朝の冷たい空気が肌を刺す中、学校の門をくぐる。
校舎の中に足を踏み入れると、雑多な声が入り混じる喧騒が耳を打つ。生徒たちの笑い声、廊下を駆ける足音、ロッカーを開ける金属音――いつもの朝の風景だ。
俺はそのまま教室へ向かう。扉を開けた瞬間、ざわめきが少しだけ小さくなった。
ひそひそとした声が、俺の耳に届く。
「なあ、あいつ最近雰囲気変わったよな」
「え?でも美空さんのストーカーなんでしょ?」
「でもそうは見えないよね……?」
「ピアノめっちゃ上手いらしいよ?」
相変わらず俺に対する噂話は尽きない。でも、今の俺にはそれほど響かなくなっていた。
前だったら、こういう言葉を聞くたびに、心臓が締め付けられていた。でも、今は違う。誰がどう思おうが関係ない。今は俺を信じてくれる人がいる。それだけで十分だ。
俺は軽く笑って、そのまま自分の席へ向かう。
その瞬間、不意に後ろからふわりとした感触が背中に押し付けられた。
「優!おっはよ~!」
耳元で弾むような明るい声。ふわっと甘い香りが鼻をくすぐる。
「うわっ!」
心臓が跳ねる。驚いて振り返ると、そこには真珠がいた。……いや、思いっきり俺に抱きついていた。
そのまま一拍。
真珠は「あっ」と小さく声を漏らし、ハッとしたように俺からパッと距離を取った。
「……お、おはよ!」
さっきまでの勢いはどこへやら、なぜか微妙に目を逸らしている。俺も思わず戸惑って、首をかく。
「お、おはよう……」
何だ、この妙な空気。
気まずい沈黙が流れそうになったところで、真珠がパッと表情を戻し、「メッセージ読んだ!?」と話題を切り替えた。
「ああ、読んだよ。最近SNS放置気味だったから、通知ヤバいことになってた……さらっと見たけど、見覚えのある名前とかもあったような気がする……」
スマホを開き、SNSの通知欄をスライドする。
「やっば!これカルマじゃん!」
横から覗き込んでいた真珠が驚愕の声を上げる。
「カルマ?」
俺が聞き返すと、真珠は信じられないという顔で俺を見た。
「カルマだよ!?ボカロ界隈でもトップクラスの人!メジャー進出もしてるし、新曲出したら即ミリオンいっちゃうレベル!」
「ま、まじで……?」
さらっと流したつもりだったけど、まさかそんな大物が俺のアカウントに……。
「ちょ、待って……あ!ハルモナ公式からもフォローされてる!」
「ハルモナ?」
「大手レコード会社だよ!?私も最近フォローされたけど、けっこう凄いとこなんだから!」
真珠が興奮気味に俺のスマホを指差す。俺もさすがに驚きを隠せなくなってきた。
「と、とりあえず続きは昼休みにしよう。周りに聞かれるとまずいから……」
俺がそう言うと、真珠は「……あっ」と言って、両手で口をふさぐ。
「そ、そうだね、まだ作戦中だもんね……」
うんうんと大きく頷く真珠。その直後、スピーカーから朝の予鈴が鳴り響く。
「はぁ~始業前にテンション上がりすぎちゃった」
真珠は小さく息を吐きながら、ふにっと肩を落とし、手をひらひらと振った。軽く首を傾げながら、少しだけ舌を出して「でも、めっちゃ楽しかった~」と呟き席へと着く。
その表情はどこか子供みたいで、無邪気さと満足感が滲んでいた。
「お前な……」
俺は肩をすくめ、苦笑しながら席に着く。
ほどなくして、教室の扉が開き、先生が入ってくる。静かになるクラス内に、教科書を開く音や椅子を引く音が響いた。
「じゃあ、授業を始めるぞ」
先生の言葉とともに、チョークの音が軽快に走る。
俺はノートを開き、ペンを動かしながら、黒板の文字をなんとなく目で追った。授業内容が頭に入ってくるわけでもなく、ふと、さっきの真珠のテンションの高さを思い返した。
あの勢いのまま授業に入るのかと思いきや、今の真珠は机に肘をつきながら、なんとなくノートを取っているだけだった。時折、窓の外をぼんやりと眺めたり、軽くあくびをかみ殺したりと、完全に気が抜けている。
そのギャップが妙に可笑しくて、つい口元が緩む。
時間が経ち、いくつかの授業をこなすうちに、次第に教室の空気も緩んでいく。周囲では、退屈そうにページをめくる音や、小さなため息が聞こえ始めた。午前の授業が終わりに近づくにつれ、少しずつ気の抜けた雰囲気が漂い始める。
やがて、先生が最後の板書を消し、「じゃあ、今日はここまで」と締めくくる。
ノートを閉じる音、椅子を引く音が次々と響く。誰かが小さく伸びをし、近くの席では昼ご飯の話をし始める生徒の声が聞こえた。少しずつ、昼休みの空気が教室全体に広がっていく。
そして、昼休みのチャイムが鳴り響いた。
が、次の瞬間、俺の腕が強引に引っ張られた。
「優!お昼、屋上で食べよ!」
真珠だ。
突然のことに反応する間もなく、ぐいっと手を引かれ、そのまま廊下へと連れ出される。俺は慌てて机に置いてあった鞄を掴むが、半ば無理やりな形で引っ張られることになった。
「ちょ、待って!真珠、力強すぎ……!」
「いいからいいから!早く行こ!」
真珠は振り返ることもなく、ぐんぐんと俺を引っ張っていく。楽しそうに笑いながら、まるで遊びに行く子供みたいなテンションだ。
そんな中、俺たちの進行方向に見覚えのある人影が現れた。
浅間と……千秋。
俺は足を止めかけるが、真珠は即座に敵意を見せる。
浅間は俺と真珠が腕を組んでいるのを見て、不機嫌そうな表情を浮かべた。
「よぉ、天川。ずいぶん早乙女さんと仲良さそうだな?」
「むうっ!でたな浅い男!」
真珠が低く唸るように反応する。浅間に対して、あからさまな敵意を見せている。俺が知る限り、真珠と浅間の接点なんてほとんどなかったはずだけど?ていうか浅い男って……。
「なっ!?なんだよそれ!」
浅間が苛立ったように眉をひそめる。
「そのまんまの意味だけど?」
真珠はあっけらかんとした顔で答えるが、その目は鋭い。
「お前みたいなキモイ奴がなんで早乙女さんと……」
浅間の表情がわずかに歪む。だが、すぐに笑みを取り戻し、千秋の手を取ると、わざとらしく指を絡めた。
「なぁ、千秋ちゃんもそう思うだろ?」
浅間が俺を見てくる。何を言いたいのか、なんとなく分かる気がしたが、結局口を開く気にはならなかった。
千秋が浅間に手を握られても、俺はただ前を向いた。
俺の気持ちは今はまだ変わってない。そう簡単に好きな人を諦められるわけがない、だけど……ここから先どうするかを決めるのは千秋だ。
それに――今は、真珠のおかげで前に進めている。
せっかくここまで来たんだ。もう迷う必要も立ち止まるつもりもない。
俺は真珠の腕をそっと振りほどき、代わりにその手をしっかりと握り直した。その瞬間、胸の奥が軽くなるのを感じる。
「早く行こう、真珠!昼休み終わっちゃうぞ!」
俺の言葉に、真珠は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに嬉しそうに笑う。
「うん!」
俺たちは勢いよく駆け出した。
廊下に足音が響く。真珠の手の温かさが伝わり、走るリズムが自然と揃っていく。
ふと、俺は浅間と千秋の方を振り返る。
二人はその場に立ち尽くし、唖然とした表情を浮かべていた。
俺はその姿を一瞬だけ見つめ、それ以上考えずに真珠の手を握り直し、前を向いた。
「行こう、スピカ!」
真珠も力強く頷き、俺たちはさらにスピードを上げて駆け抜けた。
その瞬間、心の奥からふっと湧き上がるものがあった。まるで風に乗って降りてきたような感覚。
走る勢いのまま、思わず言葉がこぼれる。
「新曲……できたかも!」