翌朝。どんよりした曇り空の下、冷たい風が吹き抜ける通学路を、僕は重い足取りで歩いていた。
昨夜はなかなか眠れなかった。ベッドに横になっても、ふとした瞬間に真珠の笑顔や、真珠が何気なく口にした名前が浮かんできて、胸のあたりがざわつく。
北斗。
真珠があんなに楽しそうに話していた、彼女の"相棒"。何も気にする必要はない、僕には関係ない相手だ。そう思えば思うほど、余計にその名前が頭にこびりついて離れない。
僕はスマホを取り出し、無意識に検索アプリを開いていた。指が勝手に「北斗」と入力している。検索ボタンを押す瞬間、予測変換がずらりと並んだ。
『北斗 王子様』
『スピカ 北斗 恋人』
『スピカ 北斗 お似合い』
『真珠 北斗 熱愛』
『真珠 北斗 理想のカップル』
一瞬、息が詰まる。胸の奥がキュッと音を立てるように痛んだ。何を見つけても、僕には関係ないはずなのに。自分でもこの動揺の正体が分からない。
怖くなって、慌てて検索を閉じる。真珠が誰と仲が良かろうと、僕には関係ない。そう言い聞かせるのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。
ため息をつきながらスマホをポケットに戻し、うつむき気味に歩き出した。
「おはよう、優斗君」
聞き慣れた声に、足が止まる。
顔を上げると、そこには千秋が立っていた。いつもより少し毛先が揺れる髪。ほんのりピンク色に染まった唇。いつものブレザー姿なのに、どこか垢抜けた印象を受ける。小さなピアスが、微かに光を反射していた。
「……千秋?」
驚きが隠せず、名前を口にする。目の前にいるのは、確かに昔の千秋だ。でも、どこか違う。近くで見ると、その変化がはっきり分かる。僕が知っている千秋よりも、少しだけ大人びていて、どこか遠い存在に見えた。
「びっくりさせちゃったかな。久しぶりにちゃんと話したくて……」
千秋は柔らかく微笑んでみせる。風に乗って、ほんのり甘い香りが僕の鼻先をかすめた。昔、僕をいじめから守ってくれた優しい千秋が、目の前にいる。そんな錯覚を覚えてしまうほど、その笑顔には懐かしさが滲んでいた。
けれど、その笑顔の裏に何があるのか。僕にはもう分からない。
「……僕に、何か用?」
少し声が硬くなる。それでも千秋は微笑んだまま、ゆっくりと口を開く。
「今日はね、優斗君にちゃんと誤解を解きたくて」
「誤解……?」
「うん。優斗君、きっと私と浅間先輩のこと、すごく誤解してると思うの」
浅間。その名前を耳にしただけで、胸の奥が冷たくなる。あの日の光景がフラッシュバックする。僕を突き飛ばし、「千秋は俺の彼女だ」と言い放った男。そして、目を逸らした千秋。
「誤解も何も、千秋はあの時何も否定しなかったじゃないか、関わらないでって……」
思わず口からこぼれた言葉。千秋は小さく肩を震わせ、少し涙目になりながら首を横に振る。
「あれは……そうしないと、優斗君がもっと酷い目に遭っちゃうと思ったの」
「酷い目?」
「浅間先輩……私のこと、すごく気に入ってるみたいで。でも、私何度もお断りしたの。それでも諦めてくれなくて……」
千秋の唇がわずかに震える。視線を落とし、制服の袖をぎゅっと握りしめる。
「断るたびに、優斗君への態度がどんどん酷くなって……私が断ったせいで、優斗君が標的にされるのが怖くて……だから……」
「そんなの……先生に相談すればよかったんじゃ……」
そう言いかけた僕の声を、千秋が強く首を振って遮る。
「無理だよ……浅間先輩のお父さん、地元の教育委員会の偉い人で……学校の先生たちも、先輩にはあまり強く言えないんだよ。それに相談したことがバレちゃったりしたら、私じゃなく優斗君にいきそうで……私はそれが一番怖い」
「でも……」
「本当に怖いの……優斗君や、私の家族にまで何かされたらって思うと……先生に言ったことで余計に刺激しちゃったら、どうしようもないから……」
涙を堪えきれなくなったのか、千秋は袖口でそっと目元を拭う。か弱くて、どこか脆くて、でも必死で耐えようとしている姿が、胸を締め付ける。
「でもね……浅間先輩は今三年生だから。あと一年ちょっと、私が我慢すれば、それで終わると思うの。卒業したら、私なんかに興味も持たなくなるはずだから……だから、それまでの辛抱なんだ」
千秋は震える声で、僕を見上げた。その瞳は、昔僕を守ってくれた千秋と重なる。優しくて、僕にとって特別な存在だった千秋。あの日の思い出が、胸の奥からじんわりと溢れ出す。
「だから……優斗君がいてくれたら、それだけで私は頑張れるから……私……優斗君のこと、ずっと……あの頃から私の王子様だと思ってる」
かすれそうな声に、胸が強く揺さぶられる。千秋の涙、千秋の想い、千秋の言葉。そのどれもが、僕の弱い心に入り込んでくる。
僕は何も言えなくなって、ただ俯いた。
気づけば、千秋の手が僕の袖をそっと掴んでいた。昔みたいに、小さな手で僕を守るように。
――千秋を、助けなくちゃ。
その言葉が、心の奥から静かに響いてきた。
それと同時に、本当にその選択を選んでいいのかと、微かな疑問が、胸の中を叩いているようにも感じた。