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第4話 玉皇大帝と恵岸行者

 夜を迎えた西王母の居室。


 そこには黄金色の衣を纏った美丈夫──玉皇大帝がいた。


 彼の膝の上には、昼間の蟠桃会で宝を失い泣き疲れて眠る、愛しの妻である西王母。


 玉皇大帝の前ではいつもは元の姿に戻る西王母なのだが、その膝の上で眠る今は少女の姿のままだ。


 蟠桃会から戻り居室を訪れた夫の姿に安堵した西王母は、今日の出来事を泣きながら報告し、そのまま眠ってしまったのだ。


 玉皇大帝は西王母の髪を優しく、愛しげに撫でながら、彼女にかけた上掛けの上からその肩をトントンと規則的に優しく叩き寝かしつけている。


 西王母を慰めるため訪れた玉皇大帝は、彼女が深い眠りに落ちているのを確認すると、御簾みすの向こうに声をかけた。


「これでよいのだろう?恵岸えがん


「はい、おかげさまで万事うまく行きます」


 恵岸と呼ばれた者は居室には入らず、御簾の向こうから満足げに返答をした。


 ひそめられたその声音は心地よいほど優しく、西王母の眠りを妨げるようなものではない。


 彼は観音菩薩に従う行者ぎょうじゃで、哪吒太子の兄でもある。


「もう蟠桃会で問題が起こるのはこれで三度目だ。次は勘弁しておくれよ。これが泣くのは辛い」


「はい、彼で最後ですのでご安心を」


 ため息混じりに愚痴る玉皇大帝に、もう終わりです、と恵岸行者は答えた。


「形あるものはいつか壊れるとはいえ、玻璃の杯は我々夫婦の宝だったのだぞ」


 玉皇大帝の一番の宝に比べれば玻璃の杯など何の価値もないが、西王母にとっては違う。


 だからあんなにも怒り狂い、泣き疲れて寝落ちするほど悲しんだ。


「まあ、余にとって一番の宝は、愛しの妻と過ごすこの時なのだがな」


 玉皇大帝の惚気を恵岸は無言で笑顔のまま流す。


「来るべき時に備え、捲簾大将には地上に堕ちてもらう必要がありましたので」


 事もなげに澄まして言う恵岸行者に、玉皇大帝は不服そうに鼻を鳴らし眉根を寄せた。


「しかしこちらが手を回すまでもなく、さすがの、と申しますか、天の采配のなせる技といいますか……」


 恵岸行者は感心したように、笑いを堪えながら言う。


「あのつまづきの様はある意味天才的と言うか、お約束というか……」


 その言葉に玉皇大帝も苦笑いをする。


「あれは抜けておるところはまあ、あるが……余の近衛このえを率いる大将だったのだぞ。戦闘時はあんなぼんやりではない」


 捲簾大将は、長い間玉皇大帝を守護していた者だ。


 思い入れもそれなりにある。


思い出し笑いをする恵岸行者に、彼の名誉のためと玉皇大帝は言う。


玉皇大帝は、いくら釈迦の頼みとはいえかなりの手練である捲簾大将を手放すのは惜しかった。


「だからこそでございます。そのくらいの強者でなくては、あの者の過酷な旅は終着までいきませんので」


「聞けばあれは罰を受けてひどい怪我をしたそうじゃないか。傷だらけでは役目を果たせんだろうに」


「ご安心を。怪我の治療には弟が向かったようですので」


 すぐ治りましょう、と恵岸行者はにこやかに言う。


「お前の弟──哪吒太子はこのことを知っているのか?」


「いえ、これを知るのは玉皇大帝、釈迦如来、観音菩薩と自分だけです」


 捲簾大将が堕ちたのは仕組まれた事だと言うことは、この四人以外に知る由もない。


「釈迦め……この借りは大きいぞ。伝えておけよ」


 玉皇大帝は憎々しげにいうが、その声音はまるで冗談の軽口のように優しい。


「まあ、人の世界は未だ混迷している。捲簾大将を手放すことになったのは仕方あるまい……」


 現在の人の国──唐の国は皇帝太宗が即位したばかりで、近隣各国や異民族との戦いも数多い。


 それだけではない。各地には妖怪たちもあちこちにいて、その中には人を食らう者もいる。


「まあ、あれの養子は猛禽である青鸞の子だ。育てばあれ以上になろう。天の守備もなんとかなるか」


 そうして一人ごちた玉皇大帝は顔を上げた。


「して恵岸、その方が捲簾を守りに選んだあれの名は何であったか……げん……げん……」


「玄奘(げんじょう)でございます」


「そうだ、玄奘と言ったな。唐から天竺までわざわざ旅などさせずとも、大般若経とやらを釈迦が直接玄奘に授ければよいでは無いか」


「そういうわけには。口伝にするにはあまりにも膨大なものなので、天竺から経典を持ち帰らなくてはならないのです。内容にまちがいがあってもいけませんからね」


「ふぅむ……そういうものか」


「はい、そういうものなのでございます」


斉天大聖せいてんたいせい天蓬元帥てんぽうげんすい、そして捲簾大将けんれんたいしょう。その三将に守護されるのはかつては釈迦の二番弟子、金蟬子こんぜんしだったという人間の僧……しかもその馬になるのは玉龍とは。まったく、仰々しい一行だな」


 指折り数え、一人の人間が彼らと旅をするその様子を想像した玉皇大帝は苦笑いをした。


「ああ、だからか、釈迦や観音菩薩らが周到に支度をするのは。懸命なのはわかるが、あまりこちらを巻き込まないで欲しいものだ」


「……」


 玉皇大帝の言葉に恵岸行者は言葉を返せない。


 意思は釈迦如来と観音菩薩にあり、自分はただの伝令役。


 この先、崑崙を巻き込まないと言う約束はできないからだ。


「まもなく、間も無くでございます。彼らの旅立ちは間も無く……」


 恵岸行者は待ち遠しいと言わんばかりにウキウキというと、玉皇大帝の前から辞去した。



「恵岸、ご苦労さまでした」


 恵岸行者が玉皇大帝のもとから戻ると、日暮れのような橙色の衣を纏った観音菩薩がウキウキとして彼を出迎えた。


 恵岸行者は彼の弟子である。


「手筈は順調に整ってまいりました。楽しみですね、お師さま」


「そうですね、今生の金蟬子こんぜんしに再びまみえるのも間も無くでしょう」


 観音菩薩は待ちきれないと言ったようにクスクスと笑った。


「今生こそ、彼には試練を乗り越えて頂き、釈迦如来さまのもとへ戻っていただきたいものです」


 感慨深く言う背の高い観音菩薩を、恵岸行者は微笑み見上げた。


「恵岸、我々も行きましょうか」


「はい」


「さて、次は太宗を地獄に連れに行きましょうか。まあ日帰り旅行ですけどね」


「うっかり置いてきてしまってはダメですよ、お師さま」


「うーん……気をつけます」


 楽しそうに笑って言う観音菩薩と恵岸行者は人の姿に変化し、その場を後にした。


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