玄奘はその場にうずくまり、顔を覆った。
──お前が私たちから全てを奪ったのだ!!
評定の場に飛び出して、そう声を上げて叫びたかった。
──お前の悪行のせいで、祖母は全てを……視力まで失ったのだぞ!
劉洪の胸ぐらを掴んで感情のままに乱暴にゆすって罵りたかった。
一発や二発、いや三発くらい殴ってやりたかった。
でも、自分は僧侶だという自覚が理性に呼びかけ、ギリギリのところでそれを止めてくれている。
玄奘が感情に乱される様子が誰かに見られたら、自分を天竺へ送り出した皇帝の太宗や祖父の殷開山にも迷惑がかかるだろう。
果たして玄奘は皇帝の勅命を果たすのにふさわしいのか、と。
一人の人間としての感情と僧侶としての振る舞いのなかで、玄奘の心は擦り切れそうだった。
「お師匠さま!」
そこへ、劉洪の裁きの場になかなか現れない玄奘を心配した沙悟浄がやってきた。
「沙和尚……」
玄奘は自分の姿を見つけたのが沙悟浄で正直ホッとした。
前世から数えると、沙悟浄はある意味一番付き合いが長いからだ。
玄奘が持っている馮雪の記憶でも、当時捲簾大将だった沙悟浄には色々と悩み事を聞いてもらっていた。
だから沙悟浄には少しくらい感情的な姿を見られても、と玄奘自身に自覚はないが、かなり心を許している。
沙悟浄は玄奘にかけよると、身をかがめて優しく抱きしめた。
「沙和尚……?」
大柄な沙悟浄に抱きしめられると、まるで小さなお堂にこもっているような気持ちになる。
いきなり抱きしめられたことに驚いた玄奘だったが、劉洪から注意が逸れたことで、あれだけ怒りと憎しみ、悲しみに囚われ荒立っていた心が凪いでいくのを感じた。
「悟空たちはお母上様のところにいます。今ここにいるのは俺だけです」
頭の上から聞こえる優しい声。
馮雪として生きていたときに聞いたものと変わらない声だ。
玄奘として出会ってからは、師匠と弟子という間柄のためか、ここまで近いことはなかった。
人間とは違う、少し高めの体温。
藍色の肌の色に、朱色の髪。
見た目は違うのに、鼓動の音は同じだ。
玄奘は耳元に聞こえてくる沙悟浄の鼓動の音に落ち着きをようやく取り戻し、ゆっくりと息を吐いた。
「俺の体は大きいから、あなたの声も涙も隠せます」
「え?」
どういうことだろうかと顔を上げても、沙悟浄の顔は見えない。
沙悟浄は言葉を続ける。
「今は我慢しなくていいんです。仏の弟子としてではなく、一人の人として──、家族を奪われた被害者として感情を吐き出しても……」
玄奘が感情をあらわにしても、誰も見ていない。
沙悟浄も玄奘の涙を見ないようにしてくれているのだ。
「沙和尚」
玄奘は沙悟浄の背中に腕を回し、大丈夫だと軽く叩いた。
「ありがとうございます。おかげで怒りなどは溶けてしまいました」
「お師匠さま……」
玄奘の顔を覗き込む沙悟浄の顔があまりにも心配そうだったので、玄奘は微笑み頷いた。
本当に無理などしていないのだ。
「さあ、評定の時です。行きましょう」
「……はい」
それでも心配そうな声に、玄奘は振り返った。
沙悟浄のことを見上げる玄奘の瞳の光は強く、彼のいう「大丈夫」は事実だと思えるほど。
「全てが終わったら、話を聞いていただけますか?沙和尚。馮雪のころからみまもってくれた、あなたになら話せそうです」
「──はい!」
「さあ、行きましょう」
二人は評定の開始を告げる太鼓の音に足を急がせたのだった。