真面目だ」
思わず笑ってしまった。
僕もいくらか酔いが回っているのだろうが、何故かフェンリルの言っている言葉が恋する乙女のソレに聞こえてきたからだ。
理由はどうあれ、彼女の生きる理由の軸になっているのは僕であるらしい。そして、仮に目的を果たしたとしても、決して僕を逃すつもりはないようだ。
「そんなことして、なんの意味があるのさ」
「さてな。だが、氷晶に封ぜられた貴様を見て、時には命を削りあった日々に思いを馳せることもあろう」
「君さ、自分がけっこう可愛らしいこと言ってる自覚ってある?」
「む? 何の話だ?」
キョトンとした顔でこちらを見るフェンリルに、いよいよ僕は我慢ができなくなり、気づけばその小さな唇にそっと触れるようなキスをしていた。きっと今さら酒がまわってきたのだろう。そうだ、そうに違いない。
「……っ!? い、今、なにをした!?」
フェンリルは随分と驚いている様子で、指先で自分の唇に触れながら、戸惑うように目を白黒させていた。その姿もまた僕の目にはやけに可愛らしく見えてきて、理性のタガが少しずつ緩んでいくのを感じる。
だが、待て、冷静になれ。コイツは今でこそ可愛らしい女の子の姿をしているが、その正体は魔物なのだ。うっかり何かの弾みで元の姿に戻られたら大変だし、今の姿でも本気で抵抗されたらあっさり僕なんか殺されてしまうかもしれない。
落ち着け、落ち着くんだ、エドワルド。こんな一時の欲望に任せて己の身を危険に晒したとあっては、昨夜の一件から何も学べていないということになってしまうぞ。そこまで愚かではないだろう。そうだよな、僕。
「エドワルド……」
一方、フェンリルのほうはいつの間にかその場で上体を起こしており、ジリジリとベッドの上を移動して僕との距離を詰めてきている。
こちらを見上げるその瞳は何処か潤んでいるように見え、さらにその唇は何かを求めるように微かに震えていた。忘れていたが、僕なんかよりもフェンリルのほうがしっかり酔いがまわっているはずだった。
「い、今の、もう一回してくれないか?」
フェンリルが熱っぽい口調でそう訴え、そのまま僕の肩を両手で掴んできた。やんわりと掴んでいるように見えて、凄まじい膂力だ。とても逃げられそうにない。
まあ、実を言えば、僕のほうだってもうすっかり腹は括れていた。こんな情熱的な瞳で見つめられて、我慢しろというほうが無理な話である。これで死ぬなら、むしろ本望だ。白銀の魔狼フェンリルを抱いて死んだ男として、未来永劫語り継いでほしい。
「……どうなっても知らないからね」
「ああ、エド……んんんっ……」
僕はフェンリルの唇を強引に塞ぐと、そのまま彼女の体をベッドの上に押し倒した。