放課後の音楽室。誰もいないはずの教室に差し込む西日が、鍵盤に斜めの影を落としていた。
窓際の二列目あたりに座り込み、私はそっと鍵盤に目を落とす。誰もいない静かな空間に、遠い記憶のざわめきだけがゆっくりと広がっていく。
楽譜棚の奥から、小さなピアノ教室の記憶がふと蘇る。あれは、まだ私が「
ぎこちなく鍵盤を押さえる指。どこか心許ないその背中。なのに、そこから紡がれる音は、不思議なくらい胸の奥に届いてきた。
何度も、何度も繰り返し一緒に練習した。宿題を見てあげて、弾き方を教えて、拗ねたら宥めて……。当然だった。私がいてあげなきゃ、って思ってた。
優斗の隣にいるのは、私――それが当たり前だった。
でも。
「優斗、すごいよ!」
千秋の無邪気な声が、教室に響いた。私が教えていた時とは違う、心からの賞賛。その声に、優斗は耳まで赤く染めながらも、どこか誇らしげに微笑んでた。
あの笑顔を見た瞬間、胸に鋭い痛みが走った。ずっと優斗の隣にいたのは私なのに。あんな笑顔、私には向けたことがないのに。嫉妬って感情が、あの時初めて私の中に芽生えた。
いつの間にか、千秋と優斗は自然に寄り添うようになり、私の存在は少しずつ霞んでいった。教室の隅で、二人が何気なく笑い合う姿を見るたびに、胸が締め付けられた。
優斗の隣にいるのは、私だったはずなのに。
私はいつも、優斗の未来を考えてた。天才ピアニストとしての優斗をどう支えていくのか。なのに、千秋は何の苦労もせず、ただ優斗の才能を褒めるだけで、あっさりと優斗の心を掴んでいった。
許せなかった。
優斗は、私が育てたのに。
そんな悔しさを抱えたまま、中学時代は過ぎ、高校へと進んだ。
あの時、一緒に触れた指先に残る鍵盤の冷たさが、ふいに蘇る。音楽教室で偶然にもあの音を聞いた時から、頭から離れない。
私は教室の自分の席に戻っていた。窓の外に目をやるけれど、何も見えない。ただ、ガラスに映る自分の顔が、やけに険しい。
優斗を助けてきた私たちは、優しい幼馴染でいられた。そう思われることが私たちにとって何より大事だった。優斗がいじめられれば手を差し伸べ、優斗が持ち上げられれば、優斗の隣にいる私たちも特別な存在として見られる。優斗が天才ピアニストになった時は、幼馴染である私たちも「見る目がある良い子」だと評価された。
優斗の価値は、私たち自身の価値だった。
だからこそ優斗が挫折した時、私たちが見限ったのは正しかった。そのはずだった。なのに今、優斗は私たちが見捨てたはずの輝きを取り戻そうとしている。
優斗が落ちぶれた時、私たちは一番に距離を置いた。優斗と一緒にいることで、私たちまでみじめに見られるなんて耐えられなかった。だからこそ、切り捨てるしかなかった。
なのに――。
あの教室で見てしまった。ガラス越しに見えた優斗の指先。再び鍵盤に触れ、自分の音楽を取り戻していた。
千秋でもなく、私でもなく、他の誰かが優斗を音楽へ引き戻した。
計算が狂った。完全に。
自力で這い上がるなんて、絶対に許せない。優斗が成功するなら、私たちが見限った事実が間違いだったと突きつけられる。私たちが自分の立場を守るために、優斗を切り捨てた卑怯者だって、全部バレてしまう。
ピアニストじゃなくなったから、もう何の価値もないと思っていた。だからこそ、千秋に押し付けて、浅間を利用して、千秋もろとも優斗を切り捨てた。浅間の黒い噂だって知っていた。それでも、千秋が浅間に壊されるなら、それで良かった。
むしろ積極的に千秋を浅間に近づけたのは私だ。優斗も千秋も、まとめて消えるならそれでいい。
教室に戻ると、陽介と翔子が既に席に座っていた。
「梢、聞いたぞ。優斗、ピアノまた始めたらしいな」
陽介が、肘をつきながら私を見る。余計な詮索はするなと言いたげな目。昔から変わらない、強引なくせに肝心なところで臆病な視線。
陽介が昔から私に好意を抱いていることなんて、ずっと前から分かってる。だからこそ、利用するのは簡単だった。私が望むなら、陽介は迷わず私の味方になる。優斗を貶めるための手伝いも、千秋を浅間に押し付けるための後押しも、陽介なら何も疑わずに動いてくれる。
私に頼られたいから。私に必要とされるなら、陽介は迷わず手を汚す。私を守るためだと信じ込んで、私を想っての行動だと勝手に満足してる。
「知ってたのか?」
「うん、その場所にいたもの。翔子も知ってるよね?」
隣に座る翔子が、申し訳なさそうに小さく頷く。
「でも、優斗君がまたピアニストに戻るなんて、そんな……」
翔子の声には、不安と動揺が混じっていた。私はそんな翔子の顔をじっと見つめる。
「今さら優斗に優しくするつもり?一番、優斗にはずっと自分より下で惨めにいてほしいと思ってたの、あんたでしょ?」
翔子の肩が小さく跳ねる。
「ひどい……梢……」
震える声でそう言うものの、その目には涙は浮かんでいない。保身だけで生きてきたくせに、こういう芝居だけは本当に上手い。
「自分だけはいつも“優しい幼馴染”でいたいんでしょ?優斗が惨めなら、自分はその優斗を気にかけるいい子でいられるもんね」
「そんなこと……ない……」
声はか細いが、その言葉は妙に演技掛かっていた。高校に入ってからますますぶりっ子に磨きがかかっている。周りの男子たちもこういう翔子を見て、庇護欲を掻き立てられているのだろう。
あの時、浅間と千秋のあの事件が起きた瞬間、これを利用しない手はないと思った。その騒ぎをきっかけに、私たちは優斗に関する悪い噂を一気に広めた。まるで昔から千秋に異常に執着していたのが優斗だったかのように。
「優斗って、昔から千秋にしつこかったよね」
「千秋が困ってるって何度も言ってた」
「私物盗んでる変態だって相談されたこともある」
私たちが困った顔をして、そんな言葉を口にすれば、噂はあっという間に広がった。たまに奇妙な動きや発言を繰り返す優斗なら、皆が気味悪がってくれる。優斗が異常なストーカーで、浅間が千秋を守った――そう思わせるには、十分すぎるくらいだった。
浅間に千秋を押し付ける形になったのも、最初から計算済み。千秋さえ浅間に縛り付けておけば、優斗の居場所なんてどこにもなくなる。私たちが仕組んだ通りだった。
私たちが優斗を裏切ったんじゃなく、優斗が勝手におかしくなっただけ。
優しい幼馴染の私たちが被害者だと、そう思わせるために、何度も何度も嘘を重ね、優斗を追い詰めてきた。
陽介も翔子も言葉を失っている。でも、あの二人だって私と同じ。
優斗を切り捨て、踏み台にして、いい子でいられる立場を守るために、手を汚してきた。
みんな同罪。だから今さら、良心ぶった顔を見せられても、白々しいだけ。
私は拳を握りしめる。
どれだけ優斗を傷つけても、貶めても、それでも――
優斗はまた光を取り戻そうとしている。あの優斗が、私たちの手の届かない場所へ行くなんて、そんなことは絶対に許さない。
優斗がまた輝くなら、今度こそ私が優斗を手に入れる。
あの頃みたいに、私の隣で私だけを頼っていればいい。誰にも邪魔はさせない。
余計な存在は全部消して――次こそ、ピアニストとしての優斗は、私のものになる。