駅の隅、人目を避けながら俺は馬の覆面を被る。覆面の中で息をついた。心臓がドクドクと鳴る。
周囲の喧騒が遠く聞こえる。駅前の雑踏、人々の足音、遠く響く電車の到着音。すべてが背景に溶け込み、俺の鼓動だけが耳に残る。
「優P、準備は?」
隣でギターケースを開けながら、美弥が俺を見た。普段と変わらない、無表情で淡々とした声音。
「……やるしかないか」
そう口にしてみたものの、本当に「やる」と思えているのかはわからない。頭の中で考えるよりも、手のひらがじんわりと汗ばんでいることのほうが現実的だった。
俺がこうして駅前に立っている理由。それは、数時間前に遡る——。
ついさっきまで、俺は美弥の家のライブハウス『VERSUS』にいた。
「おーし、だいぶノリが出てきたな!」
智樹さんがギターを片手に笑う。彼の弾くリズムに合わせるように、美菜さんが軽くドラムを鳴らした。
「前より力が抜けてる。もうライブでも大丈夫ね」
美菜さんも優しく微笑んでいた。
ライブハウスの照明の下で、俺は鍵盤の感触を確かめるように指を動かした。
「やっと……わかってきたかも」
音を感じて弾く。生のノリを意識する。理屈じゃなく、感覚で音楽を鳴らす。最初は不安で固くなっていた指先も、繰り返すうちに自然と鍵盤を押さえていた。
ここ数日間の練習で、それが少しずつできるようになってきた。
けど——。
「じゃあ、最終試練に行こう」
美弥の何気ない一言が、すべてを決めた。
「……は?」
「今から駅前で二人でライブ」
「ちょっと待て!? 前回駅の人に注意されたよね?」
「問題ない。パパたちが事前に話を通してくれてる」
いや、それ今初めて聞いたんだけど!?
「それに今回は真珠たちもいない。"私と優P" の二人だけ」
その言葉に、俺の背中を冷たい汗が伝う。
いや、余計に心配なんだけど……。
「ちょ、ちょっと待てよ。もう少し段階踏んで——」
「未来の息子、行って来い!」
智樹さんが大笑いしながら親指を立てる。
気がついたら、俺はタクシーに乗せられ、今ここにいる。
……つまり、俺の意思はどこにも反映されていない。
そして、今。
駅前のストリートピアノの前に座り、俺は深く息を吐いた。
「優P」
美弥が短く俺を呼ぶ。
「練習の成果、見せて」
それは命令じゃない。ただ、俺の背中を押す一言。
俺は手を鍵盤に置いた。
やるしかない。
そう、やるしかないんだ——。
鍵盤に触れる指が震える。でも、俺は目を閉じた。音を思い出す。『VERSUS』での練習の感覚。智樹さんの弾くリズム、美菜さんの軽やかなスティックの音、美弥のギター。
それを全部、今ここに持ってくるんだ。
指に力を込めた。
最初の音を鳴らす。
静かな旋律。鍵盤の上を滑る指先が慎重にリズムを刻む。
美弥もギターを構え、俺の音に合わせるようにストロークを始める。
徐々に、音が形を作っていく。
「……え、なにあれ?」
「馬の被り物してる人がピアノ弾いてるんだけど……」
「いや、シュールすぎでしょ(笑)」
最初に反応したのは、通りすがりの見知らぬ人たちだった。戸惑いながらも、足を止める者が増えていく。
それでも、俺は手を止めない。
ライブハウスでの練習を思い出しながら、徐々にテンポを上げる。指が軽くなっていく。鍵盤が心地よく響き始める。
「えっ、これ……!」
「この前、バズってたやつじゃない!?」
「動画で見た! マジであの人たち?」
知ってる人たちのざわめきが混ざる。
演奏が続く中、最初に反応した人たちが、次第に曲の流れに飲まれていく。
美弥のギターがリズムを刻み、俺のピアノが旋律を添える。
周囲のざわめきが次第に音楽へと変わり、まばらだった聴衆が増え、リズムに合わせて体を揺らし始める。
少しずつ、演奏が場の空気を支配していく。
「……これ、すごいんじゃない?」
「まじでこの場で生で聴けるの、やばくない?」
「このピアノ、やっぱ優Pっぽいよな……?」
そんな声が聞こえ始めたころ、ふと視線を向けると、近くのカフェのテラス席に座っていた長身の男が立ち上がった。デニムにレザージャケット、無造作に流した髪。そのままゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
騒ぎに紛れていたはずのその男は、確実に俺たちに目を向けていた。
「やっぱり、またやると思ったぜ」
近くまで来て、低く抑えた声が響く。
隣にいた女性が軽く笑う。落ち着いた雰囲気を持ち、男とは自然なやり取りを交わしている。
「やっぱり、気になってたんですね?」
「まぁな。実際に聴いて確信したよ。またここに来るんじゃないかって思ってた」
美弥の指が、一瞬だけ止まる。しかし、何事もなかったようにギターを抱え直した。
俺は、男と美弥を交互に見た。
「知り合い?」
美弥は少し間を置いて、静かに答えた。
「……カガミ・シン」
美弥は淡々と、「日本のトップギタリスト」とだけ答えた。
「え、マジ!?」
「なんでこんなとこに?」
「えっ本物!?」
駅前のざわめきが、一気に大きくなる。
カガミ・シン。ギターを片手に、俺たちをじっと見つめる男。
その目には確かな興味が宿っているように見えた。
まるで、次の瞬間を楽しみにしているかのように。
そして——
「……ちょっと遊んでみるか?」
そう呟きながら、彼はギターを手に取った。
駅前の空気が変わる。
美弥が軽く指を弦の上で滑らせる。
挑戦を受ける気は満々のようだ。
俺の心臓が、再び高鳴る。
これから始まるのは、ただのストリートライブじゃない。
観客のざわめきが静まり、熱を帯びた視線が俺たちに集中する。
指を鍵盤に置きながら、美弥と目を合わせた。
観客の視線が集まる中、カガミがギターを手に取ると、静かな張り詰めた空気が広がる。
その指が弦に触れた瞬間——衝撃が走った。
鋭く、圧倒的な速さのリフが空気を切り裂く。
一音一音が鮮烈な存在感を持ち、観客の息を呑ませる。まるで音の刃が空間を切り裂くようなプレイ。
しかし——美弥は微動だにしなかった。
彼女は静かにギターを構え、弦を弾く。
まるで水の流れのように滑らかで、しかし鋭く突き刺さるフレーズ。
カガミの音に飲まれるどころか、その音を受け流しながら、自分の旋律をぶつける。
音がぶつかり合い、絡み合い、切り裂くように交差する。
カガミの高速ピッキング、美弥の繊細かつ超絶技巧。
二人のギターが激しく火花を散らし、駅前の空間が異次元へと変貌する。
観客の歓声が上がる。
「……マジかよ、なんだこのレベル……!」
「プロのギターバトルじゃん……!」
美弥の指は止まらない。
彼女のプレイはまるで機械のような正確さと、人間の魂が宿る感情の両方を持ち合わせていた。
カガミがわずかに目を細める。
「——面白い」
次の瞬間、彼の指がさらに加速する。
容赦のない音圧、圧倒的な支配力。
だが——美弥は笑った。
無表情の彼女が、かすかに口角を上げた。
「——そっちが本気なら、こっちも出す」
その瞬間、美弥のギターが爆発する。
超高速のフレーズ、常識外れの運指。
まるでギターが生き物のようにうねり、変幻自在に音を繰り出す。
カガミの目がわずかに驚きを帯びた。
「こいつ……その顔でじゃじゃ馬かよっ……!」
「余計なお世話……!」
音と音がぶつかり合い、絡み合い、観客の心臓を揺さぶる。
俺は目を奪われた。
これは——音楽の闘いだ。
音と音がぶつかり合い、絡み合い、観客の心臓を揺さぶる。
カガミ・シンのギター、美弥のギター。
火花を散らすようなフレーズの応酬、衝突するリズム。
空間が音で埋め尽くされる。
——俺は、このバトルに入るべきなのか?
鍵盤に触れた指が、わずかに強張る。
ミスは許されない。
俺が入ることで、この完璧なセッションが崩れるかもしれない。
でも、このまま傍観者で終わるのか?
ライブハウス『VERSUS』での練習が頭をよぎる。
智樹さんのギター、美菜さんのドラム。
美弥の弾く音の熱。
『――音を感じろ。頭で考えるな』
『――楽譜通りじゃ意味がない』
そうだ。
俺は、音楽をやってるんだろ?
考えるな……。
——目を閉じる。
空気を、音を、熱を、全身で感じる。
息を吸い、鍵盤に手を置く。
一音。
ギターのリズムにジャズのコードを重ねる。
跳ねるフレーズで、ギターの応酬に入り込む。
美弥がすかさず絡む。
カガミがわずかに口元を歪める。
「——へっ待ってたぜ」
俺は鍵盤を弾く。
緩急をつけたフレーズで、ギターに対抗する。
美弥のギターが応える。
「ちっ、嬢ちゃんだけじゃなく、こいつもバケモンかよ……」
カガミの指が加速する。
三つの音が絡み合い、響き合う。
観客のざわめきが、熱を帯びた歓声に変わる。
俺は、今確かにこの音の中にいる。
——音楽で、俺は戦っている。
観客のざわめきが、熱を帯びた歓声に変わる。
俺は、今確かにこの音の中にいる。
——音楽で、俺は戦っているんだ。
カガミ・シンの視線が俺を捉えた。
鋭い笑みが浮かぶ。
「やるじゃねえか、優P」
言葉と同時に、カガミのギターが吠える。
激しく情熱的なフレーズ、極限まで研ぎ澄まされた速弾き。
その挑発に、美弥が即座に反応する。
指板を滑る手が生み出す音は、氷の刃のように鋭く、精密。
ギター同士が火花を散らす中、俺は迷わずピアノを叩いた。
ジャズのリズムを乗せ、軽快なフレーズで切り込む。
跳ねる音、絡む旋律。
ギターの応酬に、新たな展開を生み出す。
カガミが微かに口角を上げる。
「ほう……」
美弥も俺をちらりと見た。
彼女の目には、確かな信頼が宿る。
音の波が押し寄せ、観客が歓声を上げる。
ここで終わらせるつもりはない。
カガミのギターが一気に加速する。
美弥がそれに応じ、音が絡み、ぶつかり、弾ける。
俺のピアノがその熱をさらに引き上げた。
三つの音が混ざり合い、限界まで駆け上がる。
観客の興奮が頂点に達する。
最高潮の瞬間——。
最後の音が響き渡る。
空気が張り詰める。
一瞬の静寂。
そして——
轟く歓声!
駅前が歓喜の波に包まれる。
俺は息を整えながら、ゆっくりと鍵盤から手を離した。
美弥もギターのネックを握りしめたまま、静かに息を吐く。
熱を帯びた余韻が、まだ空気の中に残っていた。
カガミ・シンがギターを下ろし、俺たちを見渡す。
「——いいじゃん。お前ら、最高だよ」
俺たちは、確かにこの音で戦った。
観客の歓声の中、俺は少しだけ、誇らしく空を仰いだ。