カオルさんの胸の匂いに酔いしれてる場合じゃない。
いやしかし抗い難い、なんてホントに言ってる場合じゃない。ぱっと見は兄貴――元旦那にそっくりな
カオルさんに抱き着いてしまって即、がばりと体を起こし、私の無駄に広い胸にカオルさんを掻き抱く。が――やはり、遅かった、らしい。
私の胸の中のカオルさんが小さくぶつぶつと繰り返し始めちまった。
「ゆ、ゆう――い、ちさん……に見つかっ――ちゃった……」
どうやら幸いなことに、熊二の方は元義理の姉の顔を知らないらしい。カオルさんの顔を見ただろうに――
「ひゅーぅ、オアツイこった、よくやるぜおっさん」
――なんて言ってやがる。早く帰りやがれ。
「お買い上げありがとうございました!」
カオルさんを抱えたままでも私が言おうと思ったその言葉を、不穏な空気を感じ取った
出来ることなら野々花さんも隠したかったが正直助かる。
私もカオルさんを背に回し、くっ――言いたくないが、言わなきゃ逆におかしい……
「ま、またのお越しを――」
「可愛い店員さんいっぱいで良い店だな。また来るよ、おっさん」
ニヤリと、酷薄そうに口の端を持ち上げ歪に笑って熊二は去った。
前と同じ様に、尻のポケットに入れた手を片方だけ上げてヒラヒラと振ってから。
…………最悪だ。
自分の想像力の甘さに
日曜に喜多から話を聞いたばかり、なのになんの対策もせずにカオルさんたちを熊二の目に晒させてしまった。
なにが新作パンだ……くそっ!
「カオルさん、大丈夫ですか!? とにかく店へ」
「ママ……」
カオルさんの目に力がない。焦点も合ってない。
さっきは勢い余って抱き締めちまったが、男の私が触れても良いものか……。
いや、見るからに今更だ。そんなこと言ってる場合じゃないな。
「すみませんカオルさん、触れますよ」
カオルさんの肩を抱いて、野々花さんが開いてくれた扉を抜けて店の中へと連れて行く。
なんとか厨房も抜け、バックヤードの丸椅子に座らせる。
やや過呼吸気味のカオルさんが突然立ち上がり、定まらない視線を彷徨わせて叫んだ。
「の――野々花! 野々花、どこ!?」
「ママ、ここだよ! わたしここにいるよ!」
ジャスミンティーを
「野々花のことはママが守るから! 絶対に! ママが!」
……見てられん。
これほどにカオルさんの心が疲弊していたなんて……私の考えが甘かった。
私自身も虐待された過去がある。しかしカオルさんと違ってそれももう何十年も前、さらに野々花さんを庇いながらのカオルさんとは比べるべくもなかった――くそっ!
「カオルさん――」
私の呟きが耳に届き、カオルさんがキッとこちらを睨んだ。しかし、すぐにくしゃりと顔を歪めて呟いた。
「――……あ……、店――長……」
涙を流すその瞳が、私を目にしてゆっくりと力を取り戻していくカオルさんが、愛しくてしょうがなかった。
野々花さんを抱きしめるカオルさんを、さらに包み込むように抱きしめて言った。
「私が守ります。なにがあっても私が二人を守りますから。だから泣かないで下さい」