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Whale Wails
Whale Wails
只野緋人/ウツユリン
現実世界現代ドラマ
2025年02月24日
公開日
1.5万字
完結済
シロナガスクジラは、季節になると南極海へ数千キロメートルの旅に出る。だが、南極海には人間がいて、毎年クジラたちを待ち構えている。かつて、ビッグ・ブルーと呼ばれた“海の守護者”は消息を絶って久しい。

母親を亡くした仔クジラ・ブルーは、大人たちを説得して独り旅に出発した。
道中、ブルーは老いたシロナガスクジラ・アルタリークと遭遇。話をするうち、アルタリークはだんだんおかしくなっていく。突然暴れまわる老クジラの尾ヒレが直撃し、ブルーは気を失ってしまう。

ビッグ・ブルーとは何か。
遥か南極海で待ち受ける運命に幼いシロナガスクジラは、選択を迫られるーーー。

Whale Wails

 ーーーハワイ・オアフ島沖、1,450kmの海の中。


 成獣の半分しかない体を暢気にローリングさせ、だらしなく拡げた胸鰭が水を搔く。

 周囲の目が痛いが、そこは若気の至りで気にしない。どのみち、たいして意味もない、遊びだからだ。

 真新しい陶磁色のヒゲ板を海面に向けながら、シロナガスクジラのブルーは、仲間たちに高周波の間延びした言葉で伝えた。

「クゥ〜(だいじょう〜ぶ)」

 けれども、甲高くほそいブルーの鳴き声へ重ねるように、一回り小さなクジラを取り囲む人生の先輩たちが、口々に高低の入り混じる声をあげた。

「クルゥ(小僧は気楽だな)」

「クゥ(ホントに大丈夫かしら)」

「クリィ(この子、南極までの距離をわかっていないんじゃないのか?」)」

「……クゥル(そんなことないよ……)」

 説得力が乏しいことを自覚して、ブルーの鳴き声が尻すぼみになっていく。


 自分より、何倍もある鰭を水中でゆったり動かす、年上の仲間たちの言うことがわからないでもない。

 彼・彼女らは、ブルーをからかっているのではなく、純粋にブルーを案じて言ってくれているのだ。単独行動が主なシロナガスクジラとて、同胞に無関心ではない。

「(みんな、僕ひとりなのが心配なのかな……)」

 グルグル回る、明るい海面と暗い海底をどことなく眺めて、ブルーは思う。

 ブルーはもう乳離れを済ませていたが、一頭ではるか南を目指すには、まだ幼かった。


 そして、導き、守ってくれるはずの母親は、もういない。

 ブルーの母親は、ブルーが乳離れするまで堪えていたかのように、息子がひとりでオキアミを捕えられるようになると、博識だった彼女はあっけなく、死んでしまった。

 父親のほうは、ブルーの記憶の遠い過去にしかない。


「ククル(ねぇ、ブルー)」

 やる気なさげに漂う子クジラに、ブルーのいる十頭ほどの集団の年長者で、もっとも大きな、26メートルもの体長をもつメスの一頭が、小舟ほどもある胸鰭をはためかせて、ブルーへやさしく語りかけた。

「ク〜クル〜(南極海までは、わたしたちでも何ヶ月もかかるのよ)」

 シロナガスクジラをはじめ、大型の海洋哺乳類たちは、豊富な食糧を求めて南へとわたってゆく。そこで、恋の季節を迎えるのだ。

 現存したどの生き物よりも、巨大で、ほとんど天敵のいない彼らにとって、この距離は長いハイキング程度のことでしかない。

 しかし、1万キロメートルを超える長旅が、散歩程度の易しさであるはずもなかった。

「ブッ(それに……)」

 年長者の鳴き声が、濁った汽笛のような低い音に変わる。シロナガスクジラが遠くへ意思を飛ばすときの声だ。

 ジェットエンジンをも凌ぐ大音量の唄は、ときに、800km離れた仲間のもとへと届く。仲間への警告の声だ。

「ク〜ブゥン(近ごろじゃ、どこに人間が出るかわからないし)」

 圧倒的な存在感を放ち、経験豊富な年長者のメスクジラだが、巨体には深い裂傷がいくつも刻まれている。

 人間について話すその深遠な目には、どこしれぬ恐怖が浮かんでいた。

「ブブーン(そうだっ……! あいつらはどこにでもいやがる)」

「ブォーンブン(いやぁっ……人間……こわい)」

「ヴォーン(仲間が毎年やられてる……)」

 年長者の言葉に同調して、他のクジラたちも次々、水中で身を捩らせる。

 どのクジラも、体には少なからず傷があるが、直接的な痕や抉られた穿孔が、自然のケガや、シャチなど、捕食者によるものではないことを示していた。

 シロナガスクジラたちがまとまって発した声は、共鳴し合い、不気味さを増して海域に広がり渡っていく。不協和音は、深海の生き物たちをも震え上がらせ、一帯は、クジラたち以外の存在を感じさせない。

 そんなとき、場違いなほど明るく甲高い声が、恐れの言葉たちを打ち消すかのように海中を貫いた。


「キュルー(僕はだいじょうぶ)」

 いつしか、ローリングを止めていたブルーが、仲間たちと向かい合う。

 集団で一番小さく、皆から子どものようにしか見られないオスのシロナガスクジラが、仲間たちに向かって力強く、胸鰭をはためかせた。

「キュリクゥ〜(僕はいちど、母さんと南極海まで行ったんだ。初めてじゃない)」

「フォ〜ン(そういや、おまえさんとは何年か前、会ったな)」

「キュ〜(うん、僕もおぼえてる)」

 クジラたちのなかで二番目に古老の、片目がピンク色をしている一頭が、懐かしむように低域の声を出す。記憶を探る各自のつぶやきで、不協和音は薄れていった。

 先輩たちの声が落ち着いてきたのを見計らい、ブルーが続ける。

「キュリィクル(母さんに、〈海の道〉を教えてもらったんだ。僕はそこをたどっていくつもりだよ)」

「フォンフォン(なるほど、〈海の道〉か……。ならば少しは安全かもしれんな)」

 〈海の道〉は、広大な海原に突如として発生する、特別な海流のことだ。

 非常に潮の流れが強く、〈海の道〉に乗ることができれば、南極海や遠い海域まで、あまり体力を消耗せずに泳ぎつくことができる。

 しかし、〈海の道〉がどこから始まるのか、シロナガスクジラにもほとんどわからない。わかることは、〈海の道〉が発生しやすい、大まかなポイントだけ。

 それも、必ず〈海の道〉に出逢えるとは限らない。

「フォ〜ン(よくみつけたものね……)」

 地球最大の生物であるシロナガスクジラにも、すべての〈海の道〉を知る者はいない。

 多くの〈道〉を見つけ、同胞らに伝えてまわったという、伝説のシロナガスクジラさえ、新たな〈道〉を求めて陸地へ向かったきり、戻ってはこなかったのだ。

「フォ〜ンクリ(お母さんは、素晴らしいものを遺してくれたのね)」

 最年長のメスクジラがヒレで水の流れをつくる。蒼く、とらえどころのない海水に渦が巻いた。

「クゥ(……うん)」

 懐かしい包み込まれるような感覚に、ブルーは一時、亡き母を想う。

 沈黙した彼を、仲間たちはただ、静かに見守った。

「ク〜(僕は……)」

 優しく、温かい昔の光景を、振り払うようにブルーが頭をゆらす。

 続くその声は、迷いがなかった。

「クル〜ク(僕は、ひとりで〈海の道〉を行く)」

 若きオスクジラの宣言に、押し黙る仲間たち。

 真っ先に口を開いたのは、ブルーを子ども扱いしていた、比較的、年若な一頭だった。

「クルクル(気をつけろよ、小僧)」

「クゥ(うん!)」


 ーーー南太平洋、クック諸島沖南西220km


 仲間たちと別れ、ひとり、〈海の道〉を南下するブルーの旅路は順調そのものだった。

 ブルーの決意を尊重し、仲間のクジラたちは、幼いこのオスクジラを温かく見送った。〈海の道〉をゆくと宣言したブルーの後を追うような者もいない。

 人生の先輩としての、彼らの誠意だった。


 〈海の道〉の始点が変わってはいないか、というブルーの心配も、杞憂だった。

 ブルーが海面に浮上して探すと、母親が教えてくれた目印の"イルカ岩"は、一年前とそっくり同じ位置にあった。死んだ珊瑚の堆積でできた、ちっぽけな島(クジラたちには岩にしか見えない)は、浸食によって、一回りほど小さくなっていたが、特徴的な形は変わらない。

 シロナガスクジラのエコーロケーションで知る島の形は、まさに海面から飛び出した瞬間のイルカそのもので、三日月型の尾鰭が宙に、しなやか弧を描いている。


 この尾鰭を、「目で見て確かめるように」とブルーに教えたのが、彼の母親だった。

 シロナガスクジラのエコーロケーションは、他の海洋哺乳類に比べて精度が低い。視力も、決して良いとはいえないものの、両方をあわせることでより、正確に知ることができる。

 自然で生きるためには、母親が教えてくれたこのような工夫が欠かせない。


 けれども、生きるための知恵を、余すところなく教えてくれた母は、もういない。

 岩のこと、〈海の道〉のこと、南極海のこと。一年前は、そんな話をしながら通った"イルカ岩"を、今年はブルーがひとりでゆく。

 悲しみの海へ沈みそうになるのをグッと、堪えてブルーは、"イルカ岩"の近くから流れ始めた〈海の道〉へと、尾鰭を力強く動かしたのだった。


 〈海の道〉がシロナガスクジラにとって貴重なのは、海流が大きく、流れも強いからである。速い潮流は、すでに3トンもの体重をもつブルーを悠々と運ぶには、ちょうど良い。

 しかし、他の生き物たちにとっては、そうでもない。

「(あっ、コバンザメ……)」

 尾鰭の調節だけで、楽々、進んでいくブルーの傍を、荒潮に巻き込まれた、鰯のようなコバンザメが飛ばされていく。シロナガスクジラのブルーを見て、おこぼれにあずかれると思ったのかもしれないが、あいにく、ブルーが最後にオキアミの群れを吞みこんだのは、昨日のこと。

 苦労して、〈海の道〉に乗ったのだろうが、その体でクジラの道をゆくのは厳しかったようだ。

「クゥ(だいぶ泳いできたけど……)」

 あっという間に、姿の見えなくなったコバンザメの身を案じつつ、ブルーが周囲へ、様子を調べる声を出す。

 〈海の道〉に乗って以来、ニュージーランド沖で、ひとりのブルーをからかいに近寄ってきたバンドウイルカの群れが、ブルーがまともに話した唯一の生き物だった。泳ぎが上手な彼らでさえ、〈道〉へ乗ってはきても、長居はできずにすぐ、降りていく。

 それからのブルーの旅路は、本当のひとり旅だった。

「クゥン(……しずかだなあ)」

 深い蒼がどこまでも続き、ブルーを包む。

 海中には、他にも多くの生き物たちがいるものの、意思の疎通は難しい。

 ブルーが目いっぱい、咆えさえすれば、遠くの仲間たちを呼ぶことはできるかもしれない。

 けれども、"海をふるわす唄"を緊急時でもないのに唄うのは、シロナガスクジラのモラルに反するし、第一、「ひとりで行く」と啖呵を切った手前、ブルーはまだ、あきらめたくなかった。

 そんなとき、ブルーの耳が低周波をとらえた。


「ボォゥン(……だれか……おるのか……?)」

 壊れた汽笛のような音。

 ひどく擦れ、言葉を聞き取るにも一苦労だったが、疑いなく、シロナガスクジラの鳴き声だ。

「(近いな。どこにいるんだろう……)」

 音の反響から、声の主が近くにいるとわかったブルーは、少しだけ迷いながらも返事を伝える。

「クゥ〜(えぇっと、僕はブルー。〈海の道〉を通って南極海に向かっています)」

「ボォンボン(そうか……すこし……手伝っては、くれんかのぅ……)」

 今度の声は、先よりも近い。

 ブルーが目を凝らすと、〈海の道〉からそう遠くないところに、横長の影が見えた。

 影の大きさからすると、大人の、しかもオスのシロナガスクジラのようだ。この距離からでも、ブルーの数倍はある体が存在感を発している。幅広の黒々とした頭部は、はるか深海の色を思わせた。

 成長したシロナガスクジラを困らせるものなど、この海にはそうそういない。ならば人間のしわざ、と恐ろしい考えがブルーの思考を横切る。

 けれども、ブルーがどれだけエコーロケーションで確かめても、付近に船の影は見あたらなかった。

「キュィ(ケガ、してるんですか……)」

「ボォゥンボォゥン(はははっ!)」

 おそるおそる尋ねたブルーに、オスクジラの豪快な笑いが答える。

 "海をふるわす唄"に匹敵するほどの、迫力満点の笑いっぷりだ。

「キュッ(わわっ……!)」

 オスクジラのあまりの威力に、ブルーは驚いて思わずビクッと、体をふるわせる。

 遠くのクジラたちにも伝わりそうな低い咆哮だが、意外にも、オスクジラの鳴き声に危機感や悲壮感はまったく感じなかった。

 楽しくて仕方ない、といったようすである。

「ボゥン(すまん、すまん。同胞らと話すのは久方ぶりでのぅ)」

 オスクジラの言葉を裏付けるように、その声がだんだんと明瞭になってきた。

 ブルーへ話しかけてきたときに、擦れていたのは、だれかと話すのが本当に久しぶりだったのだろう。

 そのクジラは動かずに、流れてゆくか、留まるか、迷うブルーへもう一度、頼み込んだ。

「ブォン(わしはもう流れには乗れんが、若いおまえさんなら、まだだいじょうぶじゃろう……)」

「ブンゥ(少しでよい。旅の邪魔はせん。じゃから、年寄りの話し相手になっとくれんか?)」

 オスクジラの言う通り、〈海の道〉を降りるのは簡単だが、再び乗るには、体力とコツが必要だ。老いたクジラに、〈道〉での旅はむずかしいのかもしれない。

 しかしブルーは、その両方を持ち合わせている。

 若く、力があって、〈道〉を外れたときのために、母親と何度も〈海の道〉へ途中から乗り込む練習をした。

 わずかばかり悩んでから、ブルーは胸鰭で方向を変え、速度を落とし、尾鰭を素早く振った。

「キュイン(いま、いきます)」


「ボォ〜ン(わしは、アルナース・アラディン・ワジャドゥ・アルタリークじゃ。おまえさんは……ええと)」

「ククゥ(僕はブルーです、アルナー……アラ……えっと……)」

「ブゥン(ははっ! 律儀じゃの。わしの名前はいろいろとあるんじゃが……まあなんだ、アルタリークとでも呼んどくれ)」

 二頭のクジラが高低差のある鳴き声を交わす。バスとアルトが重なり、不思議な調和が海へ拡がっていく。

 頭を響かす大音量の低声にビクビクしながらも、ブルーは、〈海の道〉を降りてから、アルタリークに寄り添って、その話を聞いていた。


 近くで見るアルタリークは、ブルーの見立てよりもずっと大きかった。

 灰青色の体はくすんで、あちこちに形がさまざまな傷がある。淡い青の腹部も、皮膚が捩れ、ところどころ黒ずんでいた。横に突き出ているはずの胸鰭は、付け根から先が無い。

 ギザギザした断面は、シャチに食いちぎられた痕だ。

 片側しか見えないが、ギョロリと回るアルタリークの目は少し、濁っている。アルタリークは、かなり年を取ったクジラのようだった。

「クルク(アルタリークさんも、南極海へ向かっているんですか?)」

「ボォン(南は敵も多いが、オスの腕の見せどころじゃわ! わしはのう……ほっほ。忘れてしもうたわい)」

 小刻みな低音を鳴らして老クジラが笑う。相変わらず、愉快な声だ。

「(変だなぁ……)」

 先から、オキアミがヒゲ板の間から擦り抜けていくように、会話の微妙に噛み合わない。

 歳のせいかもしれないが、アルタリークの長い名前を聞くのは、これで三度目だった。

「ボゥンボォ(ブルーといったかのう。おまえさん、おっかさんはどうした?)」

 急に話題を変えたアルタリークは、思い出したように尋ねた。

「クルゥクル(……いません。一年前に亡くなりました)」

 アルタリークの問いかけに、ブルーが躊躇って答える。

 母親の話をするのは、今でも胸がジーンとした。

「ボォゥ(そうか……つらいのう)」

 ため息をつくように汽笛を鳴らすアルタリーク。淡々としたその返事に、おもしろがるような響きはない。

 長いときを生き、多くの物事を見てきた者にしかない静寂が、ブルーを包む。

 見えているのかいないのか、わからないアルタリークの目が、近くと遠くを往き来した。

「ク〜ン(僕の母さんは……人間に殺されたんです)」

「ボォン(鉄の槍か?)」

「クゥン(いえ……)」

「クゥ〜ン(人間の作った、カラフルな……)」

「ボウン(プラスチックじゃな)」

 ブルーの言葉を自然に引き取る老クジラ。

「クゥ(はい)」

 母親の死因となった物の名前を、口にすることにまだ、ブルーは慣れていない。

 アルタリークの心づくしは、ありがたかった。

「クォン(オキアミが少なかったときに、母さんが飲みこんでたんです。『すこしは腹の足しになる』って……。僕にはとても、食べ物には見えなかったんだけど……)」

 思い返すブルーの鳴き声にも、悔しさが混じる。

「クゥン(そこからだんだん、オキアミがいても、プ……プラスチックを食べるようになってしまったんです)」

「ボ〜ン(や、やみつきにな、なってしもうたんじゃな)」

 アルタリークが妙に納得したようすでうなずく。

 どこか呂律が回っていないが、母親の苦痛を言い当てた老クジラに、ブルーはハッと顔をあげた。

「クゥン(……わかるんですかっ!)」

 プラスチックを食べるクジラなど、そうはいない。

 年々、増え続け、海を漂うカラフルな破片が毒であると皆、わかっているからだ。


 人間が生み出した"それ"を食べた者は、すべてがおかしくなってしまう。

 理性が崩れ、仲間たちとも言葉が通じなくなり、やがて発狂し、暴れてはパッタリと死んでいく。

 プラスチックを食べた、と言おうものなら、仲間たちに白い目で見られるか、距離を置かれるのが関の山だった。

 だからブルーも、母親のことを話すときは、その話題を口にしないようにしている。

「ボゥ(わ、わかっるとも!)」

 ビクッと、体を震わせると、アルタリークが奇妙なトーンでしゃべり出した。

 あちこちの鰭がピクピクと動き、巨大な目玉は焦点が定まらない。

「クゥ(……アルタリークさん?)」

 様子のおかしいアルタリークに、ブルーが声をかけるが、老クジラの言葉はますます増えていく。

「ボゥボォ〜ン(ほ、北米のプラ、プラスチはは……硬いが、に、西に流れて、ていいくうちにや……柔らかくくなるんじゃじゃ……アフリカのしゅ、周辺はす、少ないのぉう……ゆ、ユーラシアのがわわ、わしのお、お気に入りじゃ……)」

 アルタリークの異変にブルーが薄ら寒さを感じる。

 似た光景を以前にも、ブルーは目にしたことがあった。

「(まさか、アルタリークさんも……?!)」

 老クジラからジリジリ、距離を取るブルー。

 逃げ出したかったが、孤独な老いた同胞を見捨てるようで、ヒレが思うとおりに動かない。

「ボゥボゥ……」

 今や、アルタリークの言葉は完全に意味を成さなくなり、鼓動のような低い鳴き声だけが不気味に続く。無数の傷が覆う紺鼠の体は、ヒクヒクと、極大の幼虫のように波打った。

 その巨体の痙攣が突然、ピタリと止んだ。

 死んだように動かない老クジラへ、ブルーがおそるおそる近づいていく。

「クゥ(アルタリークさん?)」

 その途端、ブルーの聴覚を、呼吸すらも止める銅鑼のような音がつんざいた。

「ゴォ〜ン」

 カッと目を見開き、老齢とは思えない俊敏さで、アルタリークが身を捩らせる。

 ブルーの体ほどもある尾鰭が、激しい水流を作りだしながら、ブルー目がけ、海中を一閃した。

「クンッ」

 アルタリークの声でフラフラしていたブルーに、避けられるはずもなく、成獣の鰭をまともに食らう。

 ブルーは、意識を失って小魚のように飛ばされていった。


 子クジラのことも、もはや自分のことさえも見失った老練なシロナガスクジラは、ただ本能のまま、光のあるほうを目指して、ひときわ、並外れた咆哮をあげた。

「ゴォォン」

 そこから一気に海面まで昇り、海鳥に飛び立つ暇も与えず、アルタリークがその堂々たる体を太陽の元に晒す。

 老クジラのブリーチングは、高々と波しぶきをあげ、はるか遠くまで、その波を伝わせた。

 まるで、自分をこのようにした犯人たちへ、怒りをぶつけるかのようだった。


 力尽き、深く沈んでゆくアルタリークは、すでに息絶えていた。

 幾億のオキアミをすくい取ってきたヒゲ板は、痩せ細り、多くが欠け落ちている。

 開いた口腔からは、ケバケバしい色をした歯ブラシ、レジ袋、缶、その他の破片が溢れだしていく。


 ゆっくり、ローリングするアルタリークの半身が海面を向いた。

 老クジラの片方の目は、真紅に染まっていた。


 ーーーウェッデル海、南極点より約2,000km


「ブゥン(……目を覚ましたぞ!)」

 興奮気味なクジラの鳴き声に、ブルーが目をしばたたかせる。

「クォ〜ン(ブルー、だいじょうぶ?)」

 今度は、落ち着いた声がブルーを気づかった。

 ブルーの出発前、仲間たちの集団にいた最年長のメスの声だ。

「クゥ(ここは……?)」

「ブォン(小僧! なにを寝ぼけてる? 南極海に決まっているじゃないかっ!)」

 小馬鹿にした話し方をするのは、いつもブルーを子供扱いしていた、若いオスの声だ。

 その声でようやく、ブルーは仲間たちに囲まれていることに気づく。

「クゥ〜ン(あれっ? みんな……。僕はたしか……)」

 すっきりしないブルーの頭に、それまでの記憶が激流のようによみがえる。


 仲間たちと別れ、ひとり、南極海へ向かっていたこと。

 母親が教えてくれた〈海の道〉を見つけたこと。

 途中、長い名前の老いたクジラに母親のことを話した。

 そして老いたクジラが突然、おかしくなってしまったこと。


「クゥ(アルタリークさんっ!)」

 鋭く鳴いて、胸鰭を羽ばたかすブルー。

 それで、泳ぎに加速を付けられるはずだが、なぜだか今は、斜めに進んでいく。

「ク〜ン(……あれ?)」

 ブルーが体の違和感に戸惑っていると、最年長のメスクジラが、重い口を開いた。

「フォ〜ン(あまり無理をしないほうがいいわ、ブルー。あなたのヒレ……)」

「(ヒレ……?)」

 片方の胸鰭が動かすと、鈍く痛む。それほどひどくはないが、力が入れられない。

「クゥン(……僕の胸鰭、どうなってるの?)」

 クジラの胸鰭は、クジラ自身には見えない。

 泳ぎに欠かせない大切な体の一部の異変が、ブルーの不安をかきたてる。

「ブゥオン(ハハッ! そう心配するなって。折れてるだけだ!)」

 そんな子クジラを、若いオスの甲高い声が笑い飛ばした。

「クゥ(ホント……?)」

「フォンフォンフ〜(ブルー、氷山にぶつかるところだったあなたを見つけたのは、彼なのよ?)」

 疑うブルーを、年長者のメスが諭すように鳴く。

「フォンクゥ(わたしたちは、あなたを見送ってから各々、出発したわ)」

「フォ〜ン(……クック・アイランドのあたりで"唄"が聞こえたから、みんな、集まって急いだの。そしたら、あなたを見つけて……。呼んでも返事がなかったから、心配したわ)」

 "海をふるわす唄"は、クジラたちの警告音だ。音が大きいほど、切迫していることを示す。

 仲間たちが気にするのは当然だった。

 メスの長老が鳴き声を低くする。

「フォォ〜ン(ねぇ、ブルー? "唄"の内容はよく聞き取れなかったんだけど、あなたは?)」

 ブルーを囲んだシロナガスクジラたちが静かに海中を漂う。


 付近に集まっているのは、ブルーの仲間たちだけではなかった。

 ミンククジラ、マッコウクジラたちに、獰猛なシャチたち、日和見なイルカまで、数え切れない海棲哺乳類たちが、南極大陸の尾ヒレの先、ウェッデル海へ集結していた。

 種は異なっても、皆、エコーロケーションで"唄"を聞いてきたのだろう。

 ブルーたちから離れたところで、気にするようにそれぞれがヒレを動かしていた。


「クゥ(あれは……アルタリークさんだと思う)」

 注目を感じながら、ブルーはぽつぽつと、旅の途中で出会った老クジラのことを、話し始めた。

 迷ったすえに、母親のことも、プラスチックのことも、ブルーは包み隠さずに打ち明けた。

「クゥクゥ(……プラスチックはこわいです。あんなに長生きのアルタリークさんも、僕の母さんも、プラスチックにやられました。でも、一番こわいのは……ひとりになることです)」

 小さなシロナガスクジラの訴えを遮る生きものはいない。

 静まり返った海にただ、ブルーの鳴き声が響き渡る。

「クゥクゥ〜ン(プラスチックを食べると、自分ではやめられません。食べていることにも気づきません。そうやってだんだん、おかしくなっていくんです。でも、だれか、『やめようよ』って言ってくれれば……僕がそう言えば、母さんは死ななかったかもしれない)」

「クゥイ〜ン(だからみんな……仲間をひとりにしないでください)」

 ブルーの高周波が、南極海に集まった生きものたちに広がっていく。

 ここにいる生きものたちは、少なからず、プラスチックの脅威を感じたことがあるはずだった。


「シュッ……」

 突然、水を切る音がして、ブルーは目に鋭い痛みを感じた。

 瞼の上のあたりが一瞬、冷たくなり、すぐにジーンと痛みが増していく。

 だんだんと、ブルーの視界は赤いモヤに覆われていった。

「キィ!(ブルー!)」

「カチカチ!(人間だっ!)」

 仲間の一頭が悲鳴をあげ、異変に気づいたイルカたちが、たたましく叫けんだ。

 それから蜘蛛の子を散らして逃げていく。

 イルカたちを皮切りに、他の生きものたちも、その場から逃げようとあわててヒレを動かした。

「(にん、げん……?)」

 ブルーにはまだ、状況が飲み込めていなかった。

 ただ、赤く染まっていく世界の片側がくぐもって、自分の激しい鼓動しか聞こえない。

 ブルーが人間に出くわしたのは、初めてのことだった。

 〈船〉という人間が使う鉄の道具も、彼らが落とすおそろしい〈鉄の槍〉も、ブルーは話にしか聞いたことがない。


「ブォ〜ン」

 そのとき、すぐ近くで、聞き慣れた低い声がした。苦しさと、痛みで鳴き声は言葉になっていない。

 ブルーが振り返ると、彼の目の前で、年長者のメスクジラの背中がさらに血を吹いた。

 広い背に、不気味なほどまっすぐな、槍がもう一本、突き刺さるところだった。


 †  †  †

「引き揚げるぞぉ!」

 舳先から身を乗り出した屈曲な男が、吹きすさぶ南極の風に負けない声で、腕を突き上げる。

 男の声を合図に、空を刺す赤サビのウィンチが唸りをあげた。

「距離を取ってっ! スクリューがあたるわ!……クジラ以外には銛を当てるんじゃないよ!」

 慌ただしい甲板を、ヘルメットの女がしっかりした足取りで行き来する。

 往来の激しい船の上を悠々と歩きながら、彼女は、救命胴衣の肩ベルトに固定した無線機へ、首を傾け、指示を飛ばした。そのたび、フードに隠れた瑠璃色の、クジラをかたどったイヤーカフが覗く。

 彼女の薄汚れたヘルメットには、組織の略称がアルファベットとロゴで記され、色褪せたビリジアンのパーカーの背には、『国際鯨類調査団』の武骨な文字が、ほっそりした二の腕には、目立つカーキー色の腕章が巻かれている。

「団長!」

 風でめくれるフードを押さえつけ、同じ、黄緑をしたパーカーの男が駆け寄ってきた。

 男の二の腕には、団長とは異なる色の腕章が、ビニールの光沢を出していた。

「キャッチャーボート三号がデカいやつに当てたらしくて……シロナガのメスだそうです」

 男が息を切らして指示を仰ぐ。

 男の平たい顔や、防寒着の上に巻いたシアンの前掛けには、点々と赤い染みが散り、寒さと作業のせいからか、赤ら顔の目は爛々と明るい。

「……青き勇魚(いさな)、か」と、独り言ちる団長の表情は冴えない。

 彼女がつぶやいた古い呼び名は、たちまち、寒風にさらわれていく。

「"ビッグ・ブルー"かと思ったんですがねぇ」、そう歯ぎしりする男を、団長が横目で制する。

「銛長(もりおさ)、生態調査の目的もお忘れなく」

「……はいよ、リーダーさん」

 肩をすくめた銛長に、団長は船の前方へ目を移した。

「さっきのシロナガは、もう引き揚げにかかってます。デカすぎるんで、このまま曳いて……」

「いいえ。投棄してください」

 右舷を指さす男を遮り、捕鯨船団の長が淡々と命じた。

「えっ? いやぁでも、あんな大物はめったに……」

「寄港まで6週間もあります。それに、鯨研では収容しきれません、銛長。……ほかの捕獲数はどうですか?」

「まあ順調ですな。やつら、集まってたんで簡単でしたよ」

「……そう」

 それっきり、口を閉ざす団長。

 彼女との押し問答は時間のムダだと、国から商業目的に派遣された男は、南極海までの道中、嫌というほど経験した。

 それに、男の目的はもう達成されかけている。海の上で不要ないざこざはいらなかった。

「銛長!」

 団長に背を向けた男を、肌を刺す風のような声が呼び止めた。

 有無を言わせない呼びかけに、エプロン姿が気怠く振り返る。

「魚影の監視には、くれぐれも注意してください。私たちは"彼"の海域にいるのです」

「はいぃ! わかってますよ!」

 銛長は親指を立てると、船尾へ肩を揺らしていった。


 銛長の真反対へと、歩き出した団長の無線機からは、次々に、捕獲したクジラの頭数や種などの報告が上がってくる。レシーバーからは、喜ぶクルーたちの声も聞こえた。

 スイッチに指を置いて、ノイズととともに無線を切る。

「ふう……」

 船首に立って、じっと耳を澄ますと、荒々しい器械の音と人の声の底から、唄が聞こえた。美しい唄だが、耳を覆いたくほどに物悲しくもあった。

 唄を前に、大船団の責任者は、冷風の真っ只中で動こうとしない。

 代わりにきつく腕を組み、片手は、地位を示したアームバンドを強く握りしめた。石油由来の化学製品が、その形を歪ませる。

 フードから覗く温和な碧眼は、彼女が率いる船団の"刃"に、まっすぐ向いていた。

 それらが成すことから、自分だけは、目を逸らしてはならないように、とばかりに。

 †  †  †


 無差別に、鉄の槍が水面を穿つ。

 そのたび、蒼い海に血潮が拡がっていく。

 凍らない水が血管を縮ませ、塩水は容赦なく、傷に染みこんでいく。


「クィッ!」

 ブルーの鳴き声は、傷の痛みよりも、目の前が暗くなるような恐ろしい光景からだった。

「ボォ〜ゥン」

 悲痛な声でもがく群れの年長者が、不自然なほど水平に、浮き上がっていく。まるで、海面をうめる影そのものが槍となって、彼女を無理やり、引きずっていくようだった。

 全身に鉄の槍を打たれ、とめどなくあふれる血が、灰青の肌を一瞬だけ色づけて海に溶け込んでいく。

 鋭くない嗅覚のブルーにもわかるくらい、あたりには、血なまぐさい臭いが漂った。

「クィィ(そんなっ……)」

 槍はまだ、降り続く。

 ミンククジラや他のクジラたちが、鉄の槍に貫かれ、逃れようと身悶えする。

 だが、人間の作った物は、びくともしない。

 もがくほどに槍は深く、体を抉っていく。

 そのうち、クジラが力尽きると、見計らったようにするすると海面へ引きあげられていった。人間に捕まったクジラたちがどうなるのか、ブルーには見当もつかなかった。

 けれども、彼らが決して帰ってはこないと、ブルーにはわかる。

 今、なにもしなければ、ブルーの母親のように、二度と、会えはしない。

「グゥ(ダメっ……!)」

 尾ヒレをうならせると、ブルーは、一直線に仲間に向かっていった。海面まで、あと少ししかない。

 泳ぎだすと目元の傷がすぐに開いた。海水が染みて、目がチカチカするくらい痛い。

 自由に動かせない胸鰭も、脈打つように疼いた。

 けれども、ブルーは止まらない。槍へ向かって、ブルーが、槍のように突っ込む。

「ボォ〜(ブルー……来てはだめ)」

 弱々しい声で彼女が引き止める。そのまぶたは閉じかけていた。

 槍さえ抜ければ、彼女は自由になるはずだ。

「クィ……」

 太いワイヤーが皮膚に食い込む。ひんやりした感触は、ぞっとするほど冷たい。

 それでもブルーが力を弱めずに押し続けると、一本、鉄の槍がするりと取れた。ブルーの体当たりで、ついに槍が外れたのだ。

「クィ(やったぁっ!)」

 獲物に逃げられたとわかったのか、他に刺さっていた槍も、すごすごと引き上げていく。

「ククゥ(うっ……見えない……)」

 だが、喜んだのも束の間、濃厚な"紅"がムッと、ブルーの顔を覆った。

 槍の抜けた傷から、間欠泉のように血が吹き出していた。

 その量の多さに、ブルーの視界も嗅覚も、エコーロケーションさえ、麻痺する。


 新たに飛んできた槍に、ブルーは、まったく気がつかない。


「キィゥ(ブルー……上っ……!)」

 横向きに沈んでいく年長者のメスクジラからは、水面を突き破る槍の一群がよく見えた。最後の力を振り絞って彼女がブルーに警告する。

 ブルーはまだ、まとわりつく血潮に気を取られている。年長者の声が他のクジラたちの鳴き声に混じって、よく聞こえない。

「クィ!」

 子クジラがハッとしたときには、数本の槍が、ブルーの真正面にあった。


 水中で不気味にギラギラ光る槍。

 その先端は返しが付いて、捕食者の牙のように鋭い。

 どんなシャチやサメの牙よりも、鉄色の槍は、不気味で恐ろしかった。


「クィッ……」

 目をつぶったブルーだが、いつまで経っても痛みはやってこない。

 まぶた越しに暗い影が見えるだけだ。

「コォ〜ン(ブルー、だいじょうぶか?)」

 成獣の澄んだ低い声に呼ばれ、ブルーが目を開く。

 そこにもう、槍は一本もなかった。

 あるのは、黒鋼の紋様と、灰青の肌に埋もれるような巨大な目玉。浅瀬のような蒼い目がブルーをまっすぐ、見つめてときどき、クルクルとまわりをうかがう。

 どこか、ブルーに似た目だった。

「クルクルゥ(……あっ!)」

 ブルーが驚いたのは、その体の大きさだった。

 黒鋼の縞模様はどこまでも続き、尾ヒレの先までも見えない。ブルーが縦にすっぽり入る、嵩のある体躯の腹側では、大人のシャチと同じくらい優雅な胸鰭がはためいている。

 ブルーの目の前にいたのは、全長50メートルはあろうかという、並外れてたくましいオスのシロナガスクジラだった。

「クィ(血が……!)」

 突然現れた魁偉な同種に、半ば放心していたブルー。だが、ハッとしてオスクジラの傷に気づく。槍が擦ったらしい傷からは鮮血が流れている。

 それはブルーを庇って、槍の盾になったときにできた傷だった。

「コォン(心配するな。かすり傷だよ)」

 あわてるブルーを、極大のクジラが穏やかになだめる。

 子どもをあやすようなその鳴き声は、独特な透明感のある音色をしていて、他のクジラたちとは明らかに異なっていた。

「クリィ(あなたは……)」

 古い記憶がこんこんと湧き上がり、ブルーが剛健なシロナガスクジラへ詰め寄る。

 だが、鉄の槍をものともしなかった彼は、胸鰭を素早く動かすと、たちまち離れてゆく。

「コォゥ〜ン(しばらく来なかったら、これだよ。人間ってのはせっかちなもんだ)」

 ブルーが泳ぐと数日はかかりそうな距離を、オスクジラはのんびり鳴きながら、あっという間に回遊してみせる。

 途中、他の生きものたちにも声をかけ、数は減ってもまだ降り注ぐ鉄の槍をその体で受け止めていく。よく見れば、オスクジラの縞模様は、無数の塞がった傷痕でできている。こうやって何度も、鉄の槍に立ちはだかってきたに違いない。

 "ビッグ・ブルー"というささやきが海域のあちらこちらから聞こえ、雨のように降り注いだ鉄の槍も、やがて、ぴたりと止まった。

 だが、そのどれも、ブルーの耳には入らない。


 しなやかに体をくねらせ、だれも傷つけることなく、堂々と泳ぎ回る"ビッグ・ブルー"の姿に、ブルーはただ、目を奪われていた。

 彼の泳ぎは、それ自体が〈海の道〉のように力強く、仲間たちを守る姿は、ブルーの心に新しい目標を芽生えさせた。

「コゥ〜ン(ブルー……)」

 尾ヒレの一振りでブルーの傍まで戻ると、"ビッグ・ブルー"が体をローリングさせる。それだけで、体に残った鉄の槍が、容易く取れていく。槍はそのまま、暗く冷たい海底へと沈んでいった。

「コゥン(……ひとりは孤独だよ。おまえも家族を作って強く生きろ)」

 透き通ったあの低い声でブルーにそう言うと、"ビッグ・ブルー"は、すべての鰭で海を掻いた。

「クゥ(うっ……)」

 "ビッグ・ブルー"のひと掻きは、潮の流れを作り、ブルーを直撃する。

 けれども、〈海の道〉を辿ってここまでやってきた、胸鰭の折れた若いクジラは動じない。

 そして、彼が見上げた海面には、大陸のような、水紋が拡がっていた。

「キュル〜(あれって……伝説のビッグブルー?)」

 聞き慣れない鳴き声に、ブルーが振り返る。

 すぐ傍には、知らないシロナガスクジラが一頭、ブルーと並ぶように浮かんでいた。

 彼女も、同じように海面を見上げ、それから視線を落とした。

 タンポポ色の目が蒼い目と合う。

「クルゥ(彼は……僕の父だ)」

 ブルーの告白に、彼女はなにも言わない。

 ただブルーを見つめ、それから巨体の去っていった方向をブルーと一緒に眺めた。


 "ビッグ・ブルー"の姿はもう見えなかった。

 ウェッデル海は平穏を取り戻し、生きものたちがそれぞれの営みを続けている。

 平穏である限り、海の守護者に再び会える日は、訪れないかもしれない。


 それでいい、と彼の子は思う。

 なぜなら、彼の子もまた、それを願っているからだ。

 けれども、もう一度だけ、会えたなら……


「キュィ(またあえるわ、お父さんに……きっと)」

 ブルーの心を見透かしたように力強く断言する彼女。

 名前も知らない彼女が言った言葉は、不思議と、現実になりそうな予感がした。

 ブルーは、久しかった温かい幸せを感じて、小さく笑う。

「キュッ(……なによ? おかしい?)」

「クゥ〜ン(いいや……おなかがすいただけだよ)」

 二頭の若いオスとメスのシロナガスクジラが、寄り添って、ウェッデル海に消えていく。

 二頭の唄声は、いつまでも楽しげに海をわたっていった。


 (完)


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