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第39話 絶望に染まる一秒前

「えええっ!?」


 控室に俺の絶叫が響き渡った。


「じゅ、渋滞!?……うん……うん……マジか……わ、分かった」


 電話の向こうの美弥は相変わらず淡々としているけど、そんなことを悠長に考えてる場合じゃない。


 通話を切ると、俺は長椅子にぐったりと座り込んだ。


 今日は以前から予定されていたコミックワールド本番当日。先に会場入りした俺は、スタッフに案内されるがまま、一人イベント控室へと通された。


 そしてそこで待ち受けていたのは、もはや死刑宣告の様なアクシデント……。


「美弥を乗せたタクシーが渋滞にハマってるって……これ詰んでない!?」


 控室は無駄に広くて、やたらシンプルな家具が余計に不安を煽ってくる。外の歓声が妙に楽しげに聞こえて、俺の焦りをさらに倍増させた。


 テーブルの上に置かれた馬の被り物をぼんやり見つめながら、どうしようもなく足をパタパタさせる。真珠と北斗が遅れるのは知っていたけど、まさか俺一人でステージに立つことになるなんて。


「いやいや、普通に無理でしょ……」


 喉がギュッと締まり、冷や汗が額を伝う。


 最近のライブハウスでの練習を思い出し自分を励ます。


 ノリだ、ノリを楽しめば……。


 いやいやいや、ノリとでどうにかなるレベルを遥かに超えてる。流石に状況が想定外すぎだ。こんな大規模なイベントで一人とか、誰が予想できるって言うんだ。


「それでも……やるしかないよな」


 覚悟を決めるように大きく息を吐き、馬の被り物を手に取る。控室のモニターに目を向けると、『コミックワールド一日総来場者数:約10万人』というテロップが無慈悲にも表示されている。


「いや、なんでこんなに多いんだよ……」


 決めたはずの覚悟があっさり揺らぎ、膝が震え始める。


 テーブルを掴み、何度も深呼吸を繰り返す。


 ……さっき念のため薬は飲んだけど……まずい。緊張するとチック症状が出やすくなる。


 ふと、カガミ・シンと駅前で行ったセッションを思い出す。


「あの時は上手くいったよな? だったら今回だって……」


 必死に自分を納得させる。


 鏡に映る情けない自分の顔を見て、小声で喉にお願いした。


「頼む……今だけは静かにしててくれよ……」


 もう一度モニターを見て、自分を勇気づけるように呟く。


「ピアノさえあれば、きっと大丈夫だ……」


 そんな俺の呟きを遮るように、ドアが控えめにノックされ、スタッフがやって来た。


「優Pさん、そろそろお時間です」


「は、はい!」


 ぎこちない返事をして、俺はもう一度深呼吸をして馬の被り物をかぶる。


「……真珠、俺に力を貸してくれ」


 情けないけど、小さく彼女の名前を口にして、俺はドアを開けて控室を後にした。


 スタッフ専用の薄暗い通路は、人の気配もなく静まり返っている。歩き始めると、馬の被り物の中は思った以上に蒸し暑く、息苦しさが増していく。視界も狭まり、足元がおぼつかない。


 通路の照明はなぜか点滅しているように見え、目眩に襲われそうになる。


「落ち着け、俺……」


 壁越しに、観客たちの楽しそうなざわめきが徐々に聞こえてくる。まだ遠いはずなのに、その音がどんどん大きくなっていく。


「生優Pが来るって!」


「駅前ライブの動画見た?マジ神だった!」


「カガミ・シンとセッションした馬の被り物の人だよね!?」


 熱のこもった声がはっきり聞こえるたびに、俺の心臓のざわつきは強くなる。


「うう……観客の圧がヤバい……」


 無意識に冷や汗が背中を伝い落ち、シャツがじっとりと背中に張り付く感覚がある。控室で薬を飲んだのに、喉がこわばり、チック症状が出そうになり必死にこらえた。


「大丈夫だ……落ち着け……音楽、音楽だけを考えるんだ」


 繰り返し呟き、自分自身を必死に説得する。


 やがて通路の終わりが近づくと、先から強烈な光と大きな歓声が漏れ聞こえてきた。


 ステージサイドの暗がりに立ち止まり、恐る恐る巨大な会場を覗き込んだ。俺の目に飛び込んできたのは満員の観客席、無数のペンライトが星空のように輝き、大きなバナーが至るところに掲げられている。


 最前列では、大勢がカメラを構え、フラッシュが絶え間なく瞬いている。


「馬が出馬するぞ!」


「スピカたちの新ユニットのピアニストだよね?」


 期待に満ちた歓声が次々に耳に飛び込んでくる。


「あのゲリラライブ動画のピアノ、マジでヤバかった!」


「ギター少女も来るのかな?あの二人とカガミのセッション最高だったよね!」


 会場の照明が徐々に落ち、ステージ上のスポットライトが浮かび上がった。中央に設置されたグランドピアノが神々しい光に包まれ、美弥のギターも静かに待機している。


 爽やかなスーツ姿の有名アニメ声優の司会者が、ステージ中央に堂々と立っていた。


『お待たせしました!現在話題沸騰、駅前のゲリラライブ、カガミ・シンとの即興セッションで世界中を驚かせた覆面ピアニスト、優Pです!』


 司会者の声に、会場の空気が爆発的に盛り上がる。


 スタッフが俺にそっと近づき、小声で励まして背中を軽く押した。


「頑張ってください」


 重い足を引きずるように、俺はステージへと一歩踏み出した。


 視界いっぱいに広がる眩いスポットライトと、割れんばかりの歓声。無数のフラッシュが一斉に焚かれ、歓声の波が俺を飲み込むように迫る。


 マイクスタンドに近づくほど喉の圧迫感が強まり、呼吸がどんどん浅くなっていく。


……真珠、待ってるからな!


 涙目をグッと堪え、俺は震える手を強く握りしめて、スポットライトの下に重い足を引きずるように踏み出した。


 その瞬間、耳を貫くような爆発的な歓声が俺を飲み込む。無数のフラッシュが一斉に焚かれ、視界が真っ白に染まった。


『おおおぉ!!』


『わぁぁ!!』


 まるで大波が押し寄せるような歓声。その圧倒的な熱気に足が震え、一瞬立ち止まった。柔らかなスポットライトが俺を捉えると、それに応えるように歓声が更に盛り上がった。


 無数の人々がペンライトやうちわを掲げ、巨大な会場は色と光で満ちていた。期待の視線が無数に突き刺さる。視界が霞み、息が詰まりそうになる。


 MCが爽やかなスーツ姿でゆっくりとこちらに近づいてきて、マイクを握りながら説明を始める。


『皆さんご存知の通り、本日はスピカさんたち他メンバーも出演予定でしたが、主催側の都合により少し遅れて到着するとのことです。皆さんが勢ぞろいする前に、まずは余興として、優Pさんに素晴らしい演奏を披露していただきましょう!』


 一瞬、落胆の声が広がったが、それを覆い隠すように再び歓声が湧き上がった。


「それでも優Pが見れる!」


「馬めっちゃシュール!」


「カガミ・シンとセッションしたやつじゃん!」


 色々な期待の声が俺に届く。


「早く演奏聴きたい!」


「スピカとのコラボも見たいよー」


「新曲やって!」


 期待に応えたいと思う気持ちはあるのに、俺の足は鉛のように重くなって動かない。マイクスタンドに近づくたびに喉の圧迫感が強まり、呼吸が浅くなった。


 MCが親しげな笑顔を浮かべながら、マイクを俺に向ける。


『それでは、謎の覆面ピアニスト、優Pさん! 一言お願いします』


 俺は震える手をゆっくりと伸ばし、マイクに触れようとした瞬間――


「ん~!」


 自分でも聞いたことがない奇妙な音がマイクを通して会場中に響き渡った。まるで時が止まったように、一瞬の静寂が会場を包む。


 観客の視線が俺に集中するのを、はっきりと感じ取った。心臓が嫌というほど激しく鼓動を打ち始める。


 MCの表情がみるみるうちに変わっていった。爽やかな笑顔は困惑に変わり、そして次第に焦りへと変わる。


「あ、あの……どうされました? 大丈夫ですか?」


 再びマイクが差し出される。答えようとしたが、今度は全身がビクッと大きく震えた。その異常な動きが巨大なビジョンにも映し出され、観客の目に鮮明に晒されてしまう。


 会場が再び静まり返った。空気が張り詰める。


「何今の、酔ってる……?」


「え?何あれ……?」


「今の何だったの?」


 ひそひそとした囁きが、波のようにじわじわと広がり始める。冷たい視線が一斉に俺に向けられ、突き刺さる。


 馬の被り物の中で、俺の顔は燃えるように熱くなった。羞恥と恐怖が俺を覆い、息が苦しくて堪らない。


 終わった。全部終わった。


 その言葉が頭の中で何度も繰り返される。


 頭の中でその言葉が何度も繰り返される。


 MCは助けを求めるようにスタッフを見回し、会場のざわめきが次第に大きくなる。


 足元が崩れ落ちそうになるのを必死で耐えながら、俺はただ呆然と立ち尽くしていた。


 その瞬間、小学校の全校集会でチック症状が出た記憶が、鮮明にフラッシュバックした。


『気持ち悪い』


『変なやつ』


 全校生徒の笑い声が耳の中でこだまする。あの日の惨めさが体を駆け抜け、息が詰まりそうになる。


 馬の被り物の中は冷や汗でびしょ濡れになり、視界が曇ってゆく。呼吸が浅く、早くなっていく。


MCが困った表情を浮かべながらも、プロらしく気を取り直して俺に向き直った。


『で、では、ピアノの演奏を……優Pさん、お願いします』


 優しく促され、俺はピアノに向かうものの、指先が震えて思うように動かない。必死に鍵盤を押すが、指が言うことを聞かず、響いたのは耳障りな不協和音だった。


「え……?」


「マジでヤバくない?」


 会場が明らかにざわつき始め、MCも焦った様子でスタッフを見回す。


『あの、少々お待ちください。調整が……』


 明らかに視線で助けを求めるMCの姿が視界の隅に映る。会場のざわめきはますます広がり、冷たい言葉が次々と俺の耳に突き刺さってくる。


「何これ?」


「本当に優P?」


「え?中身違うの?それ詐欺じゃん」


 心臓が凍りつきそうになる。


 ステージから今すぐ逃げ出したい。でも体は完全に硬直して動かない。逃げ場も、隠れる場所もない。


――もう終わりだ……みんなに迷惑をかけた……真珠も北斗も美弥も……。


 絶望が頭の中を埋め尽くし、視界が歪み始めた。


 その時だった。


『あ、皆さん!今、緊急のお知らせが入りました!優Pさんのメンバーから映像が届いています!』


 MCが突然、必死に声を張り上げる。


 俺はぼんやりとした視線を上げ、MCの言葉を理解するまで数秒かかった。


 ――映像?なんだそれ……そんな話聞いてないぞ?


 会場の照明が一気に暗転し、完璧な静寂が訪れる。


 闇の中、電子ノイズ音が耳に響き、徐々にその音が大きくなる。会場全体がその音に包まれ、静寂はさらなる緊張感を生み出した。


 次の瞬間、巨大な大型ビジョンが青白い光を放ちながらゆっくりと点灯する。その幻想的な光が会場全体を神秘的に照らし出した。


 観客全員が息をのんで見守る中、俺も光に引き込まれるように、震える視線をゆっくりと上げた。


 そこに映し出されたのは、眩しく輝くスタジオの中、明るい笑顔で俺を見つめる真珠と北斗の姿だった。


 真珠は元気よく手を振り、俺に向かって声をかける。


『やっほー、優P!聞こえてる!?』


 その声と笑顔が、凍りついた俺の心を一瞬で暖かく溶かし始めた。

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