狭いトイレの中で、僕はじっと考え込んでいた。 そういえば、なぜ真珠は僕がいる高校が分かったのだろう。
ふと思い返す。彼女とやり取りを始めたのは中学三年の頃。初めてネットに上げた曲を真珠が気に入ってくれたのがきっかけだった。
いや、そういえば高校受験に受かった時、余りに嬉しくて思わずそのことを真珠に話してしまった覚えがある。
という事は、やはり彼女は僕を探してこの学校に転校してきたのだろうか?
こんな僕のために……?
さきほどの真珠のキラキラと輝く姿が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。
あんなに眩しい彼女と、僕なんかが釣り合うはずがない。そう思うと、自然と自虐的な笑みがこぼれた。
僕は小さく息を吐き立ち上がると、ゆっくりと教室へと戻った。
それからも真珠の“優探し”は続いていた。授業が終わるたびに、彼女は校内のあちこちを歩き回り、何か大切なものを探し求めるように、「優」の名を持つ誰かを探し求めた。
どこかのクラスで彼女の姿を見かけた生徒たちは、一瞬にしてざわめき、あっという間に彼女を取り囲んだ。「スピカがうちのクラスに来た!」と興奮し、真珠が通るたびに、まるでアイドルのような歓声が湧いた。
その熱気は次第に広がり、校内のいたるところで彼女の話題が飛び交うようになった。休み時間になるたびに、「スピカが来た!」という声があちこちで響き渡る。
そんな状況の中で、僕はなるべく目立たないように身を潜め、息を潜めるようにしていた。
こんな状況が続くうちに、僕の心はますます縮こまっていく。
だが、どれだけ気配を消しても、胸の奥では焦燥感が燻っていた。
やがて、昼休みがやってきた。
僕はなんとかコソコソと逃げ回りつつ、購買でパンを買って教室へと戻る。
途中、目の前を歩いてきた男子生徒に肩をぶつけられ、僕はよろめいてその場で転んでしまった。
「気持ち悪いな、うぜえから俺と千秋の視界に映んないでくれる?」
嘲笑を含んだ声。
顔を上げると、そこには笑みを浮かべる浅間の姿があった。その背後には、彼の影に隠れるように千秋の姿もあった。
僕は無言のまま、落としたパンを拾おうとした。
だが――。
ぐちゃっ。
靴底に押しつぶされる音と共に、浅間が僕のパンを踏みつける。
「ああ、悪い」
口だけの謝罪を残して、浅間がその場を去っていく。
千秋はそんな僕に、まるで憐れむような視線を一瞬だけ向け、浅間の後を追っていった。
通り過ぎる生徒たちが、僕を見ながらひそひそと話し、視線を向けながらも誰一人として手を差し伸べることはなかった。
僕は潰れたパンを拾い上げ、静かに教室へと戻った。
――やっぱり僕なんかが、真珠と出会ってはダメだ。
ネットの中ならまだしも、現実の世界でなんて、僕はあまりにも彼女にふさわしくない。
真珠には悪いけど……。
そう思いつつスマホを取り出した時だった。
「おい!屋上に早乙女さんがいるってよ!」
「え?なに?何か始めるの?」
教室が一気にざわついた。あちこちから椅子を引く音や、窓へ駆け寄る足音が響く。誰もが興味津々に窓の外を覗き込み、外の様子を確かめようとしていた。
僕もつられるように窓の外を見た。
グラウンドには、すでに屋上を見上げる生徒たちが集まり始めていた。その顔には驚きと期待が入り混じっている。
一体何が?
僕は軽く息をのんで、ぼんやりと天井を見上げた。
そして次の瞬間――。
屋上から響いたのは、圧倒的な歌唱力を誇るスピカの歌声だった。
その歌声はただ澄んでいるだけではなく、空間を支配するほどの迫力を持ち、聴く者すべてを一瞬で引き込んだ。
高音は空に溶けるように伸びやかで、低音は胸の奥に響くように深く力強い。
音楽室でもなく、ライブ会場でもない。ただの学校の屋上。それなのに、まるでステージの中央で歌っているかのような存在感だった。
ざわめきが止まり、すべての視線が彼女に吸い寄せられる。
風に乗って響く歌声は、どんな雑音もかき消し、その場にいる全員の心を震わせる。
まるで、この瞬間だけ世界が彼女を中心に回っているかのようだった。
「うわっ、めっちゃいい声!」
「いい曲じゃん!新曲?」
「誰の曲?結構好きかも、これ!」
教室から、廊下から、外からも、興奮した生徒たちの声が挙がる。
けれど、多分いま、この学校で一番興奮しているのは僕かもしれない。
――僕は、この歌を知っている。
僕がスピカの歌声を聴いて、どうしても伝えたくて作った曲――『君は僕の一等星』。
まだ未完成で、真珠には一度しか聴かせていない。それなのに、彼女はその旋律を心に刻み、見事にアレンジして歌ってくれた。
僕の心に眠っていた想いが、一気に呼び覚まされる。
胸が熱くなる。息が詰まるほどの感動が押し寄せてきて、言葉を紡ぐ余裕すらなかった。
まるで、僕の想いが真珠の歌声に包み込まれて、どこまでも高く昇っていくような気がした。
気づけば、涙が頬を伝い、落ちていった。
こんなにも心が震えたことはなかった。
僕のために、僕の曲を、彼女が全身全霊で歌ってくれている。
ポロポロと流れ落ちる涙を、僕はもうどうすることもできなかった。
「うえ、気持ちわるっ」
僕を見た誰かが言った。
けれど、全く気にならない。それどころじゃない。
やがて歌声が止んだ。そして、次の瞬間。
「ねえ、聴いてる!? 私の歌どうだった!? 感想聴かせてよー!!」
真珠の声は、まるで心をまっすぐ撃ち抜くような、屈託のない明るさに満ちていた。まるで、目の前に僕がいると分かっているかのように、楽しそうに、そして純粋に、どこかにいるはずの僕へと語りかける。
その言葉が僕の胸に深く刺さる。僕のために、僕の曲を、彼女が全力で歌ってくれた。そして今、僕の答えを待っている。
心が震えた。
もう、何も抑えられない。
心臓がうるさいほどに高鳴り、息が詰まりそうだった。
そして、震える指で窓枠を掴みながら、一歩踏み出し、視線を屋上へと向ける。胸が張り裂けそうな衝動に駆られながら、精一杯の声を振り絞る。
「さ、最高でした! 本当に……最高でした!」
涙が溢れる。胸の奥から湧き上がる感情をどうすることもできなかった。
すると、屋上に立つ真珠が声に反応し僕を見つけた。
ぱっと花が咲くような満面の笑みを浮かべ、目を輝かせながら声を上げる。
「みーっけ!」
その無邪気で屈託のない声が、心の奥まで染み渡る。
彼女の愛らしく弾けるような笑顔が、まるで世界を包み込むように温かかった。
僕はこみ上げる感情に声も出せず、ただ必死に頷いた。