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第290話 張氏の慟哭

 その言葉に張氏以外の誰もが頷いた。


「そうだよな。むしろしなくていい謝罪と弁償をしていたようなもんだよな」


「考えてみればその通りですね……」


 張氏も気づいたようでボロボロになった屋敷を振り返った。


「私は母親失格ね……我が子が入れ替わっているのにも気づかないで、財産を無くして……あの子が、必死の思いで合格した科挙のあと、就いた仕事を、新しい家族もできてそれを蔑ろにするわけがないのに……!」


 張氏は心底悔しそうに言う。


「母親の私が一番に気づくべきだった。江州に見に行くべきだった。ひと目見たら、偽物だってすぐ分かったのに……全て温嬌さんに任せて辛い思いをさせてしまった……取り返しのつかないことだわ……」


 そう言って、張氏は涙を流しながら拳で外れかかっている戸板を叩いた。


 玄奘はそんな張氏の手を優しく包んで止めた。


「お祖母様、どうかご自分を責めないでください。相手が巧妙すぎたのです。さあ、金山寺へ参りましょう」


「ああ、私をお祖母様と……何もしてやれなかったのに、ありがとうね」


 礼を言う張氏に玄奘は首を振った。


「こうして生きて会えたことが全てです。ありがとうございます、お祖母様」


「江流……!」


 張氏は感極まって玄奘を抱きしめた。


 このような暮らしぶりだ。


 張氏の体は枯れ枝のようで、力を入れたら折れてしまいそうだった。


「お師匠さま、一度金山寺に戻りませんか?」


「そうだな。あそこならここにいるよりもずっといい。ね、そうしましょうお師匠さん」


 沙悟浄の提案に猪八戒も頷く。


「それが一番いいかもな。もしかしたら偽物が逃げ出したりするかもしれねえから見張っといた方がいいだろうしな」


 孫悟空も気合十分で同意した。


「じゃあ子どもたちにお土産買って帰らないとね!ね、オシショーサマのおばあちゃん、行こう!」


「江州の、金山寺に……?」


 トントン拍子に話をまとめていく玄奘の弟子たちに呆気に取られた張氏は玄奘を見た。


「参りましょう、お祖母様。ともに、金山寺へ」


 こうして一行は張氏と共に金山寺へと戻っていった。



 唐の都、長安。


 早馬を飛ばして先触れをだし、太宗への謁見を最速で取り付けることに成功した殷開山は謁見の間に居た。


「それは誠か、開山」


 殷開山から江州長官が害され偽物が入れ替わっていることを知らされた太宗が深刻な顔をしていた。


 科挙を合格し、国の名を背負って赴任した長官が偽物だったと。


 しかも十数年間誰も気づかなかった。


 これは中央への信頼を揺るがす一大事である。


 謁見の間に揃う大臣がたもざわめく。


「それが誠だという証はあるのか。玄奘どのが妙見菩薩から受け取った言葉というだけでは……」


 大臣の一人が言う。


 想定内の質問だ。殷開山は唐に帰る途中で情報を集めてきた。


「ここにくるまでに手のものに調べさせました。江州へ渡る川の船頭である劉洪と李彪の二名が十数年前より行方知れずとのこと。この月日は我が娘、殷温嬌が江州長官に任じられた夫の陳萼と共に江州に向かった時期と合致するのです」


 殷開山の護衛官が近衛に資料を渡す。


 近衛は内容を確認し、太宗に渡した。


「なんと……」


 そのつぶさな調査結果に太宗は感心し、またそのなりすましが事実であることに落胆した。



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