その言葉と同時に、歓声がさらに大きく弾けた。 祝日の土曜日、夕暮れの駅前は賑やかだった。改札から流れ出る人の波、談笑する学生、スマートフォンを片手に歩くビジネスマン。ビルの大型スクリーンが色鮮やかな光を放ち、広場の石畳を照らしている。
足元では革靴やスニーカーが絶え間なく行き交い、時折、通りすがりの子供が走り抜けると、小さな笑い声が響いた。電車がホームに滑り込む音とともに、雑踏の中に混じるカフェのドアベルの音や、誰かが引くキャリーバッグの車輪の音が、夕暮れの駅前を彩っている。
その一角に、ストリートピアノが静かに佇んでいた。黒いボディが夕陽を受け、鍵盤は誰かが触れるのを待っているかのように沈黙している。
「なんだよ、そのブサ猫、だっせえ!」
北斗は隣で吹き出すように笑い、真珠の手元に目を向けた。そこには彼女が誇らしげに掲げた猫の被り物がある。
「ブサ猫言うな!かわいいし!」
真珠が頬を膨らませながら、猫の耳をぴょこぴょこと動かしてみせる。
俺たちがゲリラライブをすると決めたとき、優Pとしての顔バレを防ぐために変装が必要だった。動画に撮られて拡散される可能性を考え、マスクを用意したのだが――
「いやいや、これ逆に目立つだろ……。もうちょい普通の選べよ。例えば……こんなのどうよ!」
そう言いながら北斗が取り出したのは、古びたホッケーマスク。
「……どこのホラー映画だよ」
思わず俺は言いながら眉をひそめる。
さてはこの二人、真面目に考えてないな……?
北斗が得意げにマスクを掲げながら、胸を張る。
「おいおいホラー映画の金字塔だぜ?これ被れば絶対映えるって!」
駅前の明るい雰囲気には到底そぐわない。
「名前しか知らないし……そもそもチョイスが古すぎ」
俺があっさり流すと、真珠がすかさず口を挟む。
「ふふん、優はこういうの嫌なんだ? じゃあやっぱり猫ニャンがいいよね!」
そう言って、もう一度猫の耳をぴょこっと動かしてみせる。嬉しそうな表情の真珠とは裏腹に、俺は微妙な顔をした。
「その不細工な猫には、悪意しか感じない……」
「ひど~い!」
真珠がわざとらしくショックを受けたふりをして、大げさに肩を落とす。その様子に北斗が肩を揺らして笑った。
そんな他愛のないやり取りをしていると、近くにいた女子高生グループがこちらをチラチラと見ていた。そして、意を決したように一人が声をかけてきた。
「あの~?」
不意にかけられた声に、俺たちはほぼ同時に顔を向けた。
「ん?」
声をかけてきたのは、制服姿の女子高生のグループ。先頭に立つ少女は、頬をわずかに赤らめながら、視線を泳がせている。まるで何かを言い出すのをためらっているかのようだった。
「えっと……すごくカッコいい人と、綺麗な人がいたから……な、何かやるのかなって」
その言葉に、周囲の視線が集まり始めた。ざわめきが徐々に大きくなり、気づけば、こちらを見ている人が増えている。
やばい、思ったより真珠と北斗が目立ってる。
このままだと、もっと人が寄ってくるかもしれない。
俺は焦りながらカバンをまさぐり、念のため用意していたマスクを引っ張り出し、迷うことなく、それを被る。
一瞬、沈黙。
次の瞬間――
「なんだそれ!うひゃひゃひゃひゃ!」
北斗が指をさして爆笑する。
「ぷっ、ちょっ!」
真珠も肩を震わせながら、必死に笑いをこらえようとするが、無理だった。
俺が被ったのは、どこからどう見てもウマの被り物。しかも、パクパクと口が動く仕様になっていて、真正面から見ると異様に間抜けな表情をしている。
これ、ほんとに大丈夫か……?
そもそも、このウマの被り物は父さんが会社のビンゴ大会で当てたものだった。クリスマス用のトナカイと間違えて持ち帰ったらしいが、結局誰も使わず倉庫に放置されていた。それを俺が引っ張り出してきたわけだが……。
自分で持ってきたとはいえ、なんでこんなものを選んだんだろう……。
北斗と真珠は俺の姿を見てまだ肩を震わせている。けど、今さら戻すわけにもいかない。
「あ~腹いたい、お前それ反則な」
目に浮かぶ涙を拭いながら、北斗が少女たちに振り返る。
「あ、俺たち今からここで演奏するからさ、君たちさえ良かったら聞いてってよ」
北斗がニヤリと笑いながら言うと、女子高生たちは目を輝かせた。
「えっ、いいんですか!? ぜひ聞きたいです!」
「よし、決まりだ!」
北斗が満足げに頷くと、真珠がすぐにマイクやスピーカー、パワーアンプを取り出し始めた。それを見た北斗も動き、手際よく設置を手伝う。
俺はその様子を横目に、ストリートピアノの前に座る。
ふと、指を鍵盤に置いた瞬間、息を整えようと深く呼吸をした。
鍵盤に手を置いたはいいものの、少し指先に違和感があった。
胸の奥がモヤモヤとし、息が浅くなる。
ふと、過去の記憶がよみがえった。演奏中に指が震え、音を外したあの瞬間。思い出したくもない失敗の記憶が、微かに蘇る。
心臓が少し速く鼓動を打つ。落ち着け、と自分に言い聞かせるが、手のひらにはじんわりと汗が滲む。
軽く息を整えながら、もう一度鍵盤に意識を向ける。頭の中では音楽室での光景が浮かんでいた。あの時は、自然と指が動いたはずなのに。
……大丈夫。
それでも、まだ少しだけ指が硬い。
その時――
「大丈夫だって!」
真珠の明るい声が、迷いを吹き飛ばすように響いた。
顔を上げると、彼女は自信に満ちた笑顔を浮かべていた。
「私たちがついてるんだから!」
北斗もそれを聞いて腕を組んでニッと笑う。
「よ~し、歌い手の本気、いっちょ見せてやるか!」
北斗は袖をぐいっとまくり上げ、まるでステージに立つかのような堂々とした動きを見せる。真珠がニヤリと微笑み、軽くウインクしながらマイクを放った。
北斗はそれを軽やかに片手でキャッチし、口元に近づける。
「準備はいいか?」
スピーカーから聞こえるその声に、わずかに周囲の空気が変わる。
北斗が口元にマイクを近づけると、突如、重厚なビートが響き渡った。
俺は思わず息を飲む。
「ヒューマンビートボックス……?」
驚きとともに、自然と声が漏れる。
発声器官のみで作り出される音が、鼓動に乗せて重なり、まるで本物のドラムセットがそこにあるかのような迫力が生まれる。
何事かと振り返る人達。リズムが駅前を支配していく。
足を止める人々。スマホを構える観客。肩車された子供が楽しそうに体を揺らしている。
空気が、確かに変わった。
「さあ、いくぞ!」
「さあ、いくよ!」
真珠が合図を送り、俺は深く息を吸った。
鍵盤に指を落とす。
最初の音が響く。ペダルを踏み、音を重ねる。
曲は『Triple Tune!』。俺たち三人が喫茶店で集まり、グループの結成を記念して作った一曲。
静かに始まる旋律。最初の音が空間に広がると、北斗のビートが加速し、真珠の歌声が鮮やかに重なっていく。
観客のリズムに合わせるように、手拍子が自然と生まれる。通行人が足を止め、スマホを構え始める。子供を肩車した親が、嬉しそうにリズムを取る姿も見えた。
まるで駆け抜けるようなメロディが響く。指が鍵盤の上を走り、高音が跳ねるように響き、低音がそれをしっかりと支える。旋律は勢いを増し、まるで物語のクライマックスへ突入するかのように、空気が熱を帯びていく。
俺たちは互いにアイコンタクトを交わし、音を重ねる。北斗のビートがさらに厚みを増し、真珠の歌声が空間を満たす。
リズムに乗った観客が、まるで一体化するように動き出す。手拍子が大きくなり、誰かが歓声をあげる。
演奏は最高潮へ。
最後の音が弾けるように響き渡り、音の余韻が空気に溶けていく。
一瞬の静寂。
そして――
割れんばかりの拍手と歓声が巻き起こった。
「すげえ……!」
「最高……!」
スマホを掲げる観客、笑顔で拍手を続ける子供たち。誰かが歓声を上げ、それに応じるように次々と拍手の音が大きくなっていく。
その熱気の中から、一人の声が響いた。
「アンコール!」
一瞬の間。
だが、その声に周囲がすぐさま呼応する。
「アンコール!アンコール!」
声が次々と重なり、観客全体が一体となって響き渡る。
俺は驚きながらも、隣の二人を見る。
北斗は満足げに腕を組み、真珠は微笑みながらマイクを軽く叩いた。
「……どうする?」
俺が問いかけると、北斗は肩をすくめ、真珠はいたずらっぽく笑う。
瞬間――
「ん~!」
俺のチック症が突然喉を突いて出た。
「あは、決まりって事でオッケー?」
真珠が俺を見つめマイクを握り直すと、北斗がニヤリと笑った。
「……もう一曲、やるか!」