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第297話 法明和尚の正体

 殷開山は、江州副長官を臨時の長として宰相権限で江州臨時長官として任じ、新たな長官はどうするかを取り決めるために陳萼と殷温嬌と共に中央へと帰っていった。


 陳萼は人の世界での暮らしを長く離れていたため、長官としての再任用ではなく龍宮の研究などをしている大学府の学者として働くことになったのだ。


 殷開山も娘夫婦をそばに置くことで安心するだろう。


 一方、陳萼の母親の張氏はこれまで通り江州で暮らすことにしたが、ボロボロの屋敷を治すまで寺に身を寄せることになった。


 屋敷の修繕には陳萼が龍宮からもらった報酬を充てるという。


 家族や寺の人々に別れを告げ、江州を発った玄奘一行はあっという間に法明和尚がねぐらにしていた廃寺に辿り着き休んでいた。


 法明和尚に報告をしたいと玄奘が言うのでかなり急いだのだが、廃寺にはすでに法明和尚の姿はなく、囲炉裏の炭も冷め切っていた。


 おそらく玄奘たちが江州に向かってすぐに、法明和尚も出発したのだろう。


 そして夜も更けたころ。


 軋んだ音を立て、廃寺の扉がひらいた。


 寝付けずにいる玄奘が夜風に当たろうとしたのだ。


 お堂への二段ほどの階段に腰を下ろして空を見上げていると、夜番をしていた沙悟浄がやってきた。


「眠れませんか、お師匠さま」


「沙和尚」


 川からの風がさあっと吹いて、沙悟浄の朱色の髪を撫でていく。


 玄奘は夜空に目を向けた。


 紺碧に輝く満天の空を、両親も眺めているだろうかと、そんな郷愁に駆られる。


「……父と話をすることができました。沙和尚が背を押してくれたおかげです。話せてよかった……ありがとうございます」


「いえ、俺は……」


 謙遜する沙悟浄に、玄奘は夜空から視線を向け微笑む。


 月明かりが玄奘の旗を白く照らしている。


「正直喜んでいいのか複雑な気持ちです。確かに劉洪は憎いですが、しかしあのように命をうばってよかったのだろうかと……なんだか虚しいような、心にぽかりと穴が空いたような気分です……」


「お師匠さま……」


 おそらくその穴は誰も癒せないだろう。


 優しい玄奘には、たとえ憎い仇であっても命を奪うまでとは思っていなかったのだ。


 だが父親を龍宮から戻してもらうためには、対価が必要だった。それが、陳萼を害したものの肝。


 仕方のないこと、と思えば思うほどやるせない。


 劉洪も元は役人だったというのだから、真面目にしていれば、と思わずにはいられない。


 そんなやるせない気持ちになることは、戦いに身を置いていた沙悟浄にも何度か経験がある。


 結局のところ、心を癒すには玉龍の如意宝珠ではなく、時間。


 時間が一番の薬なのだ。


 それは玄奘にもわかっていることだろう。


「明日からまた、天竺へ向かいます。沙和尚、よろしくお願いしますね」


「はい。天竺まで俺たちが必ずお守りいたします」


 玄奘は手を合わせると、劉洪と後に土左衛門が上がったという李彪の冥福のために経を読んだのだった。



 一方で、普陀山に暮らす観音菩薩の元を尋ねる者がいた。


「ご苦労様でしたね、帝釈天」


 観音菩薩が労うのは法明和尚……ではなく、帝釈天だ。


 法明和尚は観音菩薩の眷属、帝釈天だったのだ。


 ニッカと笑って、帝釈天は頭を下げた。


「これから先、玄奘は多くの苦難にあいましょうが、我ら天部も道中の守りはいたしますゆえご安心くださいと、釈迦如来様にお伝えください」


「ええ、ありがとうございます」


「では、それがしはこれにて」


 そう言って茶杯に注がれた甘茶を一飲みするとガシャリガシャリと鎧の音を立てながら退室していった。


「ふぅ……まずは牛魔王ですね。さて……」


 玄奘の憂いをはらったものの、強大な敵に玄奘が玉果と知られてしまったのだ。


「いえ、恐れているだけはいけませんね。まずは報告にあがりましょう。恵岸、出かけますよ、恵岸!!」


 大きく息を吐き気持ちを整えると、観音菩薩はいつもの調子で弟子を呼んだのだった。



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