登校途中、いつもの場所で待ち伏せる。風にそよぐ髪を整えながら、ちらりと時計を確認した。
予定通り。優斗は必ずここを通る。昔からそうだ。優斗は、私が見守っていなきゃ危なっかしくて仕方ないんだから。
人波の向こう、少し猫背でうつむき加減の彼が見えた。目立たないのに、どうしてこうもすぐに見つけられるのだろう。でも多分それは、優斗が可哀そうな存在だからだ。私の目が、彼を見逃すわけがない。
私にとって優斗君は、最初に好きになった人であり、初恋の相手。あの頃は、どこに出しても恥ずかしくない自慢の彼氏だった。天才ピアニストとして注目され、雑誌に取り上げられるような存在。そんな彼の隣にいることで、私も少しだけ特別な人になれたような気がした。
だけど、そんな優斗君があまりに眩しすぎて、私はいつも不安だった。隣にいる私は、優斗君の輝きに見合う存在なのか。優斗君にふさわしい彼女なのか。周りからも、「千秋って普通だよね」「優斗君にはもっとふさわしい子がいるんじゃない?」って言われて、そのたびに胸がぎゅっと締めつけられた。
でも、今の優斗君は違う。ピアニストとしての未来を失い、どこか自信をなくしてしまった。そんな優斗君が私を頼るようになった時、ほんの少しだけ、心が楽になった。優斗君が弱くなったことで、ようやく私は優斗君の隣にいてもいいんだって思えた。
だから、可哀そうな優斗君は、私が見守っていなきゃダメなの。
「おはよう、優斗君」
聞き慣れた声に、優斗が足を止める。顔を上げた彼は、少し驚いたような表情を浮かべていた。
「……千秋?」
「びっくりさせちゃったかな。久しぶりにちゃんと話したくて……」
柔らかく微笑んでみせる。でも、その笑顔の裏では、いつものざわつきが胸を占めていた。
ちゃんと話して、ちゃんと優斗君の気持ちを確かめて、ちゃんと私が一番だって思わせる。そうしないと、不安になる。最近、優斗君が少しずつ遠くに行きそうで、それが何より落ち着かない。
「今日はね、優斗君にちゃんと誤解を解きたくて」
誤解を解く。そう言えば、私はちゃんと優斗君を大事にしてる彼女に見える。ちゃんと誤解を解いて、優斗君を安心させて、また私だけを見てもらうために。
「誤解……?」
「うん。優斗君、きっと私と浅間先輩のこと――」
浅間先輩。その名前を出した途端に優斗君の顔が曇る。ちょっと胸が痛むけど、それ以上に、こうやって私を気にしてくれることが嬉しい。
浅間先輩とのこと……。みんなに羨ましがられるのは悪い気がしない。浅間先輩が私を特別扱いしてくれるのも、女の子としては素直に嬉しい。だけど、それと優斗君は別。
「誤解も何も――」
「あれは――」
少し震えた声を作る。優斗君を守りたいって気持ちは本当だし、ちゃんと伝えたい。でも、全部話したら優斗君はどう思うだろう。浅間先輩とのことも、正直気に入ってる部分だってある。カッコいいし、周りからも羨ましがられるし、浅間先輩の彼女って響きも悪くない。でも、それと優斗君への気持ちは違うの。
だから……どちらかなんて、今はまだ選ぶ必要ないよね。
「浅間先輩……私のこと、すごく気に入ってるみたいで。でも、私何度もお断りしたの――」
浅間先輩に言い寄られ、周りから羨ましがられるのは悪くない気分。でも、優斗君への気持ちも本当なの。優斗君は、私がずっと支えてきたんだから。
「断るたびに、優斗君への態度がどんどん酷くなって……私が断ったせいで、優斗君が――」
私が悪いわけじゃない。みんなだって、こういうことくらい普通にしてる。表向きの彼氏と、本命は別にいる子なんて、いくらでもいる。私だって特別なことはしてない。むしろ、私ほど優斗君のことを大事に思ってる子なんていないくらい。
「そんなの先生に――」
「無理だよ――」
優斗君を守れるのは私だけ。そう思ってる。浅間先輩のことは、周りの子だって同じようなことしてる。それでも、私が優斗君を守ろうとしてるのは、誰が何と言おうと本当のこと。そこだけは自信がある。
「でもね……浅間先輩は今三年生だから。あと一年ちょっと、私が我慢すれば――」
浅間先輩は、今の私にとって優斗君と同じくらい大事な存在になりつつある。優斗君は私にとって特別な人だけど、浅間先輩は私を特別にしてくれる人。どちらも、私が私でいるために今は必要なんだ。景子ちゃんだって分かってくれるって言っていた。
梢だってそう。浅間先輩が私に言い寄って来だした時、真っ先に浅間先輩との仲を応援してくれたのは梢だった。今の優斗なんかより絶対に良いって……。皆も私のやり方に賛同してくれているんだ。だから何一つ悪い事なんてない。皆が当たり前に思う事を、私も当たり前のようにやってるだけ。
優斗君に手を伸ばし、その手を握る。優斗君の手は、少しだけ冷たい。でも、この手を握っていると、安心できる。
優斗君の手を握ったまま、ふと真珠さんの顔が頭をよぎる。昨日転校してきたばかりなのに、どうしてあの子は優斗君のことをあんなに知ってるんだろう。まるで前から優斗君のことを全部知ってるみたいだった。どこかで会ったことがあるの?それとも……何か私の知らない理由がある?
私だけが優斗君のことを知ってるはずなのに、私だけが優斗君の特別でいるはずなのに。あの子は一体、何者なの?
知りたい。知っておきたい。私だけが優斗君のことを分かってるはずなのに。
「ねぇ、優斗君……真珠さんって、どうしてあんなに優斗君のこと知ってるの?」
自分でも驚くくらい自然に口をついた。昨日転校してきたばかりなのに、まるで昔から知ってるみたいなあの距離感。あれが何なのか、知りたい。私の知らない優斗君がいるなんて、耐えられない。
でも、優斗君が口を開く前に、視界の端にクラスメイトの姿が映った。少し離れた場所に、知ってる子たちが集まっている。
言葉の続きを飲み込んで、そっと手を離す。
学校が近づき、生徒たちの姿が見え始める。誰かに見られるのは嫌だから、いつものようにさりげなく手を離す。でも、こうしてまた優斗君と手を繋げたことで、少しだけ安心できる。
私だけが知っている、特別な関係。浅間先輩といる時には絶対に感じられない、優斗君の小さな温もり。どっちも大事で、どっちも私には必要なの。
そう、この関係は誰にも壊させない。
だから、今はまだ――
「じゃあ、またね」
――君を離してあげない……。