新作パンの方向性は定まった。
けれど方向性だけだ。他には何にも決まっていないと言ってもオーバーではない。真実そうだから。
昨日はあれからも鮭フレークとクロワッサンで色々試してみたものの、最初のひと口の衝撃を超えるものは生まれなかった。
今日は仕事終わりにスーパーで色々と物色してみるとしよう。
「店長さん? あの――店長さん!」
「……あ、あぁごめん
「一次発酵入っていいか見てください!」
「うん、分かった。…………捏ね不足も捏ね過ぎもない、うん、ちょうど良いよ」
私の言葉ににっこり笑顔になる野々花さん。手慣れた手つきで手早く丸め直してホイロへと入れる。
「一次発酵を……三十八度、五十分……これで良し!」
すっかりホイロの操作もお手のものだ。
私が成形を済ませたパンも一緒にホイロに入れ、その他のパンの焼き上げも済ませていった。
昼ピークも無事に済み、二人が野々花さん作『会心のロールパン』を携え千地球へと出発したのを見送る最中、野々花さんがカオルさんへ『今日の店長さん、なんだかぼんやりしてるんだよ』なんて口にしてたのを耳にした。
いかんなこんな事じゃ。余計な心配かけちまう。
気を引き締めてカウンターに出たものの、やはり頭の奥底が色々考えてしまう。
新作パンに思いを馳せていた筈が、ぐるぐる回って
喜多の父親であり組織のボス、
飄々とした性格ながら凄腕の殺し屋であり、喜多不動産の社長――ん? そういや喜多のやつが今は社長やってんのか。しょっちゅうこっちに来てもらってるが大丈夫なのか。いや、きっと大丈夫じゃないな。
パン焼きは完全に独学だが、殺しの技は劣才さんから教わった。
『ナイフや銃は返り血や硝煙の匂いがパン屋に向かない』なんて言って素手で仕留める技ばかり。変なところに気の回る不思議な人だった。
いっしょに暮らした事はあまりない。
我が子のようにって事は全くなかったが、私の糞みたいな幼少期から救い出してくれた恩人には違いない。
ぼんやりと目を閉じ、死んだ劣才さんに思いを馳せてひっそり黙祷をしていると、からんころんとドアベルが鳴った。
「おっさん、やっぱまた客いねえじゃん」
……はぁ、来るよな、そりゃ。
ぶん殴って出入り禁止にできればどんなに良いか。
コイツがどんなヤロウでも、いま私と彼の関係はただのパン屋とそのお客。そんなこと出来る筈もない。
ってどんな関係でもいきなりぶん殴っちゃこちらが罪に問われちまうな。
「いらっしゃいませ。さっきまでは忙しくしてたんですよ」
「はは、また強がってら」
チャラく笑った
「あ、あ〜、あのさ、当てにしてた金が入ってきそうにねえんだよ」
「……はぁ」
内縁の妻の保険金だか遺産だかの件だな。そんなこと私に言ってどうするつもりだ?
「二回目の来店サービス――って訳にいかねえ?」
メニューを指差しそんな事を言ってのけた。
よっぽど金がないらしいな。そんな高いもんじゃないってのに。
「今回きりですよ」
今度はない。というかもう来るなクソヤローが。
私の美味くもないコーヒーを淹れ、エピの代金を貰って言う。
「悪いんですがイートインを使うなら手早く食べてもらって良いですか?」
「へっ、分かってるって。忙しくなるってんだろ?」
早く食え。早く食って出てけ。ほれ、早く、むしゃむしゃって食え。
「こないだ知り合い探してるって俺言ったじゃん?」
クソどうでもいい。早く食って帰れ。
「あいつさ、知らない間に死んでんだってよ。一人カラオケ真っ最中ん時だって。笑っちまうぜ」
カラオケデブは普通に変死扱いとして警察は上げている。喜多が確認済みだ。
仮にその内容を一般人が覗けたとしても殺されたとは思わない筈だが、それを覗いたのが『そういう』者であれば定かではない。
この美横 熊二がどうかは…………
くそ。黙って食ってりゃ良いものを余計な話をしやがるから――私の願いも虚しくドアベルが鳴る……
「ただいまもど――」
「カオルさん! ちょっと二人でおつかい行って来て下さい!」
開きかけた扉を制し、中から顔だけ出してそう言った。むちゃくちゃ挙動不審だがそんなこと気にしてる場合じゃない。
「おつかい? なに買って来たら良いんです?」
「あ、えーっと、その、あ、
「ごっそさん。やっぱおっさんのエピ旨えわ――ってなにごそごそやってんの。邪魔」
どんっ、と背を押され、たたらを踏んで店の外へ出ちまって――
「あ」「きゃ」
――しまった、カオルさんの胸に抱き着いてしまった。
良い、匂いが、する。
なんて言ってる場合じゃない。やばい。