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第37話 VERSUS

 駅の隅、人目を避けながら俺は馬の覆面を被る。覆面の中で息をついた。心臓がドクドクと鳴る。


 周囲の喧騒が遠く聞こえる。駅前の雑踏、人々の足音、遠く響く電車の到着音。すべてが背景に溶け込み、俺の鼓動だけが耳に残る。


「優P、準備は?」


 隣でギターケースを開けながら、美弥が俺を見た。普段と変わらない、無表情で淡々とした声音。


「……やるしかないか」


 そう口にしてみたものの、本当に「やる」と思えているのかはわからない。頭の中で考えるよりも、手のひらがじんわりと汗ばんでいることのほうが現実的だった。


 俺がこうして駅前に立っている理由。それは、数時間前に遡る——。


 ついさっきまで、俺は美弥の家のライブハウス『VERSUS』にいた。


「おーし、だいぶノリが出てきたな!」


 智樹さんがギターを片手に笑う。彼の弾くリズムに合わせるように、美菜さんが軽くドラムを鳴らした。


「前より力が抜けてる。もうライブでも大丈夫ね」


 美菜さんも優しく微笑んでいた。


 ライブハウスの照明の下で、俺は鍵盤の感触を確かめるように指を動かした。


「やっと……わかってきたかも」


 音を感じて弾く。生のノリを意識する。理屈じゃなく、感覚で音楽を鳴らす。最初は不安で固くなっていた指先も、繰り返すうちに自然と鍵盤を押さえていた。


 ここ数日間の練習で、それが少しずつできるようになってきた。


 けど——。


「じゃあ、最終試練に行こう」


 美弥の何気ない一言が、すべてを決めた。


「……は?」


「今から駅前で二人でライブ」


「ちょっと待て!? 前回駅の人に注意されたよね?」


「問題ない。パパたちが事前に話を通してくれてる」


 いや、それ今初めて聞いたんだけど!?


「それに今回は真珠たちもいない。"私と優P" の二人だけ」


 その言葉に、俺の背中を冷たい汗が伝う。


 いや、余計に心配なんだけど……。


「ちょ、ちょっと待てよ。もう少し段階踏んで——」


「未来の息子、行って来い!」


 智樹さんが大笑いしながら親指を立てる。


 気がついたら、俺はタクシーに乗せられ、今ここにいる。


 ……つまり、俺の意思はどこにも反映されていない。


 そして、今。


 駅前のストリートピアノの前に座り、俺は深く息を吐いた。


「優P」


 美弥が短く俺を呼ぶ。


「練習の成果、見せて」


 それは命令じゃない。ただ、俺の背中を押す一言。


 俺は手を鍵盤に置いた。


 やるしかない。


 そう、やるしかないんだ——。


 鍵盤に触れる指が震える。でも、俺は目を閉じた。音を思い出す。『VERSUS』での練習の感覚。智樹さんの弾くリズム、美菜さんの軽やかなスティックの音、美弥のギター。


 それを全部、今ここに持ってくるんだ。


 指に力を込めた。


 最初の音を鳴らす。


 静かな旋律。鍵盤の上を滑る指先が慎重にリズムを刻む。


 美弥もギターを構え、俺の音に合わせるようにストロークを始める。


 徐々に、音が形を作っていく。


「……え、なにあれ?」


「馬の被り物してる人がピアノ弾いてるんだけど……」


「いや、シュールすぎでしょ(笑)」


 最初に反応したのは、通りすがりの見知らぬ人たちだった。戸惑いながらも、足を止める者が増えていく。


 それでも、俺は手を止めない。


 ライブハウスでの練習を思い出しながら、徐々にテンポを上げる。指が軽くなっていく。鍵盤が心地よく響き始める。


「えっ、これ……!」


「この前、バズってたやつじゃない!?」


「動画で見た! マジであの人たち?」


 知ってる人たちのざわめきが混ざる。


 演奏が続く中、最初に反応した人たちが、次第に曲の流れに飲まれていく。


 美弥のギターがリズムを刻み、俺のピアノが旋律を添える。


 周囲のざわめきが次第に音楽へと変わり、まばらだった聴衆が増え、リズムに合わせて体を揺らし始める。


 少しずつ、演奏が場の空気を支配していく。


「……これ、すごいんじゃない?」


「まじでこの場で生で聴けるの、やばくない?」


「このピアノ、やっぱ優Pっぽいよな……?」


 そんな声が聞こえ始めたころ、ふと視線を向けると、近くのカフェのテラス席に座っていた長身の男が立ち上がった。デニムにレザージャケット、無造作に流した髪。そのままゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。


 騒ぎに紛れていたはずのその男は、確実に俺たちに目を向けていた。


「やっぱり、またやると思ったぜ」


 近くまで来て、低く抑えた声が響く。


 隣にいた女性が軽く笑う。落ち着いた雰囲気を持ち、男とは自然なやり取りを交わしている。


 「やっぱり、気になってたんですね?」


 「まぁな。実際に聴いて確信したよ。またここに来るんじゃないかって思ってた」


 美弥の指が、一瞬だけ止まる。しかし、何事もなかったようにギターを抱え直した。


 俺は、男と美弥を交互に見た。


「知り合い?」


 美弥は少し間を置いて、静かに答えた。


「……カガミ・シン」


 美弥は淡々と、「日本のトップギタリスト」とだけ答えた。


「え、マジ!?」


「なんでこんなとこに?」


「えっ本物!?」


 駅前のざわめきが、一気に大きくなる。


 カガミ・シン。ギターを片手に、俺たちをじっと見つめる男。


 その目には確かな興味が宿っているように見えた。


 まるで、次の瞬間を楽しみにしているかのように。


 そして——


「……ちょっと遊んでみるか?」


 そう呟きながら、彼はギターを手に取った。


 駅前の空気が変わる。


 美弥が軽く指を弦の上で滑らせる。


 挑戦を受ける気は満々のようだ。


 俺の心臓が、再び高鳴る。


 これから始まるのは、ただのストリートライブじゃない。


 観客のざわめきが静まり、熱を帯びた視線が俺たちに集中する。


 指を鍵盤に置きながら、美弥と目を合わせた。


 観客の視線が集まる中、カガミがギターを手に取ると、静かな張り詰めた空気が広がる。


 その指が弦に触れた瞬間——衝撃が走った。


 鋭く、圧倒的な速さのリフが空気を切り裂く。


 一音一音が鮮烈な存在感を持ち、観客の息を呑ませる。まるで音の刃が空間を切り裂くようなプレイ。


 しかし——美弥は微動だにしなかった。


 彼女は静かにギターを構え、弦を弾く。


 まるで水の流れのように滑らかで、しかし鋭く突き刺さるフレーズ。


 カガミの音に飲まれるどころか、その音を受け流しながら、自分の旋律をぶつける。


 音がぶつかり合い、絡み合い、切り裂くように交差する。


 カガミの高速ピッキング、美弥の繊細かつ超絶技巧。


 二人のギターが激しく火花を散らし、駅前の空間が異次元へと変貌する。


 観客の歓声が上がる。


 「……マジかよ、なんだこのレベル……!」


 「プロのギターバトルじゃん……!」


 美弥の指は止まらない。


 彼女のプレイはまるで機械のような正確さと、人間の魂が宿る感情の両方を持ち合わせていた。


 カガミがわずかに目を細める。


「——面白い」


 次の瞬間、彼の指がさらに加速する。


 容赦のない音圧、圧倒的な支配力。


 だが——美弥は笑った。


 無表情の彼女が、かすかに口角を上げた。


「——そっちが本気なら、こっちも出す」


 その瞬間、美弥のギターが爆発する。


 超高速のフレーズ、常識外れの運指。


 まるでギターが生き物のようにうねり、変幻自在に音を繰り出す。


 カガミの目がわずかに驚きを帯びた。


「こいつ……その顔でじゃじゃ馬かよっ……!」


「余計なお世話……!」


 音と音がぶつかり合い、絡み合い、観客の心臓を揺さぶる。


 俺は目を奪われた。


 これは——音楽の闘いだ。


 音と音がぶつかり合い、絡み合い、観客の心臓を揺さぶる。


 カガミ・シンのギター、美弥のギター。


 火花を散らすようなフレーズの応酬、衝突するリズム。


 空間が音で埋め尽くされる。


 ——俺は、このバトルに入るべきなのか?


 鍵盤に触れた指が、わずかに強張る。


 ミスは許されない。


 俺が入ることで、この完璧なセッションが崩れるかもしれない。


 でも、このまま傍観者で終わるのか?


 ライブハウス『VERSUS』での練習が頭をよぎる。


 智樹さんのギター、美菜さんのドラム。


 美弥の弾く音の熱。


『――音を感じろ。頭で考えるな』


『――楽譜通りじゃ意味がない』


 そうだ。


 俺は、音楽をやってるんだろ?


 考えるな……。


 ——目を閉じる。


 空気を、音を、熱を、全身で感じる。


 息を吸い、鍵盤に手を置く。


 一音。


 ギターのリズムにジャズのコードを重ねる。


 跳ねるフレーズで、ギターの応酬に入り込む。


 美弥がすかさず絡む。


 カガミがわずかに口元を歪める。


「——へっ待ってたぜ」


 俺は鍵盤を弾く。


 緩急をつけたフレーズで、ギターに対抗する。


 美弥のギターが応える。 


「ちっ、嬢ちゃんだけじゃなく、こいつもバケモンかよ……」


 カガミの指が加速する。


 三つの音が絡み合い、響き合う。


 観客のざわめきが、熱を帯びた歓声に変わる。


 俺は、今確かにこの音の中にいる。


 ——音楽で、俺は戦っている。


 観客のざわめきが、熱を帯びた歓声に変わる。


 俺は、今確かにこの音の中にいる。


 ——音楽で、俺は戦っているんだ。


 カガミ・シンの視線が俺を捉えた。


 鋭い笑みが浮かぶ。


「やるじゃねえか、優P」


 言葉と同時に、カガミのギターが吠える。


 激しく情熱的なフレーズ、極限まで研ぎ澄まされた速弾き。


 その挑発に、美弥が即座に反応する。


 指板を滑る手が生み出す音は、氷の刃のように鋭く、精密。


 ギター同士が火花を散らす中、俺は迷わずピアノを叩いた。


 ジャズのリズムを乗せ、軽快なフレーズで切り込む。


 跳ねる音、絡む旋律。


 ギターの応酬に、新たな展開を生み出す。


 カガミが微かに口角を上げる。


「ほう……」


 美弥も俺をちらりと見た。


 彼女の目には、確かな信頼が宿る。


 音の波が押し寄せ、観客が歓声を上げる。


 ここで終わらせるつもりはない。


 カガミのギターが一気に加速する。


 美弥がそれに応じ、音が絡み、ぶつかり、弾ける。


 俺のピアノがその熱をさらに引き上げた。


 三つの音が混ざり合い、限界まで駆け上がる。


 観客の興奮が頂点に達する。


 最高潮の瞬間——。


 最後の音が響き渡る。


 空気が張り詰める。


 一瞬の静寂。


 そして——


 轟く歓声!


 駅前が歓喜の波に包まれる。


 俺は息を整えながら、ゆっくりと鍵盤から手を離した。


 美弥もギターのネックを握りしめたまま、静かに息を吐く。


 熱を帯びた余韻が、まだ空気の中に残っていた。


 カガミ・シンがギターを下ろし、俺たちを見渡す。


「——いいじゃん。お前ら、最高だよ」


 俺たちは、確かにこの音で戦った。


 観客の歓声の中、俺は少しだけ、誇らしく空を仰いだ。

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