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第32話 君の手を取らない理由

 朝、目を覚ました俺は、いつもより気分が軽かった。


 北斗や美弥がわざわざ家まで来てくれて、真珠は相変わらず全力で俺を気にかけてくれている。昨日までの沈んだ気持ちが、少しずつ晴れていくのを感じる。


「……よし、今日も頑張るか」


 思わず布団の中で小さくガッツポーズを決め、いつもよりスムーズに起き上がる。


 スマホの通知ランプが点滅しているのが目に入った。何気なく手に取って画面を確認すると、未読のメッセージがいくつか溜まっていた。その中でひときわ目を引いたのが、真珠からのメッセージだ。


「……写真?」


 ドキッとする。


 いや、待て待て。冷静になれ俺。まさかとは思うが、万が一にも、いや億が一にも……真珠がそんな写真を送ってくるわけがない。が、もし……もし万が一にもそんな……いや、ない、ないって!


 変な期待を打ち消しながら、指が震えるのを抑えて写真を開く。


 そこに映っていたのは――。


「……は?」


 美弥の首を絞めてる北斗。その北斗の顔がなぜか真っ赤。そして、その横で満面の笑みを浮かべながらピースサインを決める真珠。


「なんだこれ……ぷっ」


 あまりのカオスっぷりに、俺は吹き出した。


「ははっ……!何やってんだよ、お前ら……!」


 思わず笑ってしまう。しかも、さらに追い打ちをかけるように真珠からのメッセージが目に入った。


『フォロワーヤバいw』


 ん?


 なんだ、この流れ。フォロワー?


 もしやと思い、自分のSNSを開く。最近確認した時は……確かフォロワー数は二千人くらいだったはず……。


 「二千……あれ?」


 目をこすり、もう一度画面を凝視する。


 「二万……」


 ……二万!?


 思わずスマホを落としそうになった。指先がじんわりと汗ばんでくる。


 なんで!?いや、理由は……うっすら分かる。昨日、北斗が見せてくれた駅前ゲリラライブの動画が五百万回再生されていた。まさか、それが原因なのか……?いや、でもそれだけでこんなにフォロワーが増えるか?


「おいおい……」


 驚きと戸惑いで固まっていると、遠くから母さんの声が聞こえてきた。


「優斗?起きてるの?今日は学校行けるんでしょ?早く顔洗ってきなさい!」


 ハッとしてスマホを置き、急いで扉を開ける。


「うん、今行く!」


 昨日とは打って変わって、思いのほか元気な声が出た。


 それから、朝のルーティンをこなす。父さんと母さんに挨拶し、朝ご飯を食べ、着替えを済ませる。そして玄関で靴を履きながら、深呼吸。


「……よし!」


 昨日までのもやもやが、晴れた気がした。


「行ってきます!」


 家のドアを開けると、朝の冷たい空気が肌を刺す。少し身震いしながら歩き出そうとした、その時。


 目の前に人影。


 「……千秋?」


 俺の家の前で待っていたのは、あの美空千秋だった――。


 千秋は俺に気がつくと顔を上げ、ニッコリと微笑んだ。


 「おはよう、優斗君!」


 その笑顔は、まるで何事もなかったかのように明るい。千秋らしい、柔らかな笑顔。でも、それを見ると、胸が少しずきんと痛んだ。


 けれど、ふとさっきの三人の写真が頭をよぎる。


 美弥の首を絞めながら真っ赤になっている北斗、横で満面の笑みを浮かべてピースしている真珠――あまりにもバカみたいな光景に、思わず笑ってしまった。


 「おはよう、千秋」


 軽く笑って元気に返事をすると、千秋は少し驚いたように瞬きをした。


 「な、なんかいつもと雰囲気が違うね、優斗君」


 言われて、自分でも少し意外に思う。確かに、前だったらもっと暗く返事をしていたかもしれない。


 「そう?俺はいつもと変わらないよ?」


 そう言って微笑むと、千秋が一瞬ドキリとしたような表情を浮かべた。


 けれど、すぐにハッとしたように口を開く。


 「え?今……俺って……?」


 「ああ、実はさ、真珠に言われて、俺って言うようになったんだよね。だいぶ慣れてきたんだよ?今じゃ自然に――」


 千秋の表情がふと曇る。


 「真珠……?またあの人なの?」


 その声には微かな苛立ちが滲んでいた。最初は驚いたような顔をしていたのに、一気に目の奥が冷たくなる。


 さっきまでの穏やかさが消え、わずかに眉をひそめる。笑顔を浮かべようとするものの、口元がぎこちなく引きつっているのがわかった。


 どうしたんだろう?いや、俺はそれでも真正面から答えた。


 「うん。真珠のおかげで、最近自分を見つめ直せる事ができたんだ。最初は意外に思うことも多かったけど……でも、気づけば俺のことをちゃんと見てくれていた。病気のことも前より冷静に向き合えるようになったんだ。彼女には、本当に助けられてる」


 言葉にしてみると、改めて実感する。


 千秋は一瞬、何か言いかけたようだったが、視線を逸らした。どこか納得いかないような、けれど言い返せないような複雑な表情。


 俺たちはそのままゆっくりと並んで歩き出した。


 朝の空気は少しひんやりとしていて、靴音だけが響く。通学路の向こうから登校中の生徒たちの声がかすかに聞こえたが、この場の静けさを壊すほどではない。


 千秋は時折こちらを伺うように視線を向けるが、俺は前を向いたままだった。


 しばらくの沈黙が続いたあと、千秋が小さく息を吸い込む気配がした。


 「……な、何言ってるのかな。優斗君のことを一番に理解してるのは私だよ?忘れたの?優斗君にはあんな人より私の方が必要なんだから」


 千秋の声が、少し強くなる。


 俺は小さく息を吐いた。


 「千秋……」


 俺は小さく息を吐き、視線を落とす。


 目の前にいるのは、かつて俺が心から大切に思っていた人。でも、今の彼女はどこか少し遠い。


 吹き抜ける風が、二人の間に微かな距離を作る。


 「実はさ、土曜日の夜、千秋が男の人と手を繋いで歩いてるの、見ちゃったんだ……」


 俺の言葉に、千秋の肩がピクリと震える。


 「え……?」


 彼女の瞳が大きく揺れた。いつも冷静で、大人びた千秋の表情が、一瞬だけ素のままの驚きに変わる。


 「千秋がどういうつもりなのかは知らないよ。でも……」


 俺は一歩足を止め、朝の光を浴びながら静かに息を吸う。


 「一つだけ言えることがある」


 千秋は唇を噛みしめ、小さく震える声で問い返した。


 「な、何よ……一つって……」


 俺は正面を見据えたまま、静かに言葉を紡ぐ。


 「俺は千秋のこと、まだ好きだけど……千秋には幸せになってもらいたいんだ。だから無理して俺に合わせる必要はないよ?」


 言いながら、胸の奥に鈍い痛みが走る。


 ずっと想い続けた相手に伝えるには、あまりにも静かで、あまりにもぬるい言葉だと自分でも理解している。それでも言いたかった。暗闇から助けてくれたのは彼女だ、それは紛れもない事実なのだから。


 千秋の顔が、驚きと困惑で揺れる。


 「な、何言ってるの優斗君!?」


 何かを言おうとした千秋の言葉を遮るように、遠くからクラスメートたちの賑やかな声が聞こえてきた。


 「あ、クラスメートの連中が来たよ」


 俺は千秋の方を振り返りながら、穏やかに微笑む。


 「とにかく、千秋は自分のことを一番に考えて。それが俺の一番だから。だから、もう一度よく考えてね。じゃ、またね千秋!」


 そう言って微笑み手を振る。


 俺の視界から消えそうになる千秋、その瞬間――思わず伸ばした千秋の手が、空を切った。


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