昼休み、真珠と一緒に弁当を食べながら、僕たちは他愛もない話で笑い合っていた。
周りの生徒たちが、ちらちらと僕たちを見ながら、ひそひそと話している声が聞こえてくる。
「なんであいつなんかと……」
「もしかして付き合ってんの?」
「いやいやいや、それはないって」
今朝も同じような視線と声が飛んでいた。でも、真珠はそんな周囲の反応なんて気にも留めず、楽しそうに笑いながら箸を動かしている。
最初は気になって仕方なかったけど、こうして毎回真珠が堂々としてるのを見るうちに、僕自身もだんだんこの状況に慣れてきた。
ふとそう思うと、なんだか少し笑えてくる。
「そういえばさ、学園祭のライブに向けて練習も本格的にしないとだね~」
何気なく真珠が口にした言葉に、僕の手がピタリと止まる。
「そ……そうだね」
そう返したものの、胸の奥に小さな不安が芽生える。
弁当を食べ終え、トイレに立った帰り道。呆然と考え事をしながら歩いていると、気づけば足が校舎の端へ向かっていた。
――学園祭のライブ、一緒に出るから。
昨日の真珠の言葉が、頭の中にじんわりと染み込んでくる。
「ピアノ、か……」
胸の奥がぎゅっと縮まる。
あの日、チック症で台無しにしてしまった演奏。観客のざわめき、冷たい視線、堪えきれなかった涙。
僕はピアノを避けるように、ずっと音楽室には近づかなかった。
でも、真珠が歌う『君は僕の一等星』を思い出すと、胸の奥がチクリと疼く。
真珠の歌声に乗せられて、自分の曲が広がっていくあの感覚。あの時だけは、音楽が嫌いじゃなかった。
それでも、また弾いたらあの日と同じことになるんじゃないか。あの場に立つ恐怖が、未だに僕を縛り付ける。
不安と期待がないまぜになったまま、考え事をしているうちに、気づけば目の前に音楽室が見えてきた。
足が止まる。
ドアの隙間から、静かにピアノの音が漏れ聞こえてくる。誰かが練習しているのだろう。柔らかく響く音が、心の奥に触れる。
指先が疼く。
また、弾いてみたい――。
そんな気持ちがほんの少し芽生えた瞬間、胸の奥にこびりついた恐怖が体を縛り付ける。
喉が詰まるり、肩が震え、視界がにじむ。
「ん~……」
息を詰めた拍子に、チック症の症状が不意に現れた。
「あれ?優?」
振り返ると、そこには真珠がいた。
「ふふっ、優の鼻歌、かわいい」
にこっと微笑む真珠の笑顔は、いつもと変わらない。
何も気にしないでくれる真珠の存在に、僕はほんの少し救われる。
「ピアノ、弾いてみたいの?」
真珠の何気ない言葉が、胸に波紋を広げる。
「む、無理だって!」
即座に否定する僕に、真珠は意地悪く笑う。
「ほんとは弾きたくてここに来たんじゃないの~?」
「ち、違うってば」
強がる僕の背中を、真珠は容赦なく押す。
「ちょ、ちょっと!」
無理やり音楽室へ押し込まれ、戸惑う僕をよそに、真珠は中にいた女子生徒たちへ明るく声をかけた。
「ねえねえ、この人、すっごいピアノ上手いんだよ!ちょっと聴いてみない?」
「え、誰?」
「嘘……もしかして昨日転校してきたっていう?」
「あ、噂になってたスピカって……!?」
「え、あのスピカ!?マジで!?」
一気に女子生徒たちのテンションが上がる。
「本物!?」
「すごーい!」
「ホントに同じ学校だったんだ!」
驚きから歓声へ、空気が一気に華やいでいく。
「この人ね、ちょっと急に声が出ちゃう病気なんだ。でも、それだけ!びっくりするかもだけど、気にしないで聴いてあげてね!」
少しざわめきが広がる。どう反応すればいいか迷っているような生徒もいれば、「そうなの?まあ別に、ねえ?」と気楽に構える子もいる。
僕はその反応にどう返せばいいのか分からず、俯いてしまった。
そんな空気を受け止めるように、真珠は強めに手を叩いてみせる。
「そんな顔してないで、ほらほら、男見せろ優!」
真珠の声はいつもの軽さ。そのまま勢いよく僕の背中をバンッと叩いた。その強さに思わず身体が前に揺れる。
痛みよりも、胸に響くものがあった。
逃げたい。無理だ。そんな言葉が喉まで出かかる。
それでも、真珠は僕を信じるように真っ直ぐな目で見ていた。
あの日、あの場から逃げ出した自分を思い出す。
でも、ここで逃げたら、もう二度と音楽に向き合えなくなる気がした。
信じてくれる真珠がいる……。
僕はこの目を裏切りたくない。
「……わかったよ」
鍵盤に手を置いた。
最初の一音が静かに教室に響く。
空気がピンと張り詰めた。
音楽室に漂っていたざわめきがすっと消え、誰もが息を飲んで僕の指先を見つめる。音が、僕の中に眠っていた感覚をそっと呼び覚ます。
覚えてる。
指が自然に鍵盤の上を滑る。身体が、頭よりも先に反応して、僕が作った『君は僕の一等星』が教室に流れ始める。
「え、すご……」
「やば、うまっ……」
ぽつぽつと漏れる驚きの声。それに混じって、廊下の方からも顔を覗かせる生徒が次第に増えていく。
いつの間にか音楽室の入り口は立ち見の生徒たちで埋まり、廊下まで人が溢れていた。
指が鍵盤を滑るたびに、少しずつ僕の中の恐怖が溶けていく。
そして、真珠が待ちきれないと言わんばかりに、口を開いた。
「Melody with You――」
真珠の澄んだ歌声が教室いっぱいに広がる。
ピアノの旋律と真珠の声が混ざり合い、音楽室全体を優しく包み込んでいく。
「すごい!」
「生歌すげぇ……!」
「曲きれい……」
感嘆の声が次々に上がり、自然と手拍子が響き始める。
音楽室はもはや、即席のライブ会場。真珠の歌声に乗せて、僕の音がどんどん広がっていく。
生徒たちはリズムに合わせて自然と身体を揺らし、手拍子も次第に揃っていく。最初は驚きだった顔が、いつの間にか笑顔に変わり、教室全体が一体感に包まれていく。真珠の歌声が高まるたびに、歓声と手拍子が重なり、まるで本物のステージに立っているような熱気が生まれていた。
チック症で漏れる僕の声、勝手に震え動く僕の体、誰も気にしていない。
むしろ、真珠はその声を拾うように歌声を重ねる。僕と真珠が音楽でひとつになっていく感覚。
怖さなんて、もうない。
ただ、音楽が楽しい。真珠が隣で歌ってくれることが、こんなにも嬉しい。
最後の音が消えると、教室は一瞬静まり返った。
そして――
「すごーーーい!!!」
割れんばかりの拍手と歓声が一気に溢れ出す。
「やっぱ音楽って最高!」
両手を広げ、満面の笑みで叫ぶ真珠。
その笑顔につられて、僕も自然と笑ってしまう。
すると次の瞬間――
「なんだこの騒ぎは!もう予鈴鳴ってるぞ!」
先生の怒鳴り声に、僕と真珠は顔を見合わせる。
「あ、やばっ!優、逃げるよ!」
「ちょっ、待って!」
真珠に手を引かれ、僕たちは音楽室を飛び出した。
廊下を全力で駆け抜ける真珠の笑い声が、いつも以上に弾んで聞こえる。
走りながらも、ふと横を見る。真珠は無邪気に笑っていて、その笑顔がなんだか眩しかった。
「本当にお前ってやつは……」
「あ!今お前って呼んだ!」
「えっ……あ、無意識に……ご、ごめん!」
「別にいいって!前より仲良くなった感じで、ちょっと嬉しいし」
「そ、そういうもんなのか……?」
真珠はニッと笑いながら、僕の前にぐいっと顔を近づける。
「そういうもんなの!ついでにさ、僕も卒業して、俺って言ってみなよ!」
「ええ!?それは……」
真珠にグイグイ迫られて、思わず後ずさりしそうになりながらも、僕は苦笑いするしかなかった。
振り回されっぱなしなのに、なんだかこの距離感が心地よくて、つい笑ってしまう。
気づけば僕の口元には、自然と笑みが浮かんでいた。
「ふふ……ははは」
「優?」
ピアノと再会できた喜びをかみしめ、僕はさらに大きく笑って見せた。