部屋に入るなり、僕は彼女の体を優しく抱きしめ、その首筋に唇を這わせた。
「あっ……お待ちください、勇者さま……」
彼女は僕の腕から逃れようと、その細い腕で僕の体を押しのけようとしてくる。
だが、その力は本気で逃れるつもりがあるのかというほど弱々しい。
僕はそのまま彼女の首筋から唇を離すと、戸惑いと緊張に揺れるその群青色の瞳を正面からじっと見つめる。
薄く開かれたその唇はかすかに震えているようにも見えた。
しかし、それがただ単に恐怖によるものでないことは、僕にはもう分かっていた。
僕は薄紅色をしたその唇を自分の唇で強引に塞ぎ、彼女の体を抱きしめる力をほんの少しだけ強くする。
そのまま何度も何度も甘く口づけを交わしているうちに、彼女の体からも少しずつ緊張が解けていき、やがて恐る恐るといった様子で僕の背中にその腕を回してきた。
「あぁ、勇者さま……」
僕と彼女の唇の間で、唾液が糸を引いた。
熱帯びた口調でそう告げる彼女の顔は、もう完全に蕩けきっていた。
キス一つでだけでもここまで女性を魅了させられる我が手腕に、僕は胸中で密かにほくそ笑む。
名も知らぬこの女性が酒場で僕に声をかけてきた目的が何なのかはけっきょく判然としなかったが、ここまでくれば今さら理由だの経緯だのについてはこだわらない。
きっと僕の男前っぷりに、一目惚れでもしたのだろう。
「勇者さま……その、わたし、こういったことは初めてで……」
やんわりとベッドの上に押し倒すと、真っ赤な顔で彼女はそう言った。
ま、マジかよ。そのわりには随分とガードが緩い気もするが……まあ、ひょっとしたらそれくらい出会った瞬間にビビッときてしまったのかもしれないな。
僕もたまに顔を見た瞬間に『この女、抱きてぇ!』と思うことはあるから、きっと彼女もそんな感じだったのだろう。
「大丈夫。優しくするよ。僕に任せて……」
「勇者さま……んんっ……」
ベッドの上で改めて彼女に深く口づけをし、その体を優しく愛撫しながら、僕はこれから訪れるであろう甘美なひとときに胸を躍らせていた。
◇ ◆ ◇
ほんのりと窓の外が明るくなりはじめたころ、ベッドの上で一人の女性が体を起こした。
傍らにはもう一人、男性が眠っている。二十歳すぎほどの、黒髪の男性だ。
その体つきは引き締まっていて逞しいが、反面、顔立ちには何処か少年っぽいあどけなさが残っていた。
女性は傍らの男を一瞥し、彼が未だ深い眠りの中にあることを確認する。
そして、念じるように意識を集中させると、自身の眼の前に半透明の四角い表示板を出現させた。
音もなく顕現したその小さな表示板には、イストリエという彼女の名前と神より授けられた『付呪師』の《加護》を示す刻印、それと現在のレベルが表示されていた。
「お師匠さま……うまくいきましたよ……!」
囁くようにそう呟く。
表示板――『ステータスボード』に表示された彼女のレベルは62となっており、それは彼女の目的が達せられたことを示していた。
イストリエは傍らの男を起こさないように注意を払いつつベッドを降りると、手早く着替えを済ませて部屋の扉に手をかける。
「勇者さま……あなたのお力、預からせていただきます……」
イストリエは今なおベッドの上で安らかな寝息を立てる男に背を向けると、そのまま部屋の扉を空けて外へと出て――いかなかった。
その足が、何かを躊躇うように一度だけとまる。
「……くっ……せめて、このような形でなければ……」
肩ごしに男を振り返り、名残惜しむようにその寝顔を見つめる。
その瞬間、イストリエの脳裏に昨夜の熱い営みが思い返され、自然とその頬も薄紅色に染まっていった。
「まさか、男女の営みがあそこまで甘美なものだったなんて……でも、ダメよ、シキル。誘惑に惑わされちゃダメ……!」
イストリエは呪縛を振り払うように首を振り、今度こそ部屋を出て後ろ手に扉を閉める。
今はダメだ。目的を果たすためにも、もうこの男と肌を重ねるわけにはいかない。
「今は行かなくては……お師匠さま、すべてはあなたの計画どおりに……」
胸に決意を宿すと、イストリエは宿をあとにし、その足で急ぎ街を出るのだった。