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第16話 Melody with You(2)

 昼休み、真珠と一緒に弁当を食べながら、僕たちは他愛もない話で笑い合っていた。


 周りの生徒たちが、ちらちらと僕たちを見ながら、ひそひそと話している声が聞こえてくる。


「なんであいつなんかと……」

「もしかして付き合ってんの?」

「いやいやいや、それはないって」


 今朝も同じような視線と声が飛んでいた。でも、真珠はそんな周囲の反応なんて気にも留めず、楽しそうに笑いながら箸を動かしている。


 最初は気になって仕方なかったけど、こうして毎回真珠が堂々としてるのを見るうちに、僕自身もだんだんこの状況に慣れてきた。


 ふとそう思うと、なんだか少し笑えてくる。


「そういえばさ、学園祭のライブに向けて練習も本格的にしないとだね~」


 何気なく真珠が口にした言葉に、僕の手がピタリと止まる。


「そ……そうだね」


 そう返したものの、胸の奥に小さな不安が芽生える。


 弁当を食べ終え、トイレに立った帰り道。呆然と考え事をしながら歩いていると、気づけば足が校舎の端へ向かっていた。


 ――学園祭のライブ、一緒に出るから。


 昨日の真珠の言葉が、頭の中にじんわりと染み込んでくる。


「ピアノ、か……」


 胸の奥がぎゅっと縮まる。


 あの日、チック症で台無しにしてしまった演奏。観客のざわめき、冷たい視線、堪えきれなかった涙。


 僕はピアノを避けるように、ずっと音楽室には近づかなかった。


 でも、真珠が歌う『君は僕の一等星』を思い出すと、胸の奥がチクリと疼く。


 真珠の歌声に乗せられて、自分の曲が広がっていくあの感覚。あの時だけは、音楽が嫌いじゃなかった。


 それでも、また弾いたらあの日と同じことになるんじゃないか。あの場に立つ恐怖が、未だに僕を縛り付ける。


 不安と期待がないまぜになったまま、考え事をしているうちに、気づけば目の前に音楽室が見えてきた。


 足が止まる。


 ドアの隙間から、静かにピアノの音が漏れ聞こえてくる。誰かが練習しているのだろう。柔らかく響く音が、心の奥に触れる。


 指先が疼く。


 また、弾いてみたい――。


 そんな気持ちがほんの少し芽生えた瞬間、胸の奥にこびりついた恐怖が体を縛り付ける。


 喉が詰まるり、肩が震え、視界がにじむ。


「ん~……」


 息を詰めた拍子に、チック症の症状が不意に現れた。


「あれ?優?」


 振り返ると、そこには真珠がいた。


「ふふっ、優の鼻歌、かわいい」


 にこっと微笑む真珠の笑顔は、いつもと変わらない。


 何も気にしないでくれる真珠の存在に、僕はほんの少し救われる。


「ピアノ、弾いてみたいの?」


 真珠の何気ない言葉が、胸に波紋を広げる。


「む、無理だって!」


 即座に否定する僕に、真珠は意地悪く笑う。


「ほんとは弾きたくてここに来たんじゃないの~?」


「ち、違うってば」


 強がる僕の背中を、真珠は容赦なく押す。


「ちょ、ちょっと!」


 無理やり音楽室へ押し込まれ、戸惑う僕をよそに、真珠は中にいた女子生徒たちへ明るく声をかけた。


「ねえねえ、この人、すっごいピアノ上手いんだよ!ちょっと聴いてみない?」


「え、誰?」


「嘘……もしかして昨日転校してきたっていう?」


「あ、噂になってたスピカって……!?」


「え、あのスピカ!?マジで!?」


 一気に女子生徒たちのテンションが上がる。


「本物!?」

「すごーい!」

「ホントに同じ学校だったんだ!」


 驚きから歓声へ、空気が一気に華やいでいく。


「この人ね、ちょっと急に声が出ちゃう病気なんだ。でも、それだけ!びっくりするかもだけど、気にしないで聴いてあげてね!」


 少しざわめきが広がる。どう反応すればいいか迷っているような生徒もいれば、「そうなの?まあ別に、ねえ?」と気楽に構える子もいる。


 僕はその反応にどう返せばいいのか分からず、俯いてしまった。


 そんな空気を受け止めるように、真珠は強めに手を叩いてみせる。


「そんな顔してないで、ほらほら、男見せろ優!」


 真珠の声はいつもの軽さ。そのまま勢いよく僕の背中をバンッと叩いた。その強さに思わず身体が前に揺れる。


 痛みよりも、胸に響くものがあった。


 逃げたい。無理だ。そんな言葉が喉まで出かかる。


 それでも、真珠は僕を信じるように真っ直ぐな目で見ていた。


 あの日、あの場から逃げ出した自分を思い出す。


 でも、ここで逃げたら、もう二度と音楽に向き合えなくなる気がした。


 信じてくれる真珠がいる……。


 僕はこの目を裏切りたくない。


「……わかったよ」


 鍵盤に手を置いた。


 最初の一音が静かに教室に響く。


 空気がピンと張り詰めた。


 音楽室に漂っていたざわめきがすっと消え、誰もが息を飲んで僕の指先を見つめる。音が、僕の中に眠っていた感覚をそっと呼び覚ます。


 覚えてる。


 指が自然に鍵盤の上を滑る。身体が、頭よりも先に反応して、僕が作った『君は僕の一等星』が教室に流れ始める。


「え、すご……」

「やば、うまっ……」


 ぽつぽつと漏れる驚きの声。それに混じって、廊下の方からも顔を覗かせる生徒が次第に増えていく。


 いつの間にか音楽室の入り口は立ち見の生徒たちで埋まり、廊下まで人が溢れていた。


 指が鍵盤を滑るたびに、少しずつ僕の中の恐怖が溶けていく。


 そして、真珠が待ちきれないと言わんばかりに、口を開いた。


「Melody with You――」


 真珠の澄んだ歌声が教室いっぱいに広がる。


 ピアノの旋律と真珠の声が混ざり合い、音楽室全体を優しく包み込んでいく。


「すごい!」

「生歌すげぇ……!」

「曲きれい……」


 感嘆の声が次々に上がり、自然と手拍子が響き始める。


 音楽室はもはや、即席のライブ会場。真珠の歌声に乗せて、僕の音がどんどん広がっていく。


 生徒たちはリズムに合わせて自然と身体を揺らし、手拍子も次第に揃っていく。最初は驚きだった顔が、いつの間にか笑顔に変わり、教室全体が一体感に包まれていく。真珠の歌声が高まるたびに、歓声と手拍子が重なり、まるで本物のステージに立っているような熱気が生まれていた。


 チック症で漏れる僕の声、勝手に震え動く僕の体、誰も気にしていない。


 むしろ、真珠はその声を拾うように歌声を重ねる。僕と真珠が音楽でひとつになっていく感覚。


 怖さなんて、もうない。


 ただ、音楽が楽しい。真珠が隣で歌ってくれることが、こんなにも嬉しい。


 最後の音が消えると、教室は一瞬静まり返った。


 そして――


「すごーーーい!!!」


 割れんばかりの拍手と歓声が一気に溢れ出す。


「やっぱ音楽って最高!」


 両手を広げ、満面の笑みで叫ぶ真珠。


 その笑顔につられて、僕も自然と笑ってしまう。


 すると次の瞬間――


「なんだこの騒ぎは!もう予鈴鳴ってるぞ!」


 先生の怒鳴り声に、僕と真珠は顔を見合わせる。


「あ、やばっ!優、逃げるよ!」


「ちょっ、待って!」


 真珠に手を引かれ、僕たちは音楽室を飛び出した。


 廊下を全力で駆け抜ける真珠の笑い声が、いつも以上に弾んで聞こえる。


 走りながらも、ふと横を見る。真珠は無邪気に笑っていて、その笑顔がなんだか眩しかった。


「本当にお前ってやつは……」


「あ!今お前って呼んだ!」


「えっ……あ、無意識に……ご、ごめん!」


「別にいいって!前より仲良くなった感じで、ちょっと嬉しいし」


「そ、そういうもんなのか……?」


 真珠はニッと笑いながら、僕の前にぐいっと顔を近づける。


「そういうもんなの!ついでにさ、僕も卒業して、俺って言ってみなよ!」


「ええ!?それは……」


 真珠にグイグイ迫られて、思わず後ずさりしそうになりながらも、僕は苦笑いするしかなかった。


 振り回されっぱなしなのに、なんだかこの距離感が心地よくて、つい笑ってしまう。


 気づけば僕の口元には、自然と笑みが浮かんでいた。


 「ふふ……ははは」


「優?」


 ピアノと再会できた喜びをかみしめ、僕はさらに大きく笑って見せた。

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