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堅穏なる猛者
堅穏なる猛者
只野緋人/ウツユリン
現実世界現代ドラマ
2025年02月24日
公開日
1.3万字
完結済
“超”コワモテの介護士・猛雄は、寡黙だが心優しい青年。人混みでも老人・マサヒロをガイドし、完璧に仕事をこなす。
ある猛暑日、商店街を行く途中で、マサヒロの古い知人“おばちゃん”と出くわした。一人で過去をペラペラと話すおばちゃんにつられ、猛雄も若き日を思い返していた。

猛雄と元警官のマサヒロ。二人の過去にあったものは。
そしてカンカン照りにもかかわらず、マサヒロが頑として外出し、手に入れたかったものはーーー。

堅穏なる猛者

 日本一賑わう商店街のある街として知られる巣鴨。


「巣鴨地蔵通り商店街」が正式名称であると、どれだけの人が知るか定かでないこの商店街は、夏でも冬でも、行き交う人のニオイや、その熱気が立ち込め、はじめて目の当たりにした者を圧倒する。


 近ごろ、国際色豊かになった地元の台所だが、やはり、アーケード街の顔ぶれは、新旧入り乱れる店舗の位置を寸分たがわず、ときにド忘れしながらも、正確に見分けることのできる、乾燥をおこたった洗濯物のような、起伏の激しいアクティブフェイスの熟練が多かった。


「これはマサさん、きょうもエエお天気で」

 地元の老練な紳士淑女たちは、往来の激しい人ごみでも、容易に相手を認識し、声をかける。

 たとえ、近くのものを離さなければボヤけて見え、話し声には物理的に、聞き耳を立てなければ聞こえないほどの長い、人生のときを経ようとも、見知った人物を間違えることはない。

 それが、名士と称されてきた人物なら、なおさらのことだった。

「あ、あ……」

 獅子の顔をこれでもかと、大きくあしらったティーシャツにサングラス、という恰幅の良いアクティブフェイスの淑女が声をかけた相手は、焦点の合わないくぼんだ目をゆらしながら、口から息を吐くように答えた。

「ホンマ、ぎょうさん人がおりますなぁ。平日やというのに……」

 "ライオンヘッド"の淑女がたわいもない話題を次々にくりだすあいだも、マサさんと呼ばれた、青いストライプのポロシャツに、グレイのスラックスで額に汗をうかべた男性は、時折、ぎゅっと目をしばたたかせ、なにかを探すように足取りを進めていた。

 しかし、必死なマサの表情とは裏腹に、夏日を照らす磨かれた革靴は、遅々として進まない。

「……知らん人がこうもねぇ。あんら、マサさん、きいてらっしゃる?」

 日光もろとも、紫外線を遮る巨大なコウモリ傘を、ぐいっと傾けたかとおもうと、言葉の弾丸を飛ばしていた淑女の、日よけグラスに隠しきれない表情が不機嫌にゆがんだ。

 気持ちばかりの日陰さえ、失ったマサの顔は、さらに険しくなったようにみえる。

「んまぁ、そんなにあせらんくても……」

 淑女の手がマサの肩をたたこうとしたそのとき、突き飛ばすように人影があいだに割って入った。

「いたたたっ! なんやのあんた?!」

 まさしく獅子のような勢いで、淑女が乱暴にあたってきた人物に詰め寄る。

「人様にぶつかってなに、あやまらんで……」

 が、その人物の風体をみるや、淑女の言葉が尻すぼみになっていく。

「……あん?」

 怒り肩で振り返ったのは、同じくサングラスの人物だった。

 ただし、そのグラスは陽を吸い込む黒ではなく、ギンギンに反射するミラーレンズだ。しかも、レトロな任侠映画に登場しそうな、ティアドロップ型のフレームをしている。

 服装は、周囲の目をまるで気にしないシルバーメッキのようなジャージの上下に、軽快な音を立てる下駄という出で立ちだった。

 袖で駆く東洋の龍がよく似合う、無精髭の目つきがやたら危ない男だった。

「なんだ、ババァ?」

 突っかかる相手を完全に間違え、今や、ずれたバタフライグラスをなおす余裕もない淑女は、ユッサユッサと体をゆらして近寄ってくるガラの悪い男に、動揺しきっていた。

 人込みで多数の目があるなか、男がなにか仕出かすとはおもえないが、激しく批判されるにはちがいないなかった。

「オレにいちゃもんを付ける気か、え? おいジジイ、じゃまだ……」

 淑女へと距離をつめる男。その進路上にはマサがいる。

 毛深い男の腕がマサへ伸びた。

 かつては力強かっただろう形の良いマサの肩も、年齢を経て今はやせ細っている。粗暴な接触に耐えられそうもない。

 男に、マサが突き飛ばされるとおもわれたときだった。

「……は?」

 薬指以外、ドクロの指輪でうまった骨張った拳が、マサには触れラレずにピタリと止まる。

 上ずった声の男の腕は、五指が分れた"キャッチャーミットのような手がガッチリと、つかんでいた。

「あぶないですよ、お兄さん」

 穏健な声が影とともに男の頭上に降り注ぐ。

 覆いかぶさる影の面積のわりに、その声量は大きくない。若さの残るテノール気味な声は、陽気ですらある。

 しかし、どこか鍛えたハガネのように、有無を言わせない。

「マサヒロさん、ちょっと休みましょうか」

 慈しみに満ちたハガネの声で、影の主は、マサヒロの肩を、成人男性の倍はあろうかという手でつつんだ。

 その仕草は驚くなめらかでいて、傍目にもわかるくらい、優しい。

「お、おい……あ、あんた……」

 とうに放っておかれた男は、ヤニで黄ばむ口をぽかんとさせ、影の主を仰ぎ見ていた。

 そのうち、相手にされていないことに気づいたのか、体裁をつくろうために口を開く。

 が、言葉は途切れ途切れだった。

「なんですか?」

「ひぃっ……!」

 マサヒロに寄り添う影の主が静かに振り返る。律儀にこたえる声は、やはり穏やかだ。

 けれども、そんな影の主を見たとたん、ガラの悪い男が情けない悲鳴を上げた。たとえ、街中で幽霊をみかけたとしても、男のような怖じ気づきかたにはならない。

 鬼の顔でもみたかのように、シルバージャージの男は、縮み上がってすっ飛んでいった。

「……あいもかわらずやな、にぃちゃん」

 サングラスをかけ直した淑女が、感心したような、あきれたようなため息をもらす。

 斜光レンズの奥の深い目が炎天下を近くの軒へと歩く、大小の背中を見送った。


 乙顔猛雄(おとがお・たけお)は、とにかく背が高く、肉付きも良い。運動好きでもあったことから、成長期にはすでに、日本人には珍しいくらいの筋骨隆々な青年になっていた。

 さらに、乙顔は武道にも打ち込み、空手、柔道、合気道、古武術等々を体にたたき込んだ。

 もちろん、指図されたわけでも、武闘派の一家に生まれたのでもない。

 ただ、乙顔は強くなるのがうれしくてたまらず、自分を鍛えることが性に合った。

 兵隊のような体躯をしていながら、乙顔の根は正直でおっとりしている。と、周囲には見られている。

 実際のところは、十代ならだれしも持っていた、小生意気さと反骨精神にもあふれていた。

 そんな強く、愚直なヤンチャ坊主にも、コンプレックスがある。顔だ。


「……やから、いうてやったに。『どこに目ぇつけてんのや!』てな」

 エンジ色の暖簾が下がる瓦屋根のお茶屋の軒下で、世界最大のコウモリよりも巨大な日傘を傘立てにストンッと、落としながら、ご立腹のようすで、あのライオンの顔をあしらったティーシャツの淑女が口を動かしている。

 ヘビ柄のバッグから取り出した、あわい桃色のハンカチで額を拭く。サングラスは外さない。

「目ぇ見えんでもあないなことせんわ。あ、悪気はないで、にぃちゃん」

 バタバタと小さすぎる布きれで扇ぐ淑女。

 無地のティーシャツの広い背中にトンとふれ、あやまった。

「いえいえ」

 広い背中の主、乙顔が陽気な声で答える。

 頭を下げながらも、細く常に笑っているような目は、隣にすわるポロシャツを気に掛けている。

「マサヒロさん、冷たいお茶です」

 長椅子に腰掛けたマサヒロに、乙顔がグラスを差し出した。

 氷の浮かぶ澄んだグリーンの飲み物を前に、マサヒロの表情はまだ険しい。

「にしても、あのアホンダラ、血相を変えて逃げてったなぁ。はははっ! あの顔! 般若相手でもああはならへんで」

 チンピラの姿を思い出して淑女がカカッと、声を立てる。自分の顔色も大差なかったことは、記憶にないらしい。

 軒の影におさまっていないライオンの顔が、豪快にゆれた。

「そうですね……」と、相づちを打ちつつ、直線のような乙顔の細い目が状況を瞬時に把握する。

「よかったら、どうぞ」

 いまだ、笑いのおさまらない淑女に、乙顔が立ち上がって席をゆずる。巨躯の動きに無駄はなく、あっという間に長椅子が空く。

 目の前をヌサっと、横切った乙顔に、さして驚くふうもなく、淑女は手刀を作って上下に振った。

「おっ、おおきに」

 マサヒロの正面にまわった乙顔は、グリズリー並みの体をかがめ、浅い呼吸をしている連れと目線の高さをあわせた。

 厚みのある背は直射日光をあびて、黒々とシミがひろがる。

「お家まで、もう少しありますから、水分補給しませんか、マサヒロさん」

 凹凸の多いそのヒタイでは、汗の滝が止まらない。

 だが、乙顔の呼吸は言葉と同じくらい、ゆったりしている。

 そうして、あるかないかの返事を、じっと、辛抱強く待った。

「あ……う……」

 マサヒロの目は前方の一点から離れない。

 それでも、くぼんだ眼孔の発するメッセージを乙顔が読み取る。

「はい、緑茶です」

 飲み物の名称を伝えてから、掌にすっぽり収まりそうなグラスを、マサヒロの口元へ近づけた。

 開かれていないような目が、正確に、ヒビ割れたクチビルへと手を導く。

「はぁ~! キカイにはできひんな、こないな」

 雫一滴、こぼさずに喉をうるおすマサヒロを、淑女は何度もうなずきながら感想を口にする。

 首をひねった獅子柄の女性は、ピンクのハンカチを右手に持ち替え、パタパタし続けた。

「にしても暑いなぁ……ウチが小さかったころは、こんなやなかったな。こな、溶けてまうで。ウチな、こう見えて病弱やん? ガールのころな、学校帰りにな……」

 淑女の言葉がまた、加速していく。

 遠くのセミの声がBGMのように、明かされる過去を追いかけていく。

「大丈夫ですよ〜ゆっくり飲んでくださいね」

 緑茶を一気に飲み干したマサヒロは、物足りなさげにクチビルを開け閉めする。心なしか、表情はやわらいでいるように見えた。

「……おかわり、いただいてきますね」

 グラスの底をのぞくと、乙顔は、マサヒロの肩にふれて立ち上がった。


「テイャッ……!」

 道着の袖が翻り、傷だらけの拳が退く。

 囮に気合を入れたのだろうが、目標を探す目の動きが丸分かりだ。

 相手の呼吸にあわせ、力を抜く。

「ハッ!」

 勝利の誘惑がニキビ面を、にやけさせた。

 引き絞った腕が真っ直ぐ、アゴへ向かう。決まれば、骨折くらいでは済まない、鍛錬の剛腕だ。

 だが、魂胆が見え見えだった。

「なっ……!」

 いっぱいまで拳を引き付けて、寸で顔を引く。風圧が生えはじめの青肌をなでた。

 相手の見開いた目と視線があう。

 敗北を悟った目だった。

「タァッ!」

 振り抜いた半身に、回転をかけた蹴りを叩き込む。やわらかい脇腹に食い込む嫌な感触が返った。

「そこまで!」

 審判の手が手旗のようにあがる。

 畳に突っ伏したうめき声が耳から離れなかった。


「タケぇ、まさかよけられるとは思わなかったぜ」

 脇腹をさすりながら、ジャージに着替えた仲間が肩に腕をかけてくる。

「トモユキはわかりやすいんだよ。無駄に声だして……さッ!」

 タケ、こと乙顔猛雄が抱擁を受け入れるように、トモユキの腕を取る。

 と、構えもなく、そのまま背負って投げ落とした。

「いでっ……! ちょ、おま、俺まだ負傷中……」

「しかたないなあ」

 地面にのびたトモユキへ手をのばす乙顔。

「かかったな!」

 乙顔を引き倒すために、トモユキが腕を取る。

 そこまではよかった。

 目論見通り、トモユキに強く引かれ、巨体がよろけた。

「……おわっ?!」

 だが、そこから、絞め技を決められるとは、トモユキも思っていなかっただろう。逆に足を取られてしまう。

「あまい!」

 ガッチリと固められ、アスファルトにへばりつくトモユキ。「アップっ……」と必死に地面を叩くトモユキを眺める乙顔の目は、少年のように輝いていた。

「おまえらっ! もう帰れ!」

 じゃれあう乙顔とトモユキに、道場の入り口から怒号が飛ぶ。

「やばいっ……!いくぞ、トモユキッ!」

 下駄を履いているとはおもえないスピードで走ってくるのは、道着にサングラスといういかにもな、道場主の姿だった。

 西日を反射する目から、なにかしらのビームを出しそうな勢いである。

「くっ……おまえの犠牲はムダにしないからな、トモユキ!」

 このままでは追いつかれると、乙顔が目測で素早く、結論付ける。

 そうして考えた作戦は、仲間を犠牲にすることだった。

「わっ……! た、タケ……」

 足払いされ、再びアスファルトに転がるトモユキ。

 トモユキを飛び越えるため、ジャンプした道場主も、下駄を門弟に突っかけて派手に転ぶ。

「「オトガオタケオォ!」」

 師範と弟子の恨みがましい声が、夕焼けに木霊していく。

 颯爽と逃げていく長い影が、楽しそうにゆれていた。


「……チエミさん?」

 テンポの良いフォームで腕を前後に振る乙顔が、通り過ぎかけ、速度をゆるめてから後戻りする。

 縁石しかない向かいの歩道で、両手にレジ袋を下げた女性が坂を上っていた。

 屈み腰のエプロン姿の歩みは遅い。

「そういやチエミさん、このまえ階段で転けたんだよな……」

 チエミは、乙顔の近所に独りで住んでいた。

 朝夕と、顔をあわせることもあって、乙顔とは良く話しもする。

 そんな彼女が自宅で転倒し、姿が見えないことから不審におもい、駐在といっしょに倒れているチエミを発見したのも乙顔だった。

 いまだ足を引きずるチエミのもとに、乙顔が小走りで駆け寄っていく。

「チエミさん、こんばんは」

「あらあ! タケオくん、稽古の帰り?」

 持ち前の穏やかな口調で声をかける乙顔。

 覆いかぶさるような影に、チエミは、驚くふうもなく、人の良さそうな笑顔を返す。

「はい、そうっす」

「エラいねえ。きょうも負けなしかしら?」

「あ~……まあ」

 坊主頭をかく乙顔。

 チエミには、乙顔の行動が言わずとも理解できるらしい。

「それ、おれが持ちます」

 照れ隠しがてら、乙顔がレジ袋へ手を伸ばす。

 チエミは、「ありがとうね、タケオ君。助かるわ」と言うと、素直に乙顔へ任せた。


「……そしたら、あのクソジジ……師範が追いかけてきたんすよ」

「そう?!」

 乙顔の逃走劇を、流行のアクション映画かのように「まあ!」とか「あらまあ」とリアクションしながら聞くチエミ。口がすべったが、クセで顔を叩く乙顔にもクスッと笑った。

 大根が5本ほど刺さったレジ袋ごと、そんな動作をする荷物持ちを、アクティブフェイスは、ほほえんで見上げる。

「そうなんすよ! ほんと、おそろしいったら、もう」

「わあ、お師匠さまって厳しいのね」

 目を夕日に照らしてチエミがうなずく。

 実際のところ、道場主は"厳しい"という範疇を超越しているのだが、乙顔は、あえて言わなかった。

「すごいんすよ、ホント」

 チエミの反応は少し、大げさだと乙顔もおもう。

 けれども、表情をコロコロ変えてくれる聴衆は、話すほうも楽しい。

 それでいて役に立てるのだから、荷物持ちを好きになるわけだ。

「チリンチリンッ……」

 並んで歩く乙顔とチエミのそばを、自転車のベルが流れていく。

 このあたりではいたってよくある、あいさつだ。

「……あっ」

 紺の制服に、ツバ付きの制帽をかぶった警官が"ベルのあいさつ"をするのも、珍しくない。

 ただ、一瞬目があった警官に、乙顔は見覚えがなかった。

 そして、乙顔の直感が、強い敵意を察する。

「どうしたの?」

「……駐在さんって変わりましたっけ?」

「うん、ついこのまえね。ほら、フミシゲさん、転勤っていってたでしょう?」

「そう、だっけ……」

 直接、警官の世話になることまではない乙顔も、お叱りなら、何度も経験済みだった。

 とても武官には見えない、温厚だが怒ると鬼のような元駐在。なんだかんだと世話になったことを思い出し、乙顔は、さみしく感じた。

 フミシゲ巡査部長は、人を見てくれではなく、素行で判断してくれた。厳つい柔道部員への偏見もない。乙顔には、ありがたいことだった。

 いつ転勤したのだろうと、乙顔が記憶をあさっていると、案の定、ブレーキの音が鳴る。

「ちょっと君」

 小走りで、後ろから二人に近づく警官。左胸の階級章は、金のラインが一本ずつある。巡査だ。

 舌打ちしたいのをこらえ、乙顔がだらしなく振り返る。

「ちっす。なんすか」

 乙顔としては、これでも愛想がいいつもりだった。目があうなり、疑惑の眼差しを投げるような人間に、丁寧さは不必要だ。

 だが、平均より体格の良い巡査が、見下ろしてくる凶悪な顔に声が険しくなる。

「……君、こちらのご家族?」

「は?」と出かけた乙顔の言葉を、そばのチエミが声を張り上げて遮った。

「こんばんは、マサヒロ巡査。この子は家の近くの……」

 小柄な背をのばし、乙顔の説明をするチエミ。巡査は聞いているようで、乙顔しか見ていない。

 チエミを見向きもしない時点で、乙顔のなかでは沸点が近づいていた。両手のレジ袋がミシミシと鳴る。

「え〜とりあえず、署まで来てもらいましょうか。で、君、名前は?」

 制服のポケットから手帳を取り出し、なにやら書き込むマサヒロ巡査。

「え? 巡査さん、この子は……」

「ご婦人、近ごろは若年の犯罪がふえていますからね。この場では言わなくていいですよ」

 ボールペンをカチカチ言わせ、事務的な口ぶりの巡査に、チエミが口をパクパクさせている。

 乙顔ひとりなら、赴任したての警官の相手くらい、言いくるめる自信はある。

 けれども、ここにはチエミがいる。

 不本意だが、チエミにこれ以上、迷惑をかけるわけにはいかない。

「わかりました。荷物だけ、チエミさん家に置いていくんで、すぐもどって……」

「ダメだ」

「……は?」

 いらだった声が今度ははっきり、顔に出る。

「君、逃げるつもりだろう。みえみえだ。それに、チエミさん、ですか。いっしょに来てもらいますよ」

 マサヒロ巡査が手帳を仕舞い、チエミに手をのばしてくる。

 その瞬間、乙顔の堪忍袋がはち切れた。

「交番まで1キロはあるぞ。あんた、チエミさんを歩かせるつもりかッ!?」

 露骨に眉をひそめるも、一応は、チエミの足へ目を向ける巡査。

 たしかにチエミは足を悪くしていたが、ギプスをしているわけではない。体の重心のかけ方をじっくり、見ていればわかることだが、巡査にそのようなつもりはなかった。

「君がケガさせたのか? だったら、おんぶして……」

 巡査の言葉は最後まで、乙顔の耳に届かなかった。

「ふざけんなよッ!」

 乙顔の咆哮が夕暮れの住宅地を駆けていく。レジ袋から飛び出す野菜にだれも気が回らない。はるか遠くで、カラスが鳴いた。

「ついてってやる、って言ってんじゃねぇか! まだ不満かよッ?」

 いくら血気が盛んでも、人へ殴りかかるほど、乙顔は自制心がないわけではない。

 だが、乙顔の迫力に、チエミは悲鳴を上げて、乙顔の手にしがみついた。

「タケオくん!」

 チエミの手はふるえていた。こわかったのだ。

 警官に呼び止められたことも、警官に面と向かってクレームをつける光景も、チエミにはただおそろしかった。

「チエミさん……」

 すがりつくチエミをまえに、乙顔の怒りもしぼんでいく。

「では……」

「来てもらおうか、タケオ君?」

 見計らったようなマサヒロ巡査の目は、夏とは真反対の色をしていた。


「……マサヒロさん?」

 冷えた緑茶を手に、軒下へもどってきた乙顔が立ち止まる。

 長椅子にはだれもいない。

 獅子ティーシャツの淑女もいないが、大ぶりな日傘は立てかけたままだ。

「どこに……?」

 マサヒロはそう遠くまでは行けない。存在はずっと感じていたから、だれかに連れ去られたのでもないだろう。マサヒロの意に反することなら、乙顔には気配ですぐにわかる。

 通りに出て見回す乙顔の耳に、聞き間違えようのない声が届いた。

「……まあ、そっちがええんですの? ええとおおもいますけど、ちょっと派手ちゃいます?」

 二十メートルほど、はなれた土産物屋の店先に、二人の人影があった。

 陽射しのもとで、残像が見えるほど早くハンカチをはためかせて、ああだこうだ意見を述べているアニマル柄の淑女と、回転棚でなにかを探すマサヒロだった。

「あの……」

 乙顔が駆け寄るや否や、ハンカチの淑女のほうが先に口を開いた。

「ああ、にぃちゃん、ごめんなあ。心配しはったやろ? ウチもマサさんもいないから、拉致られたとおもうたんやろう? まあ、ウチ、可憐やからなあ」

 愛おしげに自分を抱く淑女。そのヒタイには、ファンデーションの混じった汗が浮いている。

「ありがとうございます。マサヒロさんについてってくださったんですね。助かりました」

 頭を下げる乙顔に淑女が手をヒラヒラさせる。

「いやいや。マサさん、あいかわらず視力がええんでっしゃろな。急に走り出したとおもうたら……」

 言葉を切ってマサヒロのほうを指す。

 キーホルダーが多くならぶ陳列棚を、グルグルと回しながら、マサヒロが眉間を寄せている。

「マサヒロさん、お買い物ですか?」

 答えは返ってこない。

 いつものことだが、今日は買い物の予定はなかったはずだ。

 こんな暑い日に出かけると言って聞かないことも、普段のマサヒロには珍しいことである。

 棚へ近づく乙顔を、追い払うように淑女が遮る。

「にぃちゃんおったら、影でよう見えんやろう? ウチがマサさんの品定め手伝うから、にぃちゃん、ウチの傘とってきてくれん?」

「ですが……」

 食い下がろうとする乙顔。

 そのとき、淑女が周囲をチラチラ見ていることに気がつく。

 乙顔もまわりを見回して、理由を悟った。

 店の前にチラホラいた客はいつしか遠ざかり、立ち去り際、乙顔を振り返る者もいる。

 店の人とおぼしき人物も、乙顔たちのほうを怪訝な目で見ていた。あたかも、カツアゲかユスリに来た極道を目にしたような顔である。

「そう、か」

 皆、乙顔の巨体に、不信感を抱いているのだ。

 身長が2メートルを超え、般若顔負けのコワモテに、ほとんどの人間はネガティヴなイメージしかない。

 乙顔には、慣れすぎた顔だった。

 一段と深く、礼を言う乙顔。

「……わかりました。すぐもどりますね」

「あせらんでええで。ショッピングはウチの十八番やからなあ!……ああ、にぃちゃんにぃちゃん、その茶もろうてええ?」

「え、ああ、どうぞ」

 乙顔が休憩処からそのまま持って出た、生ぬるくなった緑茶を淑女が受け取る。

「にぃちゃんほどうまくないかもしれまへんけどな……」

 自分が飲むと思いきや、淑女がマサヒロにグラスを差し出す。だが、サングラス腰の食介は、お世辞に言っても、下手なことこの上ない。

 ボタボタとこぼれている。

「あ〜あ〜、マサさんすまへん。ウチ、ヘタやんなあ!」

 ケラケラと笑う淑女の言葉が澄んだ空にひろがっていった。


「チエミさん、ホントにすみませんでした」

 セミの鳴き声に、コオロギの愛唄が混じる。

 すっかり暗くなった交番のまえで、乙顔は、深々と頭を下げた。

「こちらこそごめんねえ。タケオ君の親切心にあまえたばっかりに」

 チエミも丸みをおびてきた背を丸めた。

「それに……」

 乙顔のそばに立つツナギの男にも、チエミは膝を揃えた。

「お父さんまで来ていただいて、わたし……」

 もう一度、腰を折ろうとしたチエミを、乙顔よりも素早く、ツナギの男が引き止める。

「いやぁいやぁ、ウチの倅が無礼だっただけのこと。チエミさんが気にするこたぁありません」

 男が腕組みをして頭を横にふる。言い方は硬いが、板のように伸びた背といい、LEDの元ではっきり見える、陽に灼けた顔といい、愚直な印象を受ける。

 乙顔の父親は、息子ほど体格はよくないが、土木系のベテランを絵に描いたようなガッチリした体をしている。

 あわてて駆けつけたわりに、作業靴ではなく、革靴を履いている。その上に、グレーのつなぎなのだから滑稽であるが、乙顔は、とても笑う気にはならなかった。

「え〜では、安濃チエミさん、ご自宅までお送りいたしますね」

 交番から低姿勢で歩み寄ってきたのは、新しい巡査部長だった。そのうしろでは、マサヒロ巡査が感情のわからない顔で立っている。手にはレジ袋を提げていた。

 乙顔が拳を握り締める。

「乙顔さんも、もうお帰りになってけっこうですから。ええ、ホンマ、失礼いたしました」

 ひょこひょこと制帽を取る巡査部長。

 乙顔の父親は、淡々とだが、丁寧にあいさつを返した。


 結局、この巡査部長のおかげで、乙顔は無罪放免となった。

 いくら説明しても、頑として聞き入れないマサヒロ巡査の尋問中に、巡回から帰ったのが、新しい巡査部長だった。

 乙顔の記憶にはないが、この卵のような頭をした巡査部長は昔、乙顔に会っているという。

 さらに、乙顔一家が誠実で、犯罪者とは縁遠いことも巡査部長は説明したが、チエミの自宅と乙顔の家を往復して実際に確認し、乙顔が感謝状を交付された交番の記録を見返してようやく、マサヒロ巡査は、乙顔を諦めることにしたのだった。

「……あいつ、納得してねぇな……いてっ」

 オートパトカーにチエミと乗り込む巡査をにらむ乙顔。

 その後頭部をヘルメットで容赦なく、ぶったたいたのは、父親だった。

「『あいつ』じゃぁないだろ。そんなんだと、またしょっ引かれるぞ、猛雄」

 痛みも相まって、乙顔は、頭をさすりながら父親に食らいついた。

「なんだよっ? おれはなんもしてないってのに……」

「そんなもんだよ」

 ヘルメットで今度は、不思議そうな乙顔の肘をコツンとやって、父親が息子を散策にさそった。

「猛雄、試合たぁちがう悔しさだろ?」

 懐から、時代遅れの紙タバコを取り出す父親。その手をひったくって、ツナギのポケットにある電子タバコを乙顔が差し出す。

「水じゃぁねぇか……こんなもん……」とボソボソ言いながらも、喫煙者は筒の先端を光らせた。

「おれ、なんもできんかった。それでチエミさんも巻き込んじまったし」

「あしたにでも、謝りに行っとけ」

 素直にうなずく息子をチラリと見て、父親は、白い煙を吐き出した。

「……強くなれ、猛雄」

「うん?」

 いつになく真面目な顔付きになる乙顔の父親。ゆっくり息を吐く姿が普段、めったと見ない。

 そんな父親の様子に、乙顔も背筋を伸ばす。

「……武道じゃぁないぞ。そっちは充分だとおもうがな。まあ、どっちかってぇいや、もっと勉強してほしいとこだが……」

 訓戒を垂れる雰囲気だったはずの父親が、いつしか息子の愚痴へと変わっている。緊迫感が台なしだ。

「なんの話だよ、おやじ。キメ台詞をいうとこじゃないのかよ」

 乙顔が指摘すると、スモーカーはなにごともなかったように咳払いをした。

「コホッ……あれだ、猛雄。中途半端な強さじゃ、できることに限度がある、ってはなしだ」

 スティック状の発煙筒をポケットに仕舞い、持ち主が立ち止まる。

 熱帯夜の温い風が二人の坊主頭をなでていった。

「まずは、ひとりでふんばれるくらい、強くなれ。そんでいつか、ふんばれない人が、しがみつける大樹になれ」

 数え切れないタコと傷で分厚くなった手が、坊主頭の後ろを叩く。

「それが、恩返しってもんだ」

 息子に背を向け、歩き始める父親。

 混色だからこそ、暗闇へあらがうような、灰色ツナギの背中が乙顔には、一段と大きくみえた。


「……ほんでなあ、ウチ、いらんていうたねんけどな、やっぱり断れんやん? 根ぇが優しいのが出たんやろね、ウチ」

 パラボラアンテナのような日傘の影で、タテガミの凛々しい獅子の顔がダイナマイトなボディにゆらめく。

 虫メガネ風のサングラスの下で、流暢に動くクチビルの一方、日除けレンズの元では、影を独り占めしないようにと、小刻みな配慮がなされている。

「それで、なにを買っちゃったですか?」

 隣の小柄な人影を気にしつつ、乙顔がゆったりした口調で尋ねた。

 太陽は南天を横切り、傾き始めている。

「そりゃ、秘密がな。レディの買いもんを聞くもんやないで」

 ガハガハと笑う淑女の手には、カンザシがレジ袋から覗いている。ふくれた袋を見るに、いろいろ買い込んだようだ。


 あれから、乙顔が土産物屋へ戻ったころには、マサヒロの品物選びは終わっていた。

 淑女が支払いまで済ませており、お代を尋ねる乙顔を「チンピラ撃退のお礼や!」と一蹴して、小ぶりな包みを自分のレジ袋を入れたのだった。


「ほな、ウチは、ここらで」

 巣鴨のアーケードが終わる手前で、淑女が足を止める。

 レジ袋から、ラッピングされた包みを取り出すと、淑女は素っ気なくマサヒロに握らせた。

「マサさん、ほいではこれを」

 そう言って、サングラスの奥でキラリと光るものを見た気がしたが、乙顔には定かではなかった。

「……ちゃんと、渡してくださいね」

 マサヒロへ、耳打ちするように身をかがめる淑女。

「あり……がと……」

 灰色の目は相変わらず、彷徨う蛍火のように振れ、一瞬、淑女と目が合ったように見えた。

「今日は、ありがとうございました。チエコさん。チエミさんにも、よろしくお伝えください」

「おおきに、おおきに! 姐さんにも言うとくわ。にぃちゃん"社長"もがんばりやあ!」

 殊勝に頭を下げる乙顔の、脇腹あたりを淑女が叩くと、チエコは持ち前の早口でまくしたてて、今度は、マサヒロの肩をトンッと叩いた。

「マサさんも、これで失礼します〜。あ〜暑い暑いわ~……帰ったらビール飲も」

 ユッサユッサと、体を揺らしながら去って行くチエコの背中を見送り、乙顔とマサヒロは、商店街の一角にある古い路地へと入っていった。


 ※  ※  ※


「うしろにいますからね〜」

 マサヒロの背中を触れてそっと押し、裏路地を進んでいく二人。

 昔ながらの通路には、ひと一人がやっと通れる幅しかない。なおさら乙顔は、肩をこすって進まなければならなかった。

 ふいに、ポロシャツが立ち止まる。

「た……お……」

 その手元がモゾモゾと動いていた。

「……どうかしました?」

 乙顔の位置からは、マサヒロの顔が見えない。覗き込もうにも、さすがの乙顔でも、背が足りなかった。

 そのとき、マサヒロが振り返った。おずおずと、乙顔を見上げてくる。

「……こ、これ……」

 しわがれたその手には、チエコに渡されたシンプルなラッピングが握られていた。

「ぼくにですか?」

 思わず、乙顔が尋ね返す。

 マサヒロに、プレゼントをもらうのは初めてのことだった。

「ん……たん、じょうび……」

 ラッピングに付いたシワを伸ばすマサヒロ。

 その口からは、プレゼントの意味が訥々ながらも、語られていた。

「マサヒロさん……」

 グローブのような手に収まる包みを見下ろし、乙顔がつぶやく。起伏の激しい顔が腑に落ちる。

 マサヒロは、乙顔のバースデイプレゼントを買うため、炎天下に出てきたのだった。

 なぜ、今年なのかは、乙顔にもわからない。マサヒロとは、もう長い付き合いになる。

 けれども、そんなことは、どうでもよかった。

 巨躯の中央で、一番大きな心臓が激しく脈打つ。

 チンピラをも撃退する顔の、涙腺がほどけていく。

「う……う……」

 微動だにしない乙顔の反応が気になるのか、マサヒロが口を開く。が、乙顔は気づかない。

 結局、コトコトと、マサヒロは進行方向に向き直り、また歩き出した。


「ただいま戻りました〜」

 引き戸を開け、乙顔が家の中に声を響かせた。

 玄関口の下駄箱のうえには、数多くのトロフィーがならんでいた。どれも、現役時代の警官を称えるものである。

「おかえりなさい、マサヒロさん、社長さん。暑かったでしょう」

 家の奥から、パタパタと足音を慣らして二人を出迎えたのは、エプロン姿のマサヒロの娘だ。

「暑いですね〜……あ、マサヒロさんゆっくり」

 履き替えるマサヒロを手伝う乙顔に、マサヒロの娘がそろそろと、頭を下げた。

「ほんと、いつもありがとうございます。父のためにここまでしていただいて」

「いえいえ。お仕事ですから」

 辞儀を返す乙顔。

 その穏やかな物腰からは、凶暴な顔つきを微塵も感じさせない。

「さっ、リビングに行きましょうか」

 マサヒロを誘い、家の中を進む乙顔。

「あら? タケオさん」

 肩を支える乙顔の手首に、マサヒロの娘の目が留まる。

「ブローチなんて、つけていらっしゃいましたっけ?」

「ああ、これは……」

 乙顔の大きな手がマサヒロの背中をゆっくり、さする。

「お世話になったかたからの、プレゼントです」


 (完)


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