放課後、夕焼け色に染まり始めた空の下、私は校門を出て一人帰り道を歩いていた。
今日も優斗の姿はどこにも見つからなかった。あちこち探したのに、見つからない。いつもなら、放課後には裏庭の隅っこに座ってたりするのに。昨日も今日も探しても見つからない。まるで、私を避けているみたいで――いや、あの女といるから?
何も知らないくせに“私だけは優斗くんをわかってます”って顔をしている早乙女真珠。優斗にべったりくっついて、誰にも邪魔させないみたいに。
あの女は、今日も優斗と一緒にいるんだろうか。
胸の奥がチクリと痛む。私だけが優斗を支えてきたはずなのに、いつの間にか私の知らないところで優斗に入り込んでる。悔しい。でも、それを言える立場じゃないってわかってるから、余計に苦しかった。
「千秋ちゃん!」
名前を呼ばれて、びくっと肩が跳ねる。振り返ると、そこには爽やかな笑顔を浮かべる浅間先輩の姿があった。夕日に照らされた浅間先輩は、校内で憧れられている理由がよくわかるほど絵になっていた。
「先輩……」
胸の奥が少しだけ緩んで、ほっとした。私を探してくれる人がいることに、優斗じゃなくても、誰かに必要とされることに、安心する気持ちがあった。
「千秋ちゃん、今度の土曜日暇?」
「土曜日ですか?」
「うん、良かったらさ、泊りがけで一緒に遊ばない?」
「えっ……?」
泊りがけ。
その言葉の持つ意味に、心臓がドクンと大きく跳ねる。軽く言われたけど、先輩と泊まりって、そういうことだよね?まだそういうのは早いんじゃないかって、頭ではわかってる。でも、先輩が私を特別に誘ってくれてる。それが、嬉しくないわけがない。
「でも、さすがにそれは……」
戸惑いながら、かすれた声で断りかける。だけど、先輩の表情が曇るのを見て、胸がギュッとなった。
「やっぱり俺じゃ、嫌……?」
普段なら、そんな弱気な顔をする人じゃないのに。
そのギャップに、心臓が痛いくらいドキッとする。
先輩みたいな人が、私のことでこんな顔をするなんて――。
「え?それって……?」
思わず聞き返すと、先輩は少し視線を落としながら、言いにくそうに口を開いた。
「俺……本当は知ってるんだ。あの優斗ってやつ、千秋ちゃんが昔付き合ってたんだろ……?」
「……っ!」
どうして。それは、誰にも言ってないはずなのに。胸の奥が急に冷たくなる。
「本当は知ってたんだ。でも、千秋ちゃんを……千秋をあいつなんかに取られたくなくて。だから無理にでも彼氏面して、千秋ちゃんのそばにいたかった。あんな気持ち悪い奴に、大好きな千秋を触れさせたくなんかないんだ!」
先輩の声が、ほんの少し震えている気がした。私を守りたくて、必死で彼氏のフリをしてくれてたんだって、その気持ちが伝わってきた。
女子みんなの憧れの浅間先輩が、私のためにこんなに真剣になってくれてる。その事実に、胸が甘くしびれるような感覚に包まれる。
「で、でも……彼を裏切るようなこと……」
申し訳なさが込み上げる。でも、先輩は優しく微笑んだ。
「裏切る?違うよ。俺はただ千秋に、俺を知ってほしいだけ。いつか俺を選んでくれれば、それでいいんだ。だから……ね?」
先輩の微笑みが眩しくて、何も言えなかった。
「は、はい……また後で返事を返してもいいですか?」
精一杯の声でそう言うと、先輩は爽やかに笑って、軽く手を振りながら去っていった。その背中を、私はぽうっと見送っていた。
「千秋」
ふいに名前を呼ばれ、私は足を止めた。淡い夕焼けに染まる歩道に、梢の姿が浮かび上がる。風に揺れる髪と、いつもと変わらない落ち着いた微笑み。
「梢……」
声をかけるタイミングを少しだけ迷って、私はぎこちなく微笑んだ。二人並んで歩き出すと、沈む太陽のオレンジが道端の草花を染め上げている。
「相変わらずお似合いの二人ね」
ふふっと小さく笑いながら梢が言う。何気ない一言に、私はただ少し照れながら笑った。梢と並んで歩くこの感じが、懐かしくてちょっと嬉しい。
「そんな、もうやめてよ梢」
慌てて首を振ったけれど、頬が熱くなるのは止められない。
「いいじゃない。それにしても、ご機嫌ね。何かいいことでもあった?」
梢の声はいつものように軽やかで、私はほんの少し照れながら笑った。こうやって梢と他愛もない話をしながら歩く時間が、なんだか心地よくて、少し安心する。
少し迷ったけれど、周りを見渡して誰もいないのを確認すると、ほんの少しだけ距離を詰め、梢に顔を寄せる。
「じ、実はね……今度の土曜日に、浅間先輩に泊まりに来ないかって誘われて……」
声に出してみると、改めて現実味を帯びて、顔がどんどん熱くなっていく。梢は目を細め、口元をにやりとゆるめた。
「あら、良かったじゃない」
心底楽しそうに言われて、逆に緊張がこみ上げる。嬉しいのか、恥ずかしいのか、自分でもわからない気持ちが胸の奥でぐるぐる渦巻いた。
「で、でも……泊まりってことは、その……」
何を言いたいのか自分でもわからず、ただ言葉を濁す。梢はそんな私の様子を見て、楽しげにクスクス笑った。
「ふふふ、なあに?優斗に義理立てでもしてるの?」
「えっ……!?」
突然の名前に、胸が大きく跳ねた。どうしてここで優斗の名前が?
「あら隠さなくてもいいじゃない。別に私は今の千秋の行動が悪いだなんて思ってないわよ?」
矢野景子と同じことを言っている梢に驚く。
「こ、梢ちゃんもそう思うの?わ……私が二人を……天秤にかけても?」
おずおずと言いにくそうに言うと、梢は微笑んで頷いた。
「もちろんよ。選べないんだもの、浅間先輩カッコいいし、千秋が悩むのも仕方ないわ」
梢の気遣うような声に、私はうなずきながら答える。
「そ、そうなんだよね……それに彼凄く真剣で……どうしよっかな~なんて……」
恥ずかしがりながら悩むそぶりを見せる私に、梢はさらに優しく微笑んだ。
「別にいいんじゃない?お泊りしても?なんなら私が千秋の両親にアリバイ作ってあげてもいいわよ?」
「え?梢ちゃんが?」
「ええ、千秋の力になってあげたいしね。で、どうするの?」
そう聞かれ、私は再びもじもじと考える。
「初めての相手は経験ある人がいいって言うわよ?それに今のうちにやれる事はやっといた方がいいと思うけど?」
微笑みながら言う梢に、「そ、そうなのかな?」と聞き返す。
まんざらでもない気持ちが顔に出てしまっている自分に気づき、さらに頬が熱くなる。
「大人になって落ち着いたらしたくてもできなくなることなんてたくさんあるんだから、だったらいまのうちに遊んだ方がいいと思わない?」
「今のうち、か……」
梢の言葉を繰り返す。
「しかも初めての相手があんなカッコいい人なんて、いい思い出になると思うけど?」
「そ、そうかも……」
浅間先輩の笑顔が頭に浮かぶ。校内で女子の憧れの的で、優しくてかっこよくて、そんな人に選ばれてることが嬉しくないわけがない。
梢の言葉に納得し始める自分がいる。そんなふうに思うのは、皆同じのはず……。
本当に好きなのは優斗だって、心のどこかではわかってる。でも、私だって誰かに必要とされたいし、もっともっと愛されたい。浅間先輩がその存在になってくれるなら、それはそれで幸せなのかもしれない。
「それにたとえ優斗に知られても、優斗なら許してくれるわよ?だって二人は今でも愛し合ってるんでしょ?」
優斗の名前が出た瞬間、胸がチクリと痛んだ。梢が優斗のことを口にするのは、もう何度目だろう。
「そ、そうだよね。優斗なら……それに、これくらい別に……ねえ?」
どこか不安を紛らわせるように、梢へ同意を求める。
「ええ、私もそう思うわ。千秋は千秋らしく、今は二人を愛してあげればいいのよ。答えを出さなきゃいけなくなった時に、ちゃんと応えられるようにすればいいだけの話し。黙っていれば皆が幸せになれるんだから、千秋もそう思うでしょ?」」
梢の声は柔らかく、甘い蜜のように心に染み込んでくる。その言葉に、私はほっと息をついた。
「だ、だよね!うん、私もそう思う……皆が幸せなのが一番だよね!」
私の笑顔に、梢も優しく微笑み返してくれる。
誰も傷つけないために、私はどっちも選ばないだけ。
みんなが幸せになるために、私はちゃんと考えてるんだから。
自分にそう言い聞かせながら、私は夕闇に溶けかかる帰り道を、梢と並んで歩いた。