屋上での出来事を終え、真珠とともに教室へ向かう途中、僕はふいに足を止めた。
目の前に、肩まで伸ばした黒髪が風に揺れる少女――美空千秋が立っていた。長いまつげがふわりと影を落とし、少し潤んだ瞳がこちらを見つめている。その仕草にはどこか儚げな愛らしさがあり、胸の奥が微かにざわめいた。
「あ」
彼女の瞳が揺れる。一瞬、声をかけるのをためらったようだったが、すぐに表情を取り繕い、微笑んだ。
「優斗君……」
驚いたような声色で、僕の名前を呼ぶ。
「知り合い?」
真珠が不思議そうに僕を見上げながら尋ねる。
僕が何も答えないでいると、千秋が少し口ごもりながら言った。
「……優斗君の彼女です」
その言葉が信じられなかった。あまりにも唐突で、現実味がなかった。
「は?」
耳を疑った。目の前の千秋は、どこか不安げに見えた。それと同時に、何かを確かめるような視線を向けてくる。
けれど、その顔にはほんの僅かに期待のようなものが滲んでいた。どこかで僕が受け入れることを願っているようにも見えた。
――何を言っているんだ?どの口がそんなことを言うんだ!?
胸の奥で黒い感情が渦巻く。僕がどれだけ苦しんできたか、この一言で忘れられるとでも思っているのか。
その場にいた空気が重くなる。
「行こう」
僕は真珠にそう言い、千秋を振り払うようにして歩き出した。千秋の視線が突き刺さるのを感じたが、振り向かなかった。
「待って、優斗君……!」
千秋の声が背後から響く。
それでも僕は、振り向かなかった。
隣で歩く真珠が、僕の顔をじっと見つめている。
「今の人、彼女って言ってたけど……もしかして、前に話してくれた優を裏切った子?」
その問いに、僕は苦しそうに表情を歪め、何も言わないまま歩き続けた。
足元が重くなり、過去の記憶がのしかかるようだった。
やがて教室に戻ると、僕は何も言わずに自分の席に座った。
千秋の姿が脳裏から離れない。
僕の様子を見て、真珠が気にしているのは伝わったが、あえて何も言わず、静かに見守っていた。
すると、クラスメートたちが真珠の元へ集まってきた。
「ねえ、早乙女さん、なんであんな奴と一緒にいるの?」
「そうだよ、あいつストーカーなんだぜ?」
「変態だし、クラスの嫌われ者なのに……」
「というか、そもそもなんで早乙女さんみたいな凄い人が、あんな奴なんかと知り合いなんですか?」
次々と浴びせられる悪意に満ちた言葉。
その場を逃げ出したくなる衝動を抑えながら、僕は必死に耐えようとする。
しかし、その時。
「それ、本気で言ってるの?」
真珠の声が教室に響いた。彼女は微笑みながらも、どこか興味深げに首をかしげる。
「私、今日転校してきたばかりなんだけど、今日一日で色々聞いちゃったんだよね。皆が話してる噂話」
クラスメートたちは一瞬戸惑う。
「それにしても、不思議だなぁ。どうして皆そんなに自信を持って決めつけられるの? まるで、この学校には『考えてはいけない』決まりでもあるみたい」
軽やかに投げかけられた言葉に、教室の空気が変わる。
「優が千秋さんと付き合ってるって話もあれば、浅間先輩が彼氏だって話もあるんだよね?彼女はどっちがってハッキリ言ったの?」
真珠は小さくため息をつく。
「ていうかさ、それって本人たちが決めることで、他人が決めつけることじゃないよね?」
クラスメートたちは言葉を詰まらせる。
「それに、誰かが言ったことを鵜呑みにするのは簡単だけど、自分でちゃんと見たことはある?」
静寂が訪れる。
「千秋さんの態度が曖昧だったからこそ、こうして誤解が生まれたんじゃない? だったら、悪いのは優だけなの?」
真珠の穏やかな語りに、クラスメートたちは何も言えなくなった。
「噂話ってね、広めるのは簡単だけど、後から本当のことを知った時にすごく恥ずかしくなるんだよ」
クラスメートたちは口を開こうとするが、言葉を探しているうちに黙り込んだ。
「そうそう、それにね、優は私が知る限り、とても素敵な人。だから、あなたたちが何を言おうと、私の中の彼の評価はまったく変わらないんだ」
言い切るように微笑む真珠。
その場にいた誰もが、何も言えずに目を伏せた。
「さてと、そろそろ授業が始まるから、席に戻ろうか?」
真珠が満面の笑顔で軽やかに言うと、クラスメートたちはぎこちなく頷きながら、それぞれの席へと戻っていった。
真珠が僕の方を振り向き、片目を閉じてウインクした。その仕草にはどこか余裕があり、からかうような、けれど優しさを含んだ雰囲気があった。
その仕草に、僕の胸にじんわりと温かさが広がる。
それまで押し込めていた感情が、溶けるようにほどけていく。
静けさの中、僕はゆっくりと顔を上げた。
「ありがとう、真珠」
弱々しくも、確かにそう呟いた。
すると、真珠は笑みを浮かべ静かに席を立つと、軽やかな足取りで僕のそばへと近づいた。そして、僕の耳元にそっと口を寄せると、柔らかく囁いた。
「当たり前でしょ。優は私の大切な人なんだから」
その声は、僕だけに聞こえるような甘い響きを帯びていた。
囁き終えた後、真珠は何事もなかったかのように笑みを浮かべ、自分の席へと戻っていった。
彼女のその言葉に、僕の胸が温かくなった。
誰かが自分を信じてくれる。
それがどれほど心を救ってくれるか、僕は身をもって知った。
この日、教室の空気は、少しだけ変わった。