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第33話 Change of Heart

 朝の冷たい空気が肌を刺す中、学校の門をくぐる。


 校舎の中に足を踏み入れると、雑多な声が入り混じる喧騒が耳を打つ。生徒たちの笑い声、廊下を駆ける足音、ロッカーを開ける金属音――いつもの朝の風景だ。


 俺はそのまま教室へ向かう。扉を開けた瞬間、ざわめきが少しだけ小さくなった。


 ひそひそとした声が、俺の耳に届く。


「なあ、あいつ最近雰囲気変わったよな」


「え?でも美空さんのストーカーなんでしょ?」


「でもそうは見えないよね……?」


「ピアノめっちゃ上手いらしいよ?」


 相変わらず俺に対する噂話は尽きない。でも、今の俺にはそれほど響かなくなっていた。


 前だったら、こういう言葉を聞くたびに、心臓が締め付けられていた。でも、今は違う。誰がどう思おうが関係ない。今は俺を信じてくれる人がいる。それだけで十分だ。


 俺は軽く笑って、そのまま自分の席へ向かう。


 その瞬間、不意に後ろからふわりとした感触が背中に押し付けられた。


 「優!おっはよ~!」


 耳元で弾むような明るい声。ふわっと甘い香りが鼻をくすぐる。


 「うわっ!」


 心臓が跳ねる。驚いて振り返ると、そこには真珠がいた。……いや、思いっきり俺に抱きついていた。


 そのまま一拍。


 真珠は「あっ」と小さく声を漏らし、ハッとしたように俺からパッと距離を取った。


 「……お、おはよ!」


 さっきまでの勢いはどこへやら、なぜか微妙に目を逸らしている。俺も思わず戸惑って、首をかく。


 「お、おはよう……」


 何だ、この妙な空気。


 気まずい沈黙が流れそうになったところで、真珠がパッと表情を戻し、「メッセージ読んだ!?」と話題を切り替えた。


 「ああ、読んだよ。最近SNS放置気味だったから、通知ヤバいことになってた……さらっと見たけど、見覚えのある名前とかもあったような気がする……」


 スマホを開き、SNSの通知欄をスライドする。


 「やっば!これカルマじゃん!」


 横から覗き込んでいた真珠が驚愕の声を上げる。


 「カルマ?」


 俺が聞き返すと、真珠は信じられないという顔で俺を見た。


 「カルマだよ!?ボカロ界隈でもトップクラスの人!メジャー進出もしてるし、新曲出したら即ミリオンいっちゃうレベル!」


 「ま、まじで……?」


 さらっと流したつもりだったけど、まさかそんな大物が俺のアカウントに……。


 「ちょ、待って……あ!ハルモナ公式からもフォローされてる!」


 「ハルモナ?」


 「大手レコード会社だよ!?私も最近フォローされたけど、けっこう凄いとこなんだから!」


 真珠が興奮気味に俺のスマホを指差す。俺もさすがに驚きを隠せなくなってきた。


 「と、とりあえず続きは昼休みにしよう。周りに聞かれるとまずいから……」


 俺がそう言うと、真珠は「……あっ」と言って、両手で口をふさぐ。


 「そ、そうだね、まだ作戦中だもんね……」


 うんうんと大きく頷く真珠。その直後、スピーカーから朝の予鈴が鳴り響く。


 「はぁ~始業前にテンション上がりすぎちゃった」


 真珠は小さく息を吐きながら、ふにっと肩を落とし、手をひらひらと振った。軽く首を傾げながら、少しだけ舌を出して「でも、めっちゃ楽しかった~」と呟き席へと着く。


 その表情はどこか子供みたいで、無邪気さと満足感が滲んでいた。


 「お前な……」


 俺は肩をすくめ、苦笑しながら席に着く。


 ほどなくして、教室の扉が開き、先生が入ってくる。静かになるクラス内に、教科書を開く音や椅子を引く音が響いた。


 「じゃあ、授業を始めるぞ」


 先生の言葉とともに、チョークの音が軽快に走る。


 俺はノートを開き、ペンを動かしながら、黒板の文字をなんとなく目で追った。授業内容が頭に入ってくるわけでもなく、ふと、さっきの真珠のテンションの高さを思い返した。


 あの勢いのまま授業に入るのかと思いきや、今の真珠は机に肘をつきながら、なんとなくノートを取っているだけだった。時折、窓の外をぼんやりと眺めたり、軽くあくびをかみ殺したりと、完全に気が抜けている。


 そのギャップが妙に可笑しくて、つい口元が緩む。


 時間が経ち、いくつかの授業をこなすうちに、次第に教室の空気も緩んでいく。周囲では、退屈そうにページをめくる音や、小さなため息が聞こえ始めた。午前の授業が終わりに近づくにつれ、少しずつ気の抜けた雰囲気が漂い始める。


 やがて、先生が最後の板書を消し、「じゃあ、今日はここまで」と締めくくる。


 ノートを閉じる音、椅子を引く音が次々と響く。誰かが小さく伸びをし、近くの席では昼ご飯の話をし始める生徒の声が聞こえた。少しずつ、昼休みの空気が教室全体に広がっていく。


 そして、昼休みのチャイムが鳴り響いた。


 が、次の瞬間、俺の腕が強引に引っ張られた。


 「優!お昼、屋上で食べよ!」


 真珠だ。


 突然のことに反応する間もなく、ぐいっと手を引かれ、そのまま廊下へと連れ出される。俺は慌てて机に置いてあった鞄を掴むが、半ば無理やりな形で引っ張られることになった。


 「ちょ、待って!真珠、力強すぎ……!」


 「いいからいいから!早く行こ!」


 真珠は振り返ることもなく、ぐんぐんと俺を引っ張っていく。楽しそうに笑いながら、まるで遊びに行く子供みたいなテンションだ。


 そんな中、俺たちの進行方向に見覚えのある人影が現れた。


 浅間と……千秋。


 俺は足を止めかけるが、真珠は即座に敵意を見せる。


 浅間は俺と真珠が腕を組んでいるのを見て、不機嫌そうな表情を浮かべた。


 「よぉ、天川。ずいぶん早乙女さんと仲良さそうだな?」


 「むうっ!でたな浅い男!」


 真珠が低く唸るように反応する。浅間に対して、あからさまな敵意を見せている。俺が知る限り、真珠と浅間の接点なんてほとんどなかったはずだけど?ていうか浅い男って……。


 「なっ!?なんだよそれ!」


 浅間が苛立ったように眉をひそめる。


 「そのまんまの意味だけど?」


 真珠はあっけらかんとした顔で答えるが、その目は鋭い。


 「お前みたいなキモイ奴がなんで早乙女さんと……」


 浅間の表情がわずかに歪む。だが、すぐに笑みを取り戻し、千秋の手を取ると、わざとらしく指を絡めた。


 「なぁ、千秋ちゃんもそう思うだろ?」


 浅間が俺を見てくる。何を言いたいのか、なんとなく分かる気がしたが、結局口を開く気にはならなかった。


 千秋が浅間に手を握られても、俺はただ前を向いた。


 俺の気持ちは今はまだ変わってない。そう簡単に好きな人を諦められるわけがない、だけど……ここから先どうするかを決めるのは千秋だ。


 それに――今は、真珠のおかげで前に進めている。


 せっかくここまで来たんだ。もう迷う必要も立ち止まるつもりもない。


 俺は真珠の腕をそっと振りほどき、代わりにその手をしっかりと握り直した。その瞬間、胸の奥が軽くなるのを感じる。


 「早く行こう、真珠!昼休み終わっちゃうぞ!」


 俺の言葉に、真珠は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに嬉しそうに笑う。


 「うん!」


 俺たちは勢いよく駆け出した。


 廊下に足音が響く。真珠の手の温かさが伝わり、走るリズムが自然と揃っていく。


 ふと、俺は浅間と千秋の方を振り返る。


 二人はその場に立ち尽くし、唖然とした表情を浮かべていた。


 俺はその姿を一瞬だけ見つめ、それ以上考えずに真珠の手を握り直し、前を向いた。


 「行こう、スピカ!」


 真珠も力強く頷き、俺たちはさらにスピードを上げて駆け抜けた。


 その瞬間、心の奥からふっと湧き上がるものがあった。まるで風に乗って降りてきたような感覚。


 走る勢いのまま、思わず言葉がこぼれる。


 「新曲……できたかも!」

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