優斗君の背中が遠ざかっていく。手を伸ばしても届かない場所へ、あっという間に消えていった。
私はただ、その光景を見つめることしかできなかった。
「行こう、スピカ!」
最後に聞こえた優斗君の声は、まるで別人のようだった。自信に満ちて、力強くて。今まで聞いたことのない声色。
「なに、あれ……」
思わず呟いた私の横で、浅間先輩が悔しそうに歯を噛みしめている。その目には、今まで見たことがないような激しい感情が宿っていた。
「なんでだよ……なんであんなキモい奴が……あんないい女と……」
浅間先輩の声は低く、憎しみすら感じる響きだった。
「え?」
私は思わず声を上げた。浅間先輩は私の彼氏なのに、どうして真珠のことをそんな風に言うの?
あれ?でも、そういえば……昨日も。
昨日の昼休み、私たちが裏庭にいた時のことを思い出す。浅間先輩は真珠に声をかけようとしていた。でも真珠はほとんど見向きもせず、「優のことを何にも知らないくせに適当なこと言わないで!」と言い捨てただけだった。
その時の浅間先輩の表情は……私に見せる顔とは違った。悔しさ、恥ずかしさ、そして怒り。全部が混ざったような、醜い顔だった。
今の浅間先輩も同じ顔をしている。
私は胸の奥に小さな違和感を覚えた。私のことを好きだと言っていたのに、どうして真珠のことを「あんないい女」なんて言うの?
でも、そんな考えは浅間先輩の次の一言で吹き飛んだ。
「ねえ千秋ちゃん……あいつにあの時の動画見せたら、どんな顔するかな?」
にやりと笑う浅間先輩。
私の頭から血の気が引いた。
「え……?」
土曜日の夜。
あの日、私は浅間先輩に誘われてホテルに行った。正直、少し興味もあったし、先輩は私の憧れの存在だった。みんなが羨むような彼氏と初めての夜を過ごすなんて、ドラマみたいだと思った。
もちろん優斗君とは付き合っているけど、先輩との関係も大切。どっちも捨てたくない。別に悪いことじゃないし、みんなだってこうやって経験を積んでいくんだから。
「記念に撮っておこうよ」
浅間先輩がスマホを向けてきた時は、さすがに驚いた。恥ずかしかったけど、先輩が「俺だけのものにしておくから」と言うから、まあいいかと思ったし、ちょっとドキドキもした。
だって、こんな風に求められるなんて、女としては嬉しい事だもの。
あの夜は確かに楽しかった。優斗君とは違う、大人の関係。翌朝目覚めた時、浅間先輩は「送っていくよ」と笑ってくれて、私はなんだかそれだけで特別な気分だった。
優斗君には言えないけど、悪いとは思っていない。だって、優斗君も私も傷つかなければ、何も問題ないはずだもの。
でも、そんな動画が優斗君の目に触れるなんて……そんなことになったら——。
「だ、だめ!そんなこと……!」
考えただけで恐ろしくなり、私は思わず声を上げた。優斗君があの動画を見たら、私への想いが壊れてしまう。それだけは絶対に避けなければ。
私は必死に浅間先輩の腕を掴んだ。
浅間先輩は一瞬きょとんとした顔をしてから、いつもの爽やかな笑顔に戻った。
「いやだな〜千秋ちゃん、冗談に決まってるじゃん」
そう言うと、すたすたと歩き出す。
私はほっと胸を撫で下ろした。浅間先輩なら、そんなことするはずないよね。私を大切にしてくれるって言ってたし……。
でも、さっきの浅間先輩の顔は、どうしても頭から離れない。あの笑顔の裏に潜む何かが、私の中で違和感として残り続けた。冗談のはずなのに、どこか本気の色が見えた気がする。
浅間先輩の背中を見つめていると、なぜだか怖くなってきた。本当に冗談なのかな?もし本気で動画を見せるつもりだったら……そんなことされたら私は……。
考えれば考えるほど、不安がつのる。
そんな気持ちを紛らわすように、私は別のことを考えようとした。そして、走り去っていった優斗君の姿が脳裏に浮かんだ。
あんな堂々とした優斗君、初めて見た。いつも誰かの陰に隠れて、おどおどしていた優斗君。小さな声で私に話しかけてくる優斗君。
でも今日の彼は違った。胸を張って、まっすぐ前を見て、浅間先輩にも全く動じていなかった。
あの姿は……かっこよかった。
でも――。
その隣に立っていた真珠の顔も同時に浮かぶ。
私の優斗君の手を握って、何か勘違いしたあの顔で、嬉しそうに目を輝かせていた女。
なんであの子が?なんで私の優斗君を奪おうとしてるの?
優斗君は私のもの。いつだって私のそばにいるべき存在。ずっと高校に入る前から、私だけが特別だった。私に頼ってきた優斗君が、私は好きだった。私がいなければ何もできない、そんな優斗君が心地よかった。
別に浅間先輩と付き合ってるからって、優斗君を捨てたわけじゃない。私にはどっちも必要なの。浅間先輩は私を特別扱いしてくれる存在。優斗君は私を必要としてくれる存在。
なのに、なぜかあの子は私の優斗君と手を繋いで、当たり前のように笑って……。
あの子はこっちの領域に勝手に踏み込んできて、私の優斗君を奪おうとしている。どんどん彼女のことが憎たらしく思えてくる。
真珠のことを思うだけで、胸の中が苛立ちで一杯になる。何様のつもりなの?
何とかしなきゃ……私の優斗君を取り戻さなきゃ。優斗君は私がいないと駄目なはず。あの子なんかに奪われるわけにはいかない。
「千秋ちゃん、どうかした?」
前を歩いていた浅間先輩が振り返り、私の顔を覗き込んできた。
「え?あ、ううん、なんでもない」
私は平静を装って首を横に振り、いつものように微笑んだ。
でも心の中では、絶対に負けないという決意が固まっていた。
優斗君は私のもの。誰にも渡さない。
朝の一件だって、きっと何かの食い違い、話せば彼はきっとわかってくれる。
そう……優斗君に必要とされているのは、いつだって私なんだから。