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第35話 屋上デート

 屋上のドアが勢いよく開く音が響いた。


「はぁっ……はぁっ……!」


 息を切らしながら、俺と真珠は屋上に飛び込む。走りきった勢いで、二人とも扉の近くにへたり込んだ。


「ふ、ふぅ……」


 俺は深く息を吐き、ゆっくりと肩で呼吸しながら体を起こす。すると、真珠も同じように体を起こし、俺を見上げた。


 風にそよぐ白金の髪。少し紅潮した頬。息で上下する胸元。その姿に、俺は思わず一瞬だけ目を奪われた。


 その時、俺はようやく自分がまだ真珠の手をぎゅっと握ったままだったことに気づく。


「あっ……!」


 急いで手を離すと、なぜか妙に恥ずかしくなった。さっきはとっさの判断で千秋の前から去る時に勢いで握ってしまったけど、今さらながらに照れくささが押し寄せてくる。


 手のひらに残る真珠の温もり。さっきまで繋いでいた感触が、まだ鮮明に残っていた。


 どうして俺、あんな風に手を握ったんだろう?


 でも、あの時は自然と出た行動で……今、考えると変な汗が出てくる。


「ねえねえ、優!」


 真珠の声が、俺の思考を現実に引き戻した。


「え?あ、なに?」


 ぼんやりしていた俺を不思議そうに見つめながら、真珠は眉を寄せて俺を見た。


「さっき、『新曲ができたかも』って言ったよね?それってどんな曲?教えてよ!」


 そうだった。廊下で千秋と出会った後、走り出す時に俺は「新曲ができたかも」って口にしていたんだった。真珠は真剣な目で俺を見つめている。


「あ、あれは……そうだな、まだ完全に形になってるわけじゃないんだけど……」


 言いながら、俺は手を振って説明しようとした。


「走ってる時に、何か浮かんできたっていうか……頭の中に突然舞い降りてきたような感覚があって……」


「そうなんだ!」


 真珠の目が星のように輝き出す。彼女はぴょんぴょんと飛び跳ねるように俺の前に立った。


「それってすごいことだよ!インスピレーションが降りてきたんだね!」


 真珠の無邪気な反応に、俺は少し照れくさくなる。まるで子供のように素直に喜んでくれる彼女の姿を見ていると、なんだか自分までワクワクしてくる。


「ほら、優、詳しく教えてよ!どんなイメージ?どんな曲調?新しいこと試そうとしてるの?」


 次から次へと飛んでくる質問に、俺は少し手をふって答えようとする。だけど……。


 ――真珠の手と繋いでた感触。


 ――ふわっと甘い香り。


 ――笑顔に流れる白金の髪。


 いつのまにかそんなことばかり考えていた。


 さっきはあんなに勢いよく手を取って引っ張ったのに、なぜだか今は意識しすぎて、思考がまとまらない。


「……優?ねえ、聞いてる?」


 真珠が俺の目の前で手を振った。


「え?あ、ごめん……考え事してた」


 思わず言い訳するような言葉が漏れる。


「もう!大事な話なんだからちゃんと聞いてよ!」


 真珠はほんの少しだけ頬を膨らませた。その仕草に、なぜだか俺は心が温かくなる。こういうところも真珠らしくて……。


「ごめんってば。でもね、まだ形になってないから……今はまだ、楽しみにしといてよ」


 そう言うと、真珠の顔がパッと明るくなった。


「ほんと?約束だよ?いつか必ず聴かせてくれるんでしょ?」


「ああ、約束する」


 俺たちはそこで会話を一旦切り、屋上の端に移動した。空は青く、雲がゆっくりと流れている。風がさわやかに頬を撫でていった。


 少し歩いて風に吹かれていると、真珠が小さく「あっ」と声を上げた。


「そういえば、お腹空いたね。お昼食べようよ」


 そう言って、真珠は自分のカバンに手を入れた。


「じゃ~ん!実はサンドイッチ作ってきたんだ~!」


 カバンから取り出したのは、きれいに包装されたサンドイッチ。真珠は得意げに俺の前に差し出した。


「え、それって……」


「今朝早起きして作ったの!」


 真珠はとても誇らしげに胸を張った。


「た、食べていいの?」


 思わず遠慮がちに聞いてしまう。


「もちろん!召し上がれ!」


 真珠は満面の笑みで、サンドイッチを俺に手渡した。


 俺はおそるおそる一口かじってみる。


「……うっ!美味しい!」


 思わず声が出た。ほんのりと甘いたまごサンドと、シャキシャキしたレタスの食感。絶妙な味付けが口の中に広がる。


 真珠が嬉しそうに、少し照れくさそうに笑う。


「本当?良かった~!」


 彼女の嬉しそうな表情を見ていると、なんだか自分まで幸せな気分になってくる。


 俺たちは並んで腰掛け、サンドイッチを分け合いながら、青空を眺めた。風が心地よく吹き抜けていく。昼休みの屋上は、不思議と二人だけの空間みたいだった。


「ねえ優」


 真珠がもぐもぐと食べながら言った。


「あのさ、そういえば今朝のSNS、フォロワー爆増してたよね?」


「ああ、それ!」


 俺は思わず声を上げた。


「俺も朝起きてびっくりしたよ。二千人くらいだったのが、急に二万超えてて……」


「すごいよね~。あの動画、マジで効果抜群って感じ」


 真珠が楽しそうに頷き、自分のスマホを取り出した。


「ほら見て、あの後もどんどん再生数が増えてる!」


 スマホの画面に映し出された動画の再生数は、すでに八百万回を超えていた。


「千いくんじゃないか……これ……」


「でしょでしょ?」


 真珠は得意げに頷く。


「それだけじゃないよ!さっきちらっとみたんだけど……ほら、これ見て」


 真珠が俺のスマホを手に取り、スクロールしながら、次々と通知やメッセージを見せてくる。


「これ、『ミュージックジャンプ』の編集部からのメッセージ。『今度うちが発行している記事でインタビューさせてください』だって!」


「マジで?」


 俺は思わず身を乗り出した。ミュージックジャンプといえば、業界でもトップクラスの音楽雑誌だ。優Pどころか、プロの音楽家だってなかなか取り上げられるものじゃない。


「すごいね、それ……」


「まだまだあるよ!」


 真珠はさらにスクロールして、別のメッセージを見せる。


「これ、カルマPからだよ?『フォロバありがとう。突然だけど、いつか時間ある時にでも話がしたい』って」


「カルマ……Pから?」


 その名前を聞いただけで、俺は心臓が跳ねた。今朝、真珠に言われ急いで調べたけど、カルマPはボカロシーンのトップクリエイターで、メジャーデビューも果たしている超有名プロデューサーだ。そんな人から直接メッセージなんて……。


「他にも、こんなのもある!」


 真珠は次々とメッセージを見せてくる。


「有名歌い手からのコラボの誘いとか、レーベルからのDMまで……」


 あまりの情報量に、俺は頭が追いつかなくなった。


「ちょ、ちょっと待って……こ、これ全部俺宛て?」


「そうだよ!」


 真珠は楽しそうに目を輝かせている。


「ヤバいよ優!あのゲリラライブの動画、マジで業界の人たちの注目を集めてるみたい!」


 そう言いながら、彼女は別のページを開いた。


「ほら、SNSとか見ると、『馬面パフォーマーの正体は?』『ギター少女は何者?』みたいな記事まであるよ!」


 そういえば、俺はあの時、馬の被り物をしていた。何が恥ずかしいって、あんな姿が全国に拡散されてると思うと……。


「うっ……」


 ん~!


 突然、チック症状が出た。思わず小さな声と共に体が震える。こういう時に限って出てしまうんだよな……。


 真珠はそんな俺の様子を見ても、何事もなかったかのように話を続ける。


「でもさ、あの馬の被り物、逆に良かったと思うよ?ミステリアスだし、みんな気になるじゃん!」


 そう言って彼女は明るく笑った。この子は本当に、俺のチック症のことを何も気にしていない。いつも通りに接してくれる。その姿勢が、俺の緊張を少しずつ解きほぐしていく。


「北斗もすごいメジャーだけど、私も結構質問攻めにあってて……『あのピアニストと真珠はどういう関係?』とか、『あのギターの子は誰?』とか……」


 さらに真珠はスマホのページをスクロールして、俺に見せる。


 確かに、動画の下のコメント欄にはいろんな憶測が並んでいる。


「優Pって、最近スピカとよくコラボしてた人……?」

「マジで優Pなの?」

「真珠とどういう関係?」

「ギター少女可愛かった」

「あの馬のテクニック……ヤバすぎて笑う。あれ鍵盤見えてんの?」


 そんなコメントの数々を見ていると、俺はだんだんと頭が混乱してきた。


「なんか凄い事になり過ぎてないか……?フォロワーだって、どれにどう返信していいのかわかんないよ……」


 俺は頭を抱えた。ネットでの注目なんて考えたこともなかったし、突然の反響に戸惑うばかりだ。


「あ、そうだ!私が代わりにやってあげる!」


 真珠が急に明るい声を上げ、俺のスマホを再び操作し始める。


「いや、そんな、悪いよ」


「いいから、いいから!私、こういうの慣れてるし!」


 そう言って、真珠は俺のスマホをスクロールし始めた。小さく舌を出しながら、真剣な表情でスクロールしていく。時々「うんうん」と頷いたり、「うーん」と唸ったりしながら、指先が器用に画面を滑っていく。


 その姿を見ていると、なんだか不思議と安心感があった。真珠は本当に、いろんなことを自然にやってのける子だ。


「よし、こっちのメッセージはこうして……」


 真珠は小さく呟きながら、何やら返信を書いている。


「それから、フォローバックは……」


 時間が経つのも忘れて、彼女は集中して作業を続けた。俺はその横で、サンドイッチの最後の一口を頬張りながら、ただ見守っていた。


 しばらくすると、真珠は満足そうな顔でスマホを手渡してきた。


「はい!とりあえずこんなもんかな!」


「あ、ああ、ありがとう」


 俺はスマホを受け取り、画面を覗いた。いくつかのメッセージには丁寧な返信がされていて、特に重要そうなものには「詳細は改めて連絡します」といった適切な文言が添えられていた。


 そして、フォロワーリストを見ると……。


「あれ?」


 よく見ると、なぜかフォロー返しをした相手のほとんどが男性アカウントだった。女性アカウントは明らかに少なく、有名な女性歌い手やプロデューサーのアカウントでさえ、フォロー返しがされていない。


 俺は思わず真珠をチラリと見た。すると、真珠はキョトンとした顔で俺を見返している。


「何?何か問題あった?」


 その声には、かすかに挑戦的な色が混じっていた。


「い、いや、何もないよ!全然!」


 俺は慌てて首を振った。もしかして……いや、違うよな?そんな理由があるわけないよな?


 そんな俺の葛藤を知ってか知らずか、真珠はスッと立ち上がった。


「あ、そうだ。北斗に送ったミックスデータ、確認してもらえたかな?」


 そう言いながら、自分のスマホを取り出す真珠。


 ちょうどその時だった。


 真珠のスマホが鳴り始めた。


「あ、北斗だ!」


 真珠が言って、すぐに電話に出る。


「もしもし?北斗?どうしたの?」


 最初は明るい笑顔だった真珠の表情が、徐々に固まっていく。眉がピクリと動き、瞳に不安の色が広がっていった。


「え?……今日?……何のミーティング?」


 真珠は一度俺の方をチラリと見て、少し体を背けるように声を小さくした。その仕草に、なぜか胸がざわついた。


「ええっ!? そんな急に? あと何日もあるし、まだ早いんじゃ……」


 真珠の声が次第に緊張感を帯びていく。電話の向こうで北斗が何を言っているのか、俺にはわからないけど、真珠の表情から察するに、良い話じゃなさそうだ。


「え?まさか……もう決まっちゃったの?」


 俺は思わず真珠に近づいた。彼女の顔に浮かぶ困惑を見て、何だか不安が込み上げてくる。


「うん……うん……あの、それって私と北斗のモデルの撮影日と……」


 真珠はさらに声を落として話し続ける。時折、強く頷きながら電話の内容に反応している。


「でも、それって変更は……うん、そっか……」


 そして最後に、真珠は大きくため息をついた。


「わかった。う、うん、こっちでも確認してみる…優にも説明しておくね」


 そう言って、真珠は電話を切った。スマホを握る指先が、わずかに震えている気がした。


「な、何かあったの?」


 俺が問いかけると、真珠は言葉を選ぶように口ごもった。彼女の目はどこか泳いでいて、どう伝えればいいか迷っているようだった。


「その、まだ完全に確定したわけじゃないんだけどね……」


 真珠は息を深く吸い込んだ。


「コミックワールドの主催者側から連絡があったんだって」


「コミックワールド?あの北斗が言ってた同人イベント?」


「そう。あのね、主催側のミスで……なんか出演時間が変わっちゃったみたいで……私と北斗の入りが間に合わないというか……」


 真珠の言葉が続く。一つ一つの言葉が、重たい石のように胸に沈んでいく。


「それで、もしかしたら当日の出演……優とみゃ~子の二人で繋いでもらわないといけなくなるかも……」


「え?」


 頭が真っ白になる。言葉の意味が飲み込めず、俺は呆けたように真珠を見つめた。


「ちょ、ちょっと待って……それってどういうこと?」


 真珠は申し訳なさそうな顔で、小さく肩をすくめた。


「私と北斗には別の仕事が入っちゃって……でもコミックワールドは絶対にキャンセルできない重要な機会だから……」


 俺は自分の耳を疑った。


「そ、それってつまり、僕と美弥の二人で……あのデカいステージを……二人が来るまでの間、美弥と俺で何とかしないといけないってこと……?」


 俺の質問に、真珠は困った顔でゆっくりと頷いた。そして苦笑いしつつ視線を逸らす。


「えええええっ!?」


 俺の叫び声が屋上に響き渡った。


「待って待って待って!冗談でしょ!?俺、あんな大舞台で……美弥ともほとんど合わせたことないのに……どうすんだよそんなの!?」


 パニックになる俺に、真珠はすぐに両手を振った。


「あ、あくまでもしかしたら、だからね!まだ確定じゃないし……それに私も何とか調整してみるから!そ、それにほら!ピンチはチャンスってよく言うじゃん!」


 誤魔化すように言う真珠。でも、俺の動揺は収まらない。頭の中で次々と不安な想像が膨らんでいく。巨大なステージ、大勢の観客、そして俺と美弥だけで……美弥、あの子と二人?


頭の中で、あの何を考えているのか分からない、無表情な顔がぐるぐると回りだす。


「ハッ……!?む、無理だよ、絶対無理……!」


 その言葉と共に、全身から冷や汗が噴き出した気がした。

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