ゆっくりと目をこすって起き上がった。
そして、障子を開けて外の景色を見ると、そこにはきれいな朱色が広がっている。
左腕につけっぱなしだった腕時計を見ると、ちょうど16時になっていた。
あの崖まで行けば、まだあの女の子はいるかもしれない。
でも、行っていいのだろうか。
あの女の子は僕を求めていないかもしれない。
それに、あの女の子が何者なのかも分からない。
まあ、十分楽しかったし、このままでのいいか。
そんな考えが頭の中でよぎった。
このまま、何もしなくていいか…
そうやって目を閉じて、この3日間の生活を思い出す。
そこには、いつもあの女の子がいた。
そこでは、いつもあの女の子が笑っていた。
あれだけ仲良く遊んだのにこんな別れ方で言いわけないよな。
それに、写真に写っている女の子が、本当に僕がこの島で会っていた女の子であると決まったわけじゃない。
この科学の時代に幽霊の類があるはずない。
生まれて初めてできた女の子の友達に、ありがとうの一つも言えないまま別れて言いわけが無い。
このままあの場所に行かなければ絶対に後悔する。
僕は部屋のタンスに入れておいたブローチを持って頭の中のぐちゃぐちゃとした考えをまとめた。
そして、大きく一呼吸をして部屋を出た。
あの洞窟に行こう。
僕は今までにないくらい全力で走った。
周りの人はそれぞれでスーパーの帰りの人、仕事帰りのサラリーマン、ランニングをしている高校生らしき人がいて、まるで僕1人がこの島から浮いているようなそんな感覚にも思えた。
それでも1分1秒でも早くあの女の子に会いたかった。
少しでも遅れるともう2度と会えないような気がしたから。
僕はその思いでいつもよりも大幅に早い時間で崖の入り口まで行くことができた。
大きく乱れた息を吐きながら崖の端からゆっくりと顔を出すと、そこにはいつもの女の子が座っていた。
僕はそれに少し安堵するとゆっくりとその女の子のもとへと近づいていく。
「来てくれたんだね。今日は遅いからもう会えないかと思ったよ」
女の子の表情は落ち着いている感じだ。
洞窟から流れる風でショートのきれいな髪がヒラヒラと揺れる。
「うん。午前中にちょっと出かけてきたから遅くなっちゃった」
僕も乱れる呼吸をゆっくりと会話することで整えながら、女の子に合わせるように平然とした態度を装う。
正直、この後どこまでこの表情が持つか分からないけど。
「どこか出かけていたの?」
さっそくか……。
「ちょっと親戚の家まで行ってたんだ」
僕はそう答えると、一番気になっていることを聞いてみる。
「ねえ、蒼って女の子、親戚にいる?」
僕がそう言うと、女の子の目は少し下を向いた。
そして顔を上げると、全てを悟ったようで諦めたような今まで見たことない表情で僕のことを見てきた。
「もう、気づいちゃったんだね」
蒼の微笑む表情は今までにないくらい優しくて、僕の心を締め付けるものだった。
「うん……」
僕は小さな声で返事をすることしかできなかった。
「蒼って私にピッタリの名前だと思わない?」
そう言うと、蒼はくるりとその場で回った。
女の子がわざと明るく振舞っているということはすぐに分かる。
「そうだね。元気でどこか繊細な感じはすごくぴったりだと思うよ」
僕がそう言うと、蒼はありがとうと少し下を向きながら言った。
「ねえ、名前を知っているってことはもう家にでも行ったのかな」
「うん。そこで君の仏壇を見たよ」
「仏壇の写真の私、すごく可愛かったでしょ。あれ、私のお気に入りの写真なんだ
まるで全てを諦めたような表情で蒼は語っていた。
僕は、これ以上聞くべきか悩んだ。
でもどうしても知りたいことだったため、蒼にさらに問いかけることにする。
「蒼は幽霊なの?」
僕の問いかけに対して蒼は少し笑った表情をして答えた。
「やっぱり気になるよね」
僕は、少し下を向いて頷いた。
「うん……」
「幽霊かどうかは私には分からない。でも、ここに私がいるのは理由があるんだ」
「理由?」
「うん。初めに会った時にブローチを無くしたって言ったよね。、あのブローチ、私が生きていた時にお母さんから貰ったものだけど、この洞窟で失くしたものなんだ。今回はたまたま現実世界に行くことができたからどうにかして持って帰りたかったんだけど、どうやら無理そうだね」
「どうして?これからまだ一緒に探そうよ。きっと見つかるから」
僕は、蒼に縋りつくように言った。
この場になっても自分がそれを持っているということを言えないことにつくづく嫌気がさす。
「だめなんだよ。今日は8月16日だからお盆が終わる。そしたらもうここにいることはできないんだ」
「そんな……」
「君ともさよならだね」
蒼の目はすぐにでも泣き出しそうな赤く腫れた目をしていた。
それと同時に僕の中で罪の意識がのどを伝ってだんだんとこみ上げてくる。
僕の身勝手な思いで蒼を困らせてしまった。
もうこれ以上、自分勝手なことをするわけにはいかない。
僕は、ありったけの気持ちを持って蒼に頭を下げた。
「ごめん。そのブローチを持っているのは僕なんだ」
僕は右のポケットから出して蒼にブローチを差し出した。
すると、蒼はきょとんとした顔をしていた。
当然だろう。
3日間も必死になって探していたものを実は一緒に手伝ってくれた人が隠し持っていたなんてわかったらこんな表情になるだろう。
特に、蒼には現世にいる時間がほとんど残っていなかった中でも探すくらい大切なものだったのだから怒るだけでは済まないかもしれないなと僕は思った。
でも、僕のしたことだからどんなことを言われてもされてもそれは仕方ない。
僕は頭を下げたままゆっくりと目を閉じた。
そして、頭に小さな手が当たりそうになるのが感覚で分かった。
まずは叩かれるのかな。
すると、蒼の小さな手はゆっくりと僕の髪の毛をなだめるように触ってぽんぽんと頭を撫でた。
「ありがとう。君が見つけてくれたんだね」
そして、僕の心を包み込むかのように優しい言葉をかけてくれた。
どうして、この場において怒りではなくて感謝を伝えることができるのだろうか……。
もう、僕の目からは透き通った蒼色の雫を流してただ泣くことしかできなかった。
僕よりも泣きたいのは蒼のほうのはずなのに、この優しさを前にしたらもう我慢なんてできない。
でも、このまま終わらせるのは卑怯すぎる。
きっと蒼は勘違いをしている。
本当のことを伝えないといけない。
たとえ僕がどれだけ嫌われたとしても、感謝だけされて終わるなんてことはあってはならない。
「違うんだ、ほんとは違うんだ。僕は、あの初めて蒼と会った日にブローチを見つけていたんだ。でも、これを渡したらもう蒼に会うことが出来なくなるんじゃないかと思うとできなかった。蒼といつまでも一緒にいたいと思ったから見つけたことを言えなかったんだ」
僕は、本当のことだけを包み隠さずに伝えた。
きっと蒼は幻滅しているたろう。
今度こそきっともう二度と顔を見たくないと言われることだろう。
僕が顔を上げるともう、蒼は完全に涙で顔が覆われていた。
「本当にありがとう。私は現世から帰るまでにお母さんのブローチを受け取ることができたからそれで十分だよ。それに、君と過ごした日々は今までの人生に負けないくらいすごく楽しかった。君には感謝してもしきれない。その気持ちは変わらないよ」
蒼は涙の中に笑顔を見せた。
もう、僕はひたすらに謝ることしかできない。
「ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん……」
「そんなに謝らなくていいよ。それに、ごめんよりもありがとうって笑いかけてくれた方が私はうれしい。私は笑っている君が好きだよ」
蒼の目は優しさで包まれてあったかい色に染まっていた。
「うん。ありがとう……」
一度くらい現実の蒼に会って見たかったな。
会っていっぱい話をしたかった。
僕の家にも一度くらい来てほしかった。
そして、できるならこんなかわいい友達もいるって家族にも伝えたかったな。
きっと蒼は笑って「ありがとう」って言ってくれるだろうなと思った。
そして、僕の涙の量は限界に達していた。
それでも、涙の止まる気配はなかった。
もしかしたらこのまま止まることはないかもしれない。
そうとすら思えるほどだった。
そして、蒼は最後の笑顔を振り絞って僕に質問をしてきた。
「せっかく会ったんだし、最後に名前を教えてよ。こういうのって本当は最初に聞くべきだったんだろうけど、聞きそびれちゃって」
蒼は涙で目元を真っ赤にしながらもまるで泣いていないかのような笑顔だった。
僕は今までの涙を全てふき取って蒼の顔を正面から見た。
身長は同じくらいなので目をまっすぐ向けるとそこには蒼の淡い蒼色の目があった。
もう、これから先の人生で言葉を交わすことはどんなに願っても叶わないだろう。
正直、最後に聞くのが僕の名前でいいのかななんてことは僕も気にしている。
でも、僕はゆっくりと蒼の質問に対して答えることにする。
「僕の名前は陽太っていうんだ。これからもよろしく蒼。そして、今日までありがとう。この3日間は絶対に忘れない。蒼のことは永遠に心に刻んでおくよ」
僕は全て言い終えると少し落ち着きを取り戻し始める。
そして、お母さんとの思いでのブローチと共に蒼が少しずつ消えかかっていた。
でも、出会った時のようにおどおどすることはない。
だって、蒼は思い出と共に僕の心の中に記憶として残るのだから。
今まで蒼には多くのことを教えてもらった。
ありがとうを何回言っても足りないだろう。
でも、これから先の人生で直接蒼に言える機会はもう来ないだろう。
残りのありがとうを直接伝えるのはしばらく先になるな。
薄れゆく蒼の姿とブローチを見ながら僕はゆっくりと最後の言葉をかけた。
「ありがとう」