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先達の極意
先達の極意
只野緋人/ウツユリン
現実世界現代ドラマ
2025年02月24日
公開日
5.4万字
完結済
敬老の日、調理師を目指す雄桜(たけお)は従姉の雪江(ゆきえ)と祖父母の家へ。
道中、過去の祖父母の“武勇伝”で盛り上げる二人だが、それぞれの心には葛藤を抱えているのだったーーー。

先達の極意

 とある1Kアパートの一室。

  6畳ほどの部屋の一角を占める台所では、コンコン、と卵を割る小気味よい音が響いていた。


「卵3個っと。よく解きほぐしてから」

 ボソボソとした声が念入りに確認を重ねる。あまりに小声なせいで性別まではっきりしない。

  9月にもなってまだ続く蝉の大合唱にまぎれ、古アパートの壁が薄いからとか、さらに古い金属製の扇風機がうるさいから聞こえないというのではなく、単に、台所へ立つ雄桜(たけお)の声が小さすぎるからだ。しかし、雄桜の図体は決して小さくない。高校まではバスケ部をしていた身だ。身長196cm、近ごろの運動不足で体重は増加の一途を辿っているが、まだ100kgには達していない。

 カチャカチャ、と軽く菜箸を回す雄桜の背はかなり曲がっている。バスケで痛めたとはいえ若干、二十歳にして腰を患った訳もなく、ただ棚に頭をぶつけないために染みついた身のこなしだ。

 台所の天井から申し訳程度にぶら下がった棚の角は、すでに何人がぶつけ慣れたのか、若干の丸みさえ帯びている。塗装が剥がれ、露わになったささくれた木材がツララのようで禍々しい。背高の雄桜にとっては凶器が頭の上にぶら下がっているようなものだ。

 雄桜の猫背には、黒い帯が背中と腰にかけて走り、一見、武術の有段者を示す証にもみえる。だが、雄桜の黒帯は細く、そもそも背を斜めにクロスする黒帯などない。帯はあくまで、前掛けを留めるため。そう、雄桜はエプロン姿なのだ。

「熱くしすぎないようにっと」

 黒の地に紫のアジサイ柄エプロンを、雄桜は"継承物"として気に入っている。受け継いだのはエプロンだけではない。料理をする際には必ず、しかるべき服装と敬意を払うという教えを叩き込まれ、これまで忠実に守ってきた。自身へ言い聞かせるように、コンロへつぶやくその表情は真剣だ。

 色白の手を卵焼き器にかざし、伝わってくる熱で温度を確かめる。ガスコンロは中火だが、首を捻った雄桜は火加減調節のツマミを反時計回りに回した。火が強かったらしい。

「4分の1から入れて、半熟になったら巻きはじめる」

 呪文のように出し巻き卵の作り方を唱える雄桜の額には汗がにじんでいる。

 ただでさえ熱がこもりやすい狭いアパートで、朝からずっと、出し巻き卵を作り続けていれば室温も、うなぎ上りというもの。室温はすでに、体温に達しようとしていた。

 それでも雄桜は、出し巻き卵の創作を止めようとしない。

 台所のカウンターには、雄桜の"創作物"である黄色い筒が5つ並んでいた。新品と見紛う円皿にそれぞれきちんと「横一文字」で鎮座する出し巻き卵は、どれも淡いイエローの輝きを放ち、キメの細かい肌がおもわず触れてみたくなるほどだ。焦げの跡もいっさい、ない。

 漂う香りはまさしく「よくできた出し巻き卵」なのだが、雄桜は少しも満足していなかった。出来は悪くない。けれども、雄桜の求める出し巻き卵とは、やはりなにかが違う。

 "基本に忠実に"、をモットーとする雄桜はこうして、体で覚えたレシピをさらに口でも唱えながら、己の直感が告げる逸品を目指し、半熟の卵を巻いていく。

 ボウルから最後の溶き卵を慎重に、しかし素早く焼き器に流し入れ、ブクブクと泡立つ中黄の生地へ、端のほうから菜箸を入れていく。

 大仰な動きはせず、ただ粛々と卵を巻いていく雄桜の姿は、もはや巫女のごとき清廉さと、張りつめたピアノ線のような繊細さを併せ持っている。

「できた……!」

 円皿に、いましがた完成したばかりの逸品をのせ、ふっと雄桜が顔をほころばせた。

 そのときだった。

「ダァーッン!」

 錆びた玄関が豪快な音とともに文字通り、弾け開く。

 付きすぎた勢いでドアが猛烈な速さで跳ね返る。

「やっほー」

 凶器のごとき鉄扉がしかし、蹴破った張本人に当たることはなかった。襲いかかる青銅色の板を、まるで紙のように、小麦色のほっそりした腕が掌底で受け止める。

 ひょこっと覗かせた顔は、どこまでも陽気な少女のようで、目鼻立ちが整い凛とした美しさがあった。だが、雄桜と同じブラウンの双眸には、獲物を狙う捕食者の鋭い光が輝き、ただ可憐な乙女ではないことを示している。

「うわっ暑っ。外より暑いんじゃないの、ここ」

 よく似合う麦わら帽子を片手で押さえながら、部屋に乱入した人影はベージュのワンピース。扇子代わりに麦わら帽子を扇ぎ、開口一番、その人はドアを破壊したことを詫びるでもなく、ただ"文句をつけた"。

「また料理してんの?それとも素材の気持ちになろうって、焼かれてんの?っていうか、窓も閉め切ってなにやってんの、コックオー?」

 そうして彼女は息継ぎもせず、よどみなく言い切った。


「はぁー……」

 雄桜の深いため息が蝉の合唱に消えていく。アジサイ柄のエプロンを台所の壁に掛け、雄桜が左右に引っ張ってシワを伸ばすあいだ、横では「アタシの箸はー?」と子どものように声が急かす。箸立てから漆塗りを一膳取り出し、水道で軽く流してから、雄桜はキッチンペーパーで水気を取って渡した。

「きょうは、敬老の日だろ? オレの卵焼きを師匠へ見せにいくって雪江が……」

 ワンピースの女性は麦わら帽子をほいっ、と雄桜のベッドへ放ると、ローズ色の唇に箸をくわえ、雄桜と同じように手際よく手を洗っていく。キッチンペーパーで手を拭くと、丸めた紙をひょいっとシンク下のゴミ箱へ投げ入れ、箸を皿の前に置いてから手を合わせた。

「いただきます」

「行儀わるいぞ。って、ぜんぜん聞いてないな」

「はんでないはよー(嚙んでないわよー)」と言い訳する雪江の頬がすでに卵焼きでいっぱいだ。

「食べていいって言ってないけどめしあがれ。そういうとこは真面目だよな……雪女」

 部屋の中央へ歩いていき、雄桜が扇風機のスイッチをガチャッと「強」にして角度を調整する。そのまま台所に当てると文句をつけられかねないから、スイングに設定し。ついで、壁の色あせた、昔はホワイトだったらしい日焼けしたリモコンでクーラーを入れる。部品でも取れそうな唸りをあげる空調だが、年に二度、雄桜が掃除とメンテナンスをしているために冷風の出は悪くない。

「たれがようかいひょ(だれが妖怪よ)!」

 卵焼きを頬張りながらキッと、睨みつけてくるワンピースの女性は、本人が言うように妖怪・雪女ではない。

 名前は雪江(ゆきえ)と言い、雄桜の従姉にあたる。雄桜のアパートから二駅ほど離れた二人の祖母が構える空手道場で師範代をしている。雪江がビデオ通話経由の遠隔レッスンを取り入れたそうで、その他、出前授業やオリジナル防犯グッズ販売などで経営は順風満帆である。

 地域ではちょっとした有名人のCEO・雪江だが、ほぼ毎週末、雄桜のアパートに襲撃をかけてくる。

 才色兼備(雄桜が本人に言うことはない)の雪江は、まだ独り身だ。従弟の家に入り浸っていいのかとつくづく疑問の雄桜だが、従姉は人の家(親戚とはいえ)のドアを蹴って開けるような"強者"である。その節は嫁ぎ先のほうが心配になるというものだ。

「雪江、きょうだれかの見舞いか?」

 いらぬ心配事を頭から追い払い、雄桜は従姉のファッションへ注意を向けた。

 雪江の服装はかなり派手なほうである。雄桜はそうおもうが、どうやらこの従姉はファッションの最先端を行っているらしい。雄桜の通う「香田学園調理服飾専門学校」の、才気あふれる友人たちが口をそろえるから間違いないのだろう。頻繁に学校を訪れる(料理をタダで食べに)雪江はなぜか、卒業生でもないのに男女を問わず、学校の人気者だった。

 それがきょうは、清楚なベージュのワンピースときている。地味に見えないところが雪江の天性だ。以前に同じようなことがあったときは、遠縁が交通事故に遭った夜だった。雄桜の不吉な予感は拭えない。

「しかうはよ。しーちゃんワンピすきだから(ちがうわよ、じいちゃんワンピース好きだから)」と器用に会話と食事を両立させる雪江。

「おまえがふだん肌、出しすぎてるからだろ……」

「なんか言った?」

 従弟として親切心から言った言葉だが、受け止め方は違ったらしい。下手をせずとも肘打ちか蹴りが飛んでくることを身に沁みて理解している雄桜は、これ以上の詮索はせず、玄関の床のレジ袋へ目をやった。ピンと立った対の持ち手のあいだから菊の花がのぞいている。

「クックーオーの出し巻き卵、やっぱうまいっ」

 一皿目をきれいに平らげたところで、雪江は二皿目に箸を入れている。箸の持ち方といい、卵焼きの切り方といい、雪江の作法は文句の付け所がない。もっとも、台所で立ち食いしている時点で、お世辞にも行儀がいいとは言えないが。

 ちなみに、「クックーオー」は雪江が付けた雄桜のあだ名である。「コック」と雄「桜(おう)」を掛けた雪江自慢のペンネームなのだった。

「なにボケッとしてんの。食べたら出発するから。じいちゃんたち、待ってるわよ」

「……やっぱ、いくのか? オレ、自信ない」

 二皿目を完食した雪江は、

「自信なんて、貶されてようやくつくものよ。いつまでも一人で悶々としてたら、料理が不味くなるわ」

 と、たまに見せる説得力のある言葉をさ投げつけてきた。それから一口で三個目の卵焼きの半分をかじり取った。

「ばあちゃんにボコられたおまえに言われるとぐうの音も出ないというか……っておい、そのグーはなんだ? まぁったく。支度するから食い終わったら皿、洗っとけよ」

「ほいひょー(あいよー)」

「……もしかしてぜんぶ食う気か?」

 四皿目に突入した従姉を雄桜は若干の引き気味の目で見る。幸せそうにパクつく雪江はかれこれ、卵をひとパックは胃袋に入れた計算だ。昔からの大食いは、祖母ゆずりである。

「最後のやつはよくできたから残して……あー! ってもう食ってんじゃん」

「うん、ふわっとしてしっとりだったよ。一番おいしかった。だーから、ちっちゃいこと言わないっ! あんたの卵焼きはちゃーんとお姉ちゃんがいただきました」

 薄い胸元を叩いて合掌する雪江。食に正直な雪江が絶賛するほどの自作を口にできなかったのは、なんだか惜しいことをしたと雄桜は後悔する。

「それを持ってこうとおもってたのになぁ……しょうがない、途中で買ってくか」

 スーパーがあったっけ、と玄関に向かった雄桜の顔にドアが倒れてきたのは、そんなときだった。


「いたた……っ!」

「ドアが当たったくらいで大げさよ、雄桜。アタシでも拳で吹っ飛ばせるのに」

「壊したのはだれだよ……。みんな雪女みたいな怪力じゃねぇし」

「あら、クックーオー? 腕はかわいそうだから、その脚、へし折って差しあげましょうか」

 とは、アパートを出た雪江と雄桜のやり取りである。

 二人は、最寄り駅から目的地まで電車で向かうことにしたのだが、中途半端な都会っぷりのおかげでこの街は微妙に公共交通機関の本数が少ない。運良く、ホームに滑りこんできた一本に間に合い、いまは鈍行にゆられている。

 満面の笑みでつり革に捕まる雄桜に擦り寄る雪江は、傍目には良いカップルに映るかもしれない。実際、もう一方の手がレジ袋でふさがって避けるに避けられない雄桜は、あちらこちらから視線を感じている。

 特に、立っている二人の前の優先席、部活帰りとおぼしき青ジャージの若者集団からの視線が痛い。

 乗車した雪江はまっすぐ、思春期真っ盛りの野郎集団の真ん前に陣取った。おかげで、ハッピー顔だったジャージたちは、雄桜の登場で一気に剣呑な空気になったのだった。

 勘弁してくれ、と何回目かのため息を雄桜がついた頃、電車が速度を落とし始めていく。

「よっこいしょと」

 シュゥー、と開いたドアから杖をついた老婦人が乗りこんできた。追いかけるようにコート姿の乗客が滑りこむ。老婦人は座席を見回すが、休日運行の車両はほぼ満員だ。

「なあ、きみらさ」

 車内をさっと見回し、たまりかねた雄桜が口を開く。会話が盛り上がるジャージ諸君は、つり革の美人ではないほうになど興味はないとばかりに無視。明らかに電車の入り口へ目を向けた者もいるが、動く気配はない。

「優先席の意味わかってるのか……おいっ雪江?」

「いいから。クックーオーはアタシの場所みてて」

 従弟を遮った雪江は、麦わら帽子を問答無用で雄桜に被せ、スカートを翻してドアのほうへ向かう。腰をかがめて乗ってきた老婦人になにやら話しかけると、その手を取った。

 発車のアナウンスが流れ、車両がガタリと揺れる。コートの男性がゆらりと、不自然に老婦人のほうへ倒れかかった。その手が老婦人のほうへ伸びる。

 刹那、ベージュのワンピースがはためき、老婦人とコート姿のあいだに滑りこんだ。

「ドンッ!」

 雪江の動きはバレリーナのようになめらかで、ふわりと舞う黒い髪が人の目を奪う。従姉のプリマドンナ姿を思いうかべ、雄桜は、速攻で振り払った。雪江はマドンナよりもむしろ、ドン(首領)に近い。

 おおよそ、電車内ではあり得ない"投げ技"の振動に、車内の目が集まる。

「あなた、カバン盗ろうとしたでしょ?」

 立っていたコート姿が車内の床にひっくり返り、雪江が膝で押さえつけている。床に投げだした武骨な腕は逃れるようにジタバタするが、押さえる雪江の手でびくともしない。伸ばそうとする指の先には、地方銀行の角封筒からお札が覗く。

「ち、ちがうんだ! 私は、ご老人が倒れてきたので助けようと……」

「言いのがれようって気っ?そうはいかないわよ。おばあちゃんが乗ってきたときからあなた、カバンばっかり見てたし、アタシには見向きもしなかったし。お金を下ろしたおばあちゃんの後を追ってきたんでしょっ? なんならあの封筒、鑑識してもらう?」

「い、いや……」

 雪江に気圧され、しどろもどろになる男性。周囲の視線に顔が青くなっていく。

「やれやれ……通報、しといてくれるかな。あと、"あれ"が戻るまでに席、空けといたほうがいいよ」

 ポカンとしている学生たちに頼みと助言を授け、雄桜が雪江のもとに向かう。

「おばあちゃん、中身みてもらっていいですか」

 封筒を拾い、オロオロとしている老婦人へ確認をうながす。

 男はいまだ床に張りつけにされている。かすかな微笑みをうかべたまま、片腕を締めあげる雪江には、見慣れた雄桜でも近寄りたいとは思わない。老婦人の手が震えるのも仕方ないだろう。

 盗られていないことを確認した老婦人に礼を言い、雄桜が元来たほうに目を向けると、目が合った学生たちはブンブンと首が取れそうな勢いでうなずきながらスマホを指さしている。警察に通報してくれたようだ。ついでに全員、起立している。

 乗客たちも状況を理解してきたらしく、険しい顔で男を睨みつけている。目撃者も確保した。

「師範代。そろそろいいだろ。スカート、めくれてるぞ」

 すかさず、雄桜の顔に蹴りが入ったのは言うまでもない。


「加減の意味、わかってるか雪女?」

 雄桜が額を摩って隣の麦わら帽子をじろりと見る。きょうは歩きながら顔の痛みに耐える回数がやたら多い。

「スニーカーに感謝すべきね、クックーオー。ふだんならあんた、眉間からヒールをぶら下げているところよ」

「おまえなぁ! おれは気ぃつかったってのに……はぁー」

 怒りたい雄桜だが、あいにく体力の消耗が激しかったせいで、その気力もない。

 雄桜と雪江は、スリを次の駅で待機していた警察に引き渡したあと、顔なじみの警官たちに「さすが秋江先生の後継者だ」とかなんとか、雪江が褒めちぎられているあいだ、なぜか雄桜は犯人と一緒に事情聴取された。第一目撃者だから、と理由を言った警官は頬をピクピクさせて笑いを噛み殺していたから、わざとだろう。

 雪江がお手柄をあげたときは決まって、雄桜に事後処理の役割がくる。この街の警官たちにはお決まりになっているらしい。

 聞いた話によれば、昔、祖父の秋雄もこういう役だったという。巌(いわお)のような祖父の雷が耳に焼きついている雄桜には、信じられない話だ。

 事後処理のあとは老婦人がお礼にと、二人をデパートへ誘い、すっかり意気投合した二人(雄桜は案の定、カバン持ちである)はカフェで一時間を過ごした。雪江が注文したのはアイスクリームで、奢ってくれる老婦人への気づかいは、らしいといえば雪江らしい。ちなみに雄桜のメニューは、雪江指定のアイスティー単品である。

 そこから、「弟が持ちますから」の一言で老婦人の一週間分の買い物を手伝った従姉弟は、そのまま二駅ほど戻り、レジ袋の束を老婦人の家まで届けた帰りだ。途中の電車で優先席がガラガラだったのは、きっと気のせいだろう。

 昼はとうに過ぎ、9月に入ったとたん短くなった陽も傾き始めていた。

「なによ。そんなにお手伝い、イヤだったわけ?」

「んなことないだろ。雪女にこき使われるのが腑に落ちないだけ」

「言うようになったわね、クックーオー。料理の腕のついでに度胸もつけたってわけね」

「……ほめられてる気がしねぇ」

 肩を落とす雄桜とは真反対に、雪江はハミングしながら楽しそうに歩いている。大人たちには「雪江ちゃん」と呼び止められ、「ゆっきーおねえちゃん」と集まってくる子どもたちの話を笑顔で聞いている。まるで、街のヒーローだ。

「まぁ、たしかに"ヒーローの後継者"ではあるよな」

 雪江が街の有名人なのは、ただ雪江個人が皆に好かれているだけではない。

 まぶしい従姉の後ろ姿を見ながら、雄桜は、街で知らぬ者はいない10年ほど前の"事件"を思い出していた。


 *  *  *


 それはまだ、雄桜(たけお)と雪江が中学生のときだった。祖母である秋江の空手道場に、雄桜がイヤイヤながらも通っていた頃だ。

 雄桜は別に祖母が苦手だということもなかったのだが、わざわざ痛い思いをする道場は近寄りたくない場所だったのである。

 秋江は秋江で、「イヤ」とは自分からいわずに毎日、道場へ通う孫の雄桜におもうところがあったのかもしれないが、「続けなさい」とも「辞めてもいい」とも言うことはなかった。道場へ来れば、等しく稽古をつける。身内だからといって当然、ひいき目はしない。

 周りは、雄桜がいずれ跡を継ぐものだと決め込んで、雄桜を特別視したが、秋江はそれを許さなかった。「人の将来を勝手にきめるな」、と珍しく怒り顔で。

 雄桜はのちに空手から離れることになるが、秋江のそういう清々しくまっすぐな思いが背中を押してくれたのだと、いまの雄桜にはわかる。


 祖母の性格はだれに対しても変わらない。

 それをあらわす良い例が、雄桜が高校に上がる年の夏の誘拐未遂事件だった。


 *  *  *


 フレームに被写体を収め、ひと呼吸おいて息を止める。

 その瞬間、蝉の声も風の音も、すーっと遠のいていって頬に当たるファインダーのアルミが冷たい。

 まるで、射撃手のように精神を研ぎ澄ませ、シャッターボタンにかかる指を押しこむ。

 組み手で相手の隙を狙うときと同じ刹那の高揚感。

「パシャッ」

 小気味よい音で絞られた光がフィルムに像を結ぶ。フォトグラファーの切り取った"瞬間"は、フィルムごと暗闇のケースに閉じこめられ、現像されるときを待つ。

「ふぅー」

 腹の底まで吸いこんだ初夏の空気は、河川敷を撫でたせいか青々としていて、みずみずしかった。ガジガジッとダイヤルを巻く秋江の手つきは慣れたもので、とてもカメラを始めてひと月たらずの初心者には見えない。

 何事もそつなくこなす。それが、護拳流空手第六代師範、彩秋江、旧姓・比護秋江だ。

「さぁて」

 次にシャッターを切る機会を探し、6時になったばかりの河原を秋江が見回した。

 太陽はとうに昇りきり、川沿いの並木では、気の早い蝉が発声練習に励んでいる。ウォーキングや犬の散歩をする人たちはだいたいが秋江の顔見知りで、通りすがりに声をかけては秋江もあいさつを返した。

「……けさもいるね」

 ふだんと変わらない朝の光景を眺めながら、ふと、秋江の目が河川敷の一カ所に止まった。

 レンズにキャップを嵌め、アウターのポケットに年代物のカメラを仕舞い、足を向ける。

「紗映(さえ)ちゃん、おはよう。きょうもいい一枚が撮れたかい?」

 シャッターボタンを押す仕草をしてみせると、振りかえった紗映が恥ずかしそうにはにかんだ。

「あっ、おはようございます。秋江さん」

 両手をスカートの前に合わせ、紗映がお辞儀する。肩までかかる黒のショートカットがはらりと、セーラー服の襟をこする。首からさがる色あせた革ベルトに吊られたスプリングカメラが少し遅れて揺れた。

「現像するまでわかりませんけど、撮れていると……おもいます」

 ジャバラレンズのカメラをそっと手でつつみ、うなずく。

 高校指定の長袖ワイシャツを、手首のボタンまできちっと留めた紗映の身だしなみは、まぎれもなく模範生だ。スズランのようたたずまいでその実、柳のように芯が通っている子だと、短いつきあいながら秋江は評していた。

 だが、紗映は模範生ではない。彼女はほとんど高校へ通ってはいないからだ。

「そりゃいい。このまえ見せてもらった写真はよかったよ」

 ぱっと、顔を輝かす紗映の人差し指は、絆創膏が隠している。テープに滲むわずかな赤を、還暦を迎えてなお、衰える兆しのない秋江の目は見逃さなかった。

 けれど、秋江はそのことには触れず、視線を紗映に戻すと、手をポケットに突っこんだ。

「私みたいにフィルムを無駄して、って孫に怒られることもないんじゃけ」

 撮った写真がブレていようと傾いていようと、秋江には関係ないことだった。秋江は、"シャッターを切ること"そのものが好きなのだ。

 現像もしないでひたすら、シャッターを切り続けている秋江の習性を、紗映も知っているから形の良い眉を垂らして苦笑いするしかない。

「秋江さん、お孫さんいらっしゃったんですね。まだお若いから。ぜんぜん、見えませんでした」

「気ぃつかわなくていいんだよ紗映ちゃん」

 すかさず、ぴしゃりと秋江。紗映が少し驚いた顔で目を見ひらく。

 ふっと、笑ってから秋江は、

「若いうちはおもったとおりに言うたらいい。大人とか、そんなん、気にせんでいい。自分に正直でいられんのは、意外と難しいもんさ。紗映ちゃんの歳でいちいち顔色みとったら、自分が重くなるだけだよ……おっと、またこりゃ偉そうだったね。年寄りのたわ言だとおもってくれ」

 ははは、と今度は爽快に秋江が笑いとばした。夏のような胸のすく笑顔に紗映の表情も和らぐ。

「そう、ですね。自分に正直って難しい、ですよね。でもわたし、お世辞を言ったわけではないですよ? 秋江さんはじっさい、"還暦"には見えませんし」

 いたずらっぽく秋江の年齢を口にした紗映は、秋江のみたかった笑顔に一歩近づいた。

「言ってくれるね紗映ちゃん。でもうれしいよ。こんな年寄りをほめてもなにも出ないけどね……そうだ。ひとつ、頼み事を聞いてくれるかい?」

「……はい?」と首をかしげる紗映へ、秋江が自分のカメラを取り出して振った。

「紗映ちゃんを撮りたいんだ私。あと、せっかくって言っちゃなんだけど……お家で現像、させてくれないかい?」

「えっ、うちには……その……」

 わかりやすく目尻を下げて困る紗映。

「だからおせっかいついでさ、親父さんにも会わせとくれよ」

 うろたえる彼女をニコニコしながら見つめる秋江の目は揺るがない。


「あのっ、父は就活してるんですっ。ただその……辛抱が足りない、というか……」

「つづかない、んじゃろ?」

「そうなんですけど、まわりの人に負担をかけたくないからだとおもうんです」

「失職中っていうのがいちばん、みんな気にするんじゃけぇ」

 秋江にさらりと要点を突かれて、紗映は口を開け閉めするほかない。

「商店街の仕事もひと月もたなかったそうだね。紗映ちゃんもわかるとおもうけどさ、待遇はけっこうよかったんよ?」

 と手をひらひらさせる秋江。隣の紗映は申し訳なさそうにうつむいている。

「はい。せっかく秋江さんが紹介してくださったのに……」

 頭を下げかけた紗映へピッと、秋江が人差し指を立てた。

「謝るのはなし!私が好きでしているだけなんだから。……ちょっとごめん。電話さしてね」

 別のポケットから最新型のスマートフォンを取りだして秋江が紗映へ、軽く手を合わせる。流れるような手つきでコールする秋江に「かっこいいな」とつぶやく紗映の声は届かない。

 帰りが遅くなる旨の連絡をしているらしい秋江の凛々しい横顔がチラリと紗映を見る。先を促され、河川敷を秋江と並んで歩だした。

 強くなっていく陽差しを感じながら紗映は、少々押しの強い、この師範との初対面をおもいだしていた。


 話しかけてきたのは当然というべきか、秋江のほうだった。

 さっきのように気さくに、けれど軽々しくもなく、詮索するつもりは微塵もない。

 そんな話し方をする、「しらない"おばちゃん"」が紗映の第一印象だった。

 そんな名前もしらなかった秋江に怒られたのはそれから少しあとだった。


「……紗映ちゃん? 紗映ちゃんってば」

「は、はいっ!」

 紗映があわてて頭を振ると、通話を終えたらしい秋江がのぞき込んでいた。

「ごめんなさい。なんでした……?」

 首をすくめる紗映。秋江がそっと、心配そうに肩をさすってくれている。

「紗映ちゃん朝ごはんは?」

「はい。ちゃんと作ってきました。けさは焼き魚です」

「そっか。じゃ、指を切ったのも?」

「えっ? ああ、これは大根おろしでちょっと」

 と紗映が頬をかく。

「父ったら、血がついて捨てようとした大根、『せっかく紗映が作ったのにもったいない』って食べちゃったんですよ」

「……そこだけ聞いたら親父さんは親バカを通りこして、変態だな」

 ホッと、息を吐いた秋江は首をかしげる紗映に「なんでもない」と手を振ってから、

「心配してついてこなくても道わかるよ。だから学校、いってらっしゃいな」

 と紗映の肩をつかんでぐるっと、回れ右させる。

「あっでも家のことが……」

「それもこっちに任せて。あと、放課後は道場にきてよ」

 振りかえった紗映が頼もしい赤いジャージの背中に理由を尋ねる。

「きてくれりゃわかるよ」と、赤いジャージは親指を立てるだけだった。


「授業にでなくてもいいから、学校には行くべきだよ」

 朝の河川敷で話すようになってすぐ、紗映は秋江にこう言われた。登校時間前には別れ、街を出歩いたわけでもないのに紗映の不登校を見抜いた秋江。いわく、独自の情報網を持っているのだとか。

 "師範の情報網"とやらは、すごいらしい。

 紗映は学校がイヤなわけではなかった。転校生特有のクラスに馴染めない、ということもなかったし、嫌がらせをしてくる子たちもいない。みんな優しかった。

 紗映はただ、できることならずっと、河川敷にいたかったのだ。

 梅雨のはじまるころ、町に父親と越してきたばかりの紗映は、団地から近い河川敷によく朝、ひとりで来ていた。

 緩やかに流れる川面のさざ波に朝陽が反射し、光のじゅうたんの岸を、ランニングウェアの夫婦や小さな子を連れた母親が歩いていく。子どもが先を走り、案の定、転んでしまう。けれど、その子は強く、ひとりで立ち上がると泣かずにまた、駆けていく。

 わたしはこの子のようにつよくない。

 紗映の母親はカメラマンだった。華々しい業績はないけれど、たとえば、町のウェブサイトに載せる写真を撮ったりするようなカメラマンだった。飾らない素朴な母の写真が好きだった紗映は、いつしかカメラを母から学び、母とおなじ道にあこがれた。

 肌身離さず紗映がぶら下げている古いスプリングカメラも、デジタルを頑なに拒みつづけた母のお気に入りだった。

 母なら、この光景をフレームに収めていたにちがいない。

 紗映はそう思い、河川敷の写真を撮り続けた。フィルムは、段ボールとアルミホイルで作った、簡素な組み立て式の暗室で現像して。

 最初の一枚を紗映が見せたのは当然、父親だ。

 父親は写真を悲しそうな笑顔でながめたあと、なにも言わずに紗映の頭をなでた。

 その日以降、紗映は写真の現像をやめた。


 放課後、紗映が自宅に帰ると父親の姿がなかった。

 きょうは面接の日でもないし、夕食は紗映の当番だ。

「書き置き……?」

 食卓代わりのローテーブルの上のメモに気づいた紗映が手に取る。

「『紗映ちゃんへ。道場へきてくれ。親父さんもいる。夕食はこっちで用意する』……秋江さん」

 誘拐めいた文言の最後には楷書体の署名。紗映が初めてみる秋江の筆跡だが、なんとなく秋江らしいとおもった。男勝りな口調がまさにそうだ。

「せっかくお弁当つくろうとおもったのに」

 頬を膨らます紗映だが、表情は明るい。

 引き出しから父親の着替えを数着、バッグに包み、部屋からカメラを取ってくる。さすがに学校へは持っていけなかったので、家に置いてきた。

 古びたベルトをしっかり首に掛け、紗映は秋江の道場へと向かった。


「おとう、さん……?」

 道場に着いた秋江がまず目にしたのは見慣れない、そしてどうみても着慣れてもいない道着姿の父親だった。紗映の素人目にもわかるほど腰が引けている。白い帯が降参を宣言しているようにゆれているのがさらに屁っ放り腰を際立たせている。

 対峙するは、秋江だ。無表情の秋江を見るのは始めてだが、怒られているときの顔のほうががまだ怖くない。黒帯が最初から道着と一体化していると言わんばかりにキツく絞められている。

「あっ」

 ドンッ、と畳を打つ鈍い音が、入り口であっけらかんとしていた紗映の耳を震わす。なぜかスカッとするような、きれいな落下。

 父親を容易く"投げて"から、秋江がこちらに目を向けた。ふだんの秋江の表情だ。

「紗映ちゃん! お入り」

 秋江に手招きされ、紗映はおそるおそる一礼してから、外履きを脱いで畳を囲う板間に足を着ける。幾度も人に踏まれ、磨かれた木材は西日に照らされてつやが輝いていた。靴下越しに伝わってくるヒンヤリした感触が背筋をピーンとさせる。

「お、師匠が連れてきたダメ親父の嬢ちゃんだな。ささ、靴下も脱い……」

 どこから出てきたのか、体格の良いまだ二十代とおぼしき道着の男性がすぐ近くから紗映に声をかけてくる。顔つきは控え目にいってもコワモテだ。

「ケンジッ!!」

 と、突然、コワモテ男性が畳に突っ伏した。紗映に見えたのは、いつの間にか移動して男性の背に振り上げた秋江の足だけ。

「バンッ!」

 さきほどとは比べ物にならない強打の音が道場をゆらした。まるで爆弾が当たったような衝撃に、紗映はとっさに救急車をおもいうかべるほどだった。

「その口、徹底的に叩きなおしたほうがよさそうだね」

 つま先で軽々と秋江に仰向けにされたケンジは、「勘弁っす」ともうあぐらをかいている。広い額にはイグサ模様がワッフルを焼いたように網をかけている。紗映が見ていることに気づくと、親指を立ててニッと笑った。

「鼻の下が長いッ!!」

 そのケンジの腹に秋江の踵がストレートに入った。親指を立てたまま、死んだカエルのように手脚を痙攣させるケンジ。

「まったく……うちの弟子が粗相したね、紗映ちゃん」

「い、いえ」と紗映は首を横に振りながら、びくともしないケンジをチラチラと気にする。

「さ……紗映……パパは……」

 大の字で畳に伸びていた紗映の父親が娘に気づいてもらえたのは、もう少しあとになってからだった。


 空手の師範だと名乗る中年女性を最初に紗映が家へ連れてきたとき、紗映の父・真都(まこと)は、娘が新しい町で怪しいグループにでも騙されたのではないかと、かなり訝しんだものだった。しかも、紗映が失職中のことを話したのか、困ったときは言ってほしい、とやけに真剣な顔で言っていた。

 そして情報収集がてら、ハローワークの窓口でその師範の名前を出すと、担当者にこっぴどく説教された。

 それはもう、亡くした妻に、紗映と遊んでやる約束をして忘れて飲んで帰ってきたとき並みに怒られたのである。いわく、「秋江は地域のヒーローで、彼女を信用しないのは自分自身を信じないことと同じ」だとか。さんざん説教した後、ハローワークの担当者は師範のツテを頼ったほうが早い、と大真面目に言い切ったのである。これでは職務放棄ではないか、と思っても口には出せないのが真都の性格。

 もはや一介の空手家というより、地元の顔利きのような気がして、ますます疑心暗鬼になる真都とは裏腹に、娘の紗映はその師範の話をよく家でするようになった。そういうときの紗映の顔は、久しく見ていなかった穏やかなものだった。危うく自分はまた肝要なところを抜かすところだった、と真都はおもった。妻にはよく、「肝要なところが抜けている」と言われていたからだ。

 そんなこともあって真都のほうから道場へ出向いたのが二カ月ほど前。秋江は多くを尋ねず、いくつか仕事を紹介して「話は通してある」と真都に言った。物腰の低い人だが、有無を言わせない雰囲気を真都は感じていた。

 だから、秋江に紹介してもらった仕事を辞めてきたときには、正直、町を出る覚悟をした。

 仕事がつらかったから辞めたのではない。そのままでは同僚やお客に迷惑をかけかねないとおもったからである。どうしても身が入らず、なにをしていても、まるで心に空いた穴へすべてが吸い込まれていくように気力が湧かない。妻が逝って以来、真都の仕事が続かない一番の理由だった。

 だが、引っ越ししたばかり、紗映の転校も落ち着いたばかり、引っ越しに貯金を取られるのも癪だな、紗映はこの町が好きそうだ、などと考えているうちに時間だけが過ぎていった。

 そんなとき、突然家にやってきた秋江が「道場に来ないか」と提案してきたのである。「紗映だけは見逃してやってくれ」と額を床につけた真都に、秋江は「あなた次第だ」と告げた。

 紗映が見たなら、「秋江は笑いを噛み殺していた」と言うような表情で。


「……というわけだ。真都さんにはうちでいろいろ手伝ってほしいとおもっている」と紗映に説明する秋江。なぜか横には、あぐらをかいたケンジが「メシと手当て付きだぜ」と親指を立てて秋江に頭を引っ叩かれている。正座した真都は横で娘の顔色をうかがっていた。話をしたい、と秋江が3人を給湯室に誘ってからというもの、紗映は黙りこくっていた。

「おとうさん……父は、承諾したんですか?」

 秋江をまっすぐに見すえる紗映の表情は真剣だ。

「私はそう受けとったんだがね」

「いえ。秋江さんではなく父に聞いています」と強い口調の紗映。水を向けられた真都は「ぼ、ぼく?!」とオロオロするばかり。娘と秋江、なぜか応援するように拳を作って続きを待っているケンジの顔を順に眺め、結局、助け船を出したのはやはり紗映だった。

「秋江さんの好意はありがたいんですけど、父に無理強いはさせられません……おとうさん、この道場で雑用するの?」

 雑用ってよお、と鼻をならすケンジの耳を引っ張って秋江が黙らせた。

「ぼくはぜんぜん構わないよ、紗映。このまま無職で人様に心配かけるより、ここで……」

「ちがうよっ!!」

 立った勢いでバタンと紗映のパイプ椅子が倒れた。涙を堪えた顔に真都がハッとする。

「おとうさんはいつも人様っていうけど、自分はどうなの? おかあさんが死んで、おとうさん、毎晩泣いてたよね。わたし、なんにもできなくてくやしくて……。だからおかあさんのカメラで写真撮って、想い出にしようって」

「ごめんな、心配ばっかりさせて。でもね紗映。ぼくは、映美里(えみり)のカメラを持ってる紗映を見てると……悲しかったんだ」

「その言い方はねぇだろ! 紗映ちゃんはあんたをおもってよ」

「……ケンジ。口を挟むんじゃない」

 椅子を蹴って立ち上がったケンジの横で、師匠が静かに諫める。目を閉じた顔から表情はうかがい知れない。

「ケンジさんの言うとおりだ。そんなふうにおもうなんて、ぼくは最悪だ。だけど紗映」

 椅子を引き、立った真都が紗映と向かい合う。震える娘の肩へ手をそっと置き、もう一方の手でレンズを向ける古い写真機に触れた。

「紗映はもう映美里がいないことに向きあっている。ぼくを気遣ってくれるのもそうじゃないか。だけどぼくはまだ……正面からは見られないんだ。紗映も映美里にも置いてけぼりにされた気がして、ぼくはどうしたらいいかわからなかった」

「ちがうよおとうさん」

 娘の声に顔を上げた真都の前に、くりっとした少し赤い目があった。

 愛する人とそっくりでいて、自分のような弱さと、そのどちらでもない輝きを持った目だ。

「わたしは、おかあさんがいなくなったなんて、おもったことはないよ。おかあさんはずっといる。カメラだけじゃない。わたしとおとうさんのなかにもおかあさんはいるんだよ。だから、置いてけぼりになんかしない……わたしも。おかあさんだってね」

 目元を拭った紗映が真都の手を握る。

「だからね、おとうさん。わたしはおとうさんに、前みたいに好きなことをしてほしいの。おとうさんはたしかに危なっかしいところがあるけど、だいじょうぶ。わたしがいるから……ううん、わたしと、おかあさんもいる」

「紗映……っ!」

 身体を寄せる二人に挟まれ、カメラがまるで喜んでいるようにみえる。

「いい話だぁ」

 抱擁する親子を前に、ずずーっと、ケンジが鼻をすすった。目と鼻から大量の分泌物を流す弟子をチラ見して秋江がすかさず、流しのドアに掛かっていたロール状のキッチンペーパーを一巻き、手渡す。

「さてと」

 立ち上がり、給湯室を出ていこうとする秋江を紗映が不安げに呼び止める。

「……秋江さん?」

「紗映ちゃんも真都さんも、夕食は食べていくかい?」

「え、えっと」

 紗映が真都を見ると、父がうなずき返した。

「師範。こちらで働かせてくださいっ!」

「おとうさん……」

「真都さん、ここは道場です。体と精神の鍛錬の場である道場に、働き口はありません……が、鍛錬のついでにお手伝いいただけるなら、少しお手当は出しましょう」

 頭を下げる真都に対して秋江は真剣な顔だ。道場は職場ではない。修行を積む場所だと、鋭い目が語っている。

 数十人の弟子を教える師範としての厳しい表情を前に真都はもう一度、頭を下げた。

「では、弟子としてお願いします」

「わかりました。ただし特別扱いはしませんので、そのつもりで」

 今度は紗映に向き直ると、

「紗映ちゃんはどうするかい? 真都さんと泊まってっても構わないんじゃけど」

「いえ」と紗映が首を横にふる。

「わたしは家に戻ります。片づけもありますし、二人ともいないと……寂しがるとおもうので」

 カメラを見下ろす紗映。秋江がうなずき、

「そうじゃね。なら夕食が済んだら真都さんとお帰り。放課後はケンジを迎えに行かせよう」

 せんせぇい!、と子どものように目を輝かせるケンジ。

「わたし、ひとりでもだいじょうぶですよ? わざわざお迎えなんて」

「そんなぁ」

 一喜一憂のケンジを無視した秋江が今度は首を振った。

「真都さんを"預かる"もんとして責任があるからね。近ごろは妙な輩がうろついているようだし。ここは譲れんよ?」

 説得は無理だと悟ったのか、紗映がこくりとうなずく。

 ケンジに向き直った真都が頭を下げた。

「ケンジさん、娘をよろしくお願いします」

「はっ、はい! 幸せにしてみせます!」と直立不動になったケンジが直角に礼を返す。

「カチャッ」という小気味よい音がしたのは、そのときだった。

 振り向いた大人たちに、ファインダーを覗いていた紗映が頬を染めていた。


 道場は学校ではない。空手がスポーツとしての側面を持つようになってからは、とことん"鍛える"意思を持つ者以外、やや古風なジムという位置付けが強くなった。秋江の道場はその両方の顔を持つ。

 体育館ほどの広さがある道場では、正面手前の半分でキッズ教室や、秋江の妹・春江が教える初級者向けレッスンがおこなわれている。子ども相手とは言え、指導する側もされる側も真剣そのもの。ピーンと張った糸のような空気が道場に程よい緊張感をもたらしているのは、道場の奥だ。ドスの利いた気合と畳を打つ音が響く。

 初めて道場を訪れる者はたいがい、有段者と子どもたちが隣り合わせに空手をする光景に目を丸くする。黒帯の迫力満点の組み手に泣き出してしまう子がいるのも不思議ではない。入門すると決めたのでもない見学者の顔が引きつるのもうなずけるところだ。

 だが、これは秋江の信念でもある。

 子どもたちはベテランの、そして熟練の空手のワザと動きを間近で見ることができる。鍛錬を重ねた古強者の気迫はテレビなどでは到底、感じ得ないものだ。高みを極めた者の放つ"オーラ"は、たとえ空手と無縁の生活に戻ったとしても心に残る。それがなにかの役に立てば、と秋江は願う。

 有段者にとっても、稽古を"見られている"というシチュエーションは刺激だ。

 もちろん、全員が諸手を挙げて賛成した訳はない。だが、反対意見も秋江は織り込み済みである。「見られている程度で集中できない者は破門だ」の一言で、古参は一斉に黙したのである。

 実際、"見られている"ようになってからの昇段試験や、大会に出場した門下生の成績は上々だ。上級者の成績が呼び水になり、空手を始める者も増えて秋江の道場はさらに静かな活気があふれる場所になっていた。


 門下生となった紗映の父・真都も当然、初級者だ。大学まで文化部一筋の男である。運動に関しては、ケンジが言う通り、残念というほかない。

 けれども真都はほんの数日で、初級者レッスンではなく有段者の集う、道場の"奥側"へ行きたいと申し出たのである。


「真都さん、それは認められんよ。理由を言ってくれないなら、なおさらね」

 午前の稽古と昼食が終わり、道着の畳み方を教えてほしいという真都に手本を見せた秋江が眉をひそめた。

 正座した膝の前で二つ折りにした上衣の中央を、黒帯できっちり結ぶ。さらにもう一回、縛る。これで帯を持ち上げてもほどけない。

 最後に帯の刺繍が見えるよう整え、真都の前に置いた。その横には、まるで絞った雑巾のような塊を、茶色の帯が気持ちばかりつつんでいる。

「そのー……子どもたちが多い、じゃないですか。だからこわがられるっていうか……」

 秋江の顔色をチラチラとうかがいながら、真都が自分の道着をほどいていく。

 ちなみに真都の道着は兄弟子(かなり年下だが)のケンジが貸してくれたもので、いまの真都は、紗映が自宅から持ってきてくれたポロシャツとスラックス姿だ。シャツのシワはほとんどなく、ズボンの折り目もきちんと付いている。

 だが、真都がそれに気づいている気配はまったくない。せっかくピンと立った襟を「暑い」と言って丸めている始末だ。半袖をまくり上げてタンクトップ調にしたときは秋江も見かねて注意したが、三十路を過ぎ、アラフォーに近い大人の服装にいちいち口を出すほどお節介ではない。

 それに、注意されて改める性格でもないと、いろいろな人を見てきた秋江にはわかっていた。

「ぼくのようなおじさんは引かれる、っていうか……紗映だってときどき、ぼくと目そらしますし」

 相変わらず、道着の"雑巾絞り"を繰り返す真都。秋江の手本を見ていたのか怪しいくらい、進歩がない。

 というより実際、彼は"なにも見ていない"のだろう。真都の目はいつも"どこか"を見ている。少なくとも"ここ"ではない。見当くらい付くが指摘してやるのは、お門違いだ。

「子のせいにするなッ!」

 秋江の喝が昼下がりの道場をふるわす。畳では試合を控えた数人が自主練をしているだけで、ひと気は少ない。いくつかの視線が集まり、すぐ退いていく。あとには高弟たちの風切り音が続く。

「わっ?!」

 リアクションの教科書にでも書いてありそうな反応をしてみせた真都が幽霊を見ているような目を合わせてくる。それでも心ここに在らずよりはマシだ。

 腰を抜かすポロシャツに秋江が拳を畳に突いて向き直る。

「真都さん。ほかの人間を身替わりにするんは、やめんかね」

「み、身替わり?」

「じゃ、はっきり言うちゃろう。真都さんあんた、いつまで現実から逃げとる?」

「えっ」

「そんな『心を読まれた』みたいな顔せんでも、わかるぃね。紗映ちゃんも言ってたじゃろ」

 娘の名前が出たとたん、真都の顔が固まった。畳の手が小さく震えている。視線を外したのは知られたくないことを突きつけられた居心地の悪さか、そのことで怒っているのか。

「……紗映となんの関係があるんですか。娘を巻きこまないでくださいよ」

「そうやね。できるんやったら、私があの子を引き取りたいくらいやね。じゃけど、紗映ちゃんはぜったい、うんとは言わんじゃろな」

「そりゃそうですよっ! なにいってるんですか師範! 紗映はぼくの娘です。勝手なことを……」

「ならどうして紗映ちゃんを避けるんじゃね?」

 立ち上がりかけた真都を見ずに、その道着を手に取る。無意識に触れていた茶帯の端。刺繍に刻まれた名前にしばし、遠い日々が秋江の脳裏を駆けた。

 元々、この帯はケンジの物でもない。ケンジは十代のころから有段者だ。有段者は黒帯を締めるのが決まりである。茶帯は段位に上がる一歩前の証。だが、この帯は決して黒に変わることがない。

「避けてなんか……いませんよ」

「朝食は掻きこんで済ませ、紗映ちゃんが道場にいるときは話もしない。夕食のときだってほとんどしゃべらんじゃろ。家までの帰り道も似たようなもんじゃないのかい?」

「そんなこと……ぼくは忙しいだけで……」

「事務まで手伝ってくれるんはありがたいけどね、真都さん。うちに居続けることで紗映ちゃんがつらくなるんやったら、すぐにでもお暇を出さんといけん」

 かつての持ち主を思い浮かべながら、秋江が畳んだ道着の帯をギュッと締める。

 棒のように突っ立ったままの真都を見上げ、

「そのうち紗映ちゃん、ぜんぶひとりで抱えこんでこわれてしまいそうで、私は心配なんだよ」

「それは……ぼくがちゃんと仕事を見つけて生活が安定すれば、紗映もきっと……」

「じらぁくいあげるいのぉ!」

「え、えっ?」

 目を丸くしている真都に「はよ羽織りんさい」と秋江が道着を放った。かろうじて落とさなかった真都の正面に秋江が立つ。

「いや、ちょっと意味が……」

 それだけで、真都は金縛りになったような威圧感を感じた。秋江は畳の上で軽くステップを踏んで体を慣らしている。臨戦態勢というやつだ。

「心配せんでもケガはさせんけ。まあ、打ち身くらいはできるかもしれんけど」

「もう投げられるのはいやですよ……このところケンジくんにしょっちゅう……」

 ぶつぶつと言いながら距離を取ろうとした真都。その顔の横を風が切った。

「うわっ!!」と、尻もちをつく真都。

「避けられるようになったんじゃねぇ。ケンジのやつも教え方が上達したんかね」

 上段蹴りの構えを解いて笑う秋江。当然その目は笑っていない。今の蹴りが命中していれば、間違いなく脳振盪だ。

「いたたたっ……受け身もまだできないのにひどいじゃないですかっ」

 腰をさすって真都が睨めつける。とたんに秋江の笑みが大きくなった。

「いい目だよ真都さん。それでいいんじゃけ。黙ってたって周りに毒まき散らかすだけいね。あんたは紗映ちゃんの幸せを想ってるんじゃろ?」

「あたり前ですよっ!紗映はぼくの……いや、ぼくと映美里の娘なんだ!」

 顔をゆがませながら立ち上がる真都。道着に伸ばした手が震えているが、迷いなく腕を通していく。

 少し前からこちらの様子を静かにうかがっていた高弟の一人に秋江がアイコンタクトを送る。うなずいた弟子が炊事場へ駆けていった。

 真摯に向き合おうとする相手へ出し惜しみするのは無礼千万だ。だから真都には体の痛みも心の痛みにも、向きあってもらわなければならない。

「前を向きなさい」

 帯を締めた真都が顔を上げる。その目はしっかりと秋江を捉えていた。

 畳の上で両者が礼をした。


 昨今はずいぶんと物騒になった。

 昔は有って無いようなものだった校門の柵も、いまは下校時間ギリギリまで閉ざしている。というより、グラウンドまで通じる正門は下校時間でも開かない。生徒たちは校門の横にある通用口から帰っていく。

「……例のバンのせいか」

 学校名が書いてある銘板の前でケンジがアゴをさすった。預かり物のスプリングカメラがミニチュアのように逞しい胸板の前で揺れている。

 自分の学生時代を思いだしつつ、世知辛くなったと二十歳そこそこで悟ったようなことを考えるケンジ。そのせいか、はたまたそもそも外見は気にならないのか、「あれって職員室の……?」とヒソヒソ声を潜める下校する生徒たちや、迎えにくる父兄からあからさまに不審な目を向けられてもまったく、動じていない。

「さすがに道場のちかくはウロつかねぇかー。いたら先生が鉄クズにすっだろうし……おっ、きたっ」

 手を振りたい衝動を堪え、組み手の直前よろしく、シンジが肩幅に足を広げて背を伸ばした。後ろ手にまでしなくてもよさそうなものだが、おかげで、果たし合い相手を待つかのような風格が出ている。

「おまたせしましたケンジさん」

 小走りの紗映が道着の前でペコリと頭を下げた。ショートヘアがはらはらと夏の夕風に流れていく。

「い、いえ、お、お疲れっス……いや、お、おかえり、なさい、どす」

 なぜか京都地方の言葉になったケンジは紗映と目を合わせようともしない。黄昏に負けず劣らず顔が真っ赤なことに気づかないのは、当の二人くらいだろう。

 校門の前で披露される"ザ・青春"なやり取りに横やりが入らないのは、当然、学校へ秋江が根回しをしたからである。秋江が校長へ渡した、ケンジの身元を示す指名手配犯ばりの写真が職員室に掲示されていなければ、ただでさえ強面なうえ、目を細めてぶつぶつとつぶやく"カメラを提げた道着の男"など、とっくに通報されていただろう。

「はい。ただいまです。あっ、きょうもカメラ持ってきてくださったんですね」

「さ、紗映さんの宝物でありますゆえ。どど、どうぞ」

 カメラのベルトを首から外すケンジ。挙動不審なしゃべり方とは裏腹に、カメラを渡す手つきはどこまでも穏やかで優しい。

「ありがとうございます。わがまま言ってごめんなさい……。これがないとなんだか落ち着かなくて」

「じ、自分もわかります。あ、いや、わかるというのはその……」

「そっか! ケンジさんは、道着を着ていないと落ち着かないんですね!」

 まぶしいばかりの笑顔で尋ねてくる紗映を夕日が神々しく照らしている。母の形見のカメラを首に提げ、疑うことを知らない純真無垢な少女の笑顔に「違う」と突き返せる者はいるのだろうか。

 たとえ、空手の道着を着ていなければ不安になる質(たち)だと思われても、だ。

「……ま、まあ、たしかにこの道着は、自分には大切なものっス。先生には『黒帯を絞めなさい!』ってよく怒鳴られるんスけどね」

 おもわず首をすくめて辺りを見回すケンジ。さすがに秋江がいるとはおもわないが、師範の視線はいつも間近に感じた。それは監視というより、常に背中を押されているようで、だからこそ背筋をピーンと伸ばしていられる。

 夕日に背を向けゆっくりと、どちらともなく二人が歩きだした。

「それでもいい……じゃないですか」

 前を見てつぶやいたのは紗映だ。夕陽が照らし出す通学路を生徒たちの賑やかな声が駆けていく。

「たいせつなものって、自分にしかわからないんです。ほかのひとに『置いていけ』って言われてもそんな簡単には」

「置いていくんじゃないっスよ」

「えっ」

 頭ひとつぶん高い、隣の道着を紗映が見上げた。陽をあびた横顔が照れるように微笑んでいる。ケンジの笑みは犯罪者の顔だと道場の人たちはいう。けれど、怖いと紗映が思ったことは一度もない。

「自分の一部にするんス。目を閉じると、まるで目の前にいる、くらいに。そうすりゃ、なくすなんてことないし、ずっと自分を支えてくれるっスよ」

「わたしの……一部」

 ケンジの言葉を噛み締めるように繰り返す紗映。

 うつむいた彼女に気がついたケンジは、大罪を犯したかのように慌てて頭を下げた。

「す、すいません紗映さん! 自分、紗映さんを傷つけるつもりはなかったんスけど……」

「……ちがいます」

 今度はブンブンと、首を横へ振る紗映。スプリングカメラを片手で押さえ、残った手で目元を拭った。

 ケンジを見上げた紗映の瞳には光るものがあふれていた。

「ありがとう、ケンジさん」

「紗映さん……?」

「わたし、それこそたいせつなことを見落としていました。でも、ケンジさんの言葉で気づけてよかったです」

「じ、自分、そんな大層なこと言ったっスかね?」

「はい。言いました」

 力強くうなずく少女にケンジはそれ以上尋ねない。自分がなにを言ったにしろ、彼女の笑顔に役立てたなら十分だ。そして笑顔を絶やさない少女が、ケンジはただ、どうしようもなく愛おしかった。

「じゃ、じゃあ帰りましょうか。そろそろ夕食の準備をしないと」

「そうですね。あっ、そのまえに一回、家によってもいいですか? 父の着替えを持ってきたいんです。それとこれ、なおしてきたいので」

 カメラを紗映が持ち上げる。

「いいんスか? 自分の言ったことなら気にしなくても……」

「いえ、そうじゃないんです。このカメラは母のたいせつなもの。こわしたらたいへんです。使いもしないで持っているのは、やっぱりよくないとおもうんです。それに……見てくれているとおもいますので」

 たしかめるように紗映がゆっくりと言葉を紡ぐ。

 彼女の道はまだ始まったばかりだが、きっと強く歩いていけるのだろう。ケンジは胸を張って言える気がした。

「こんど、みんなで撮りましょ紗映さん。道場のみんなと、紗映さんとお父さんも。お母さんもきっと喜ぶっスよ」

「はいっ!」


 夏の夕暮れは長い。

 紗映とケンジが真都のアパートに着いたときもまだ、ぐずるように橙色が二人をつつんでいた。

 親子が借りているアパートは古い二階建てで、住宅地のなかにある。周囲は昔ながらの一軒家が多いものの、少子高齢化のあおりを受けて持ち主が変わったところも多い、とケンジは秋江に聞いたことがあった。

 荷物を取りに階段を駆け上がる紗映のあいさつが聞こえると、大家とおぼしき老夫人が階段を下りてきた。

「こんばんはっス!」

 直角のお辞儀をしたケンジに、大家がぎょろりと目を向ける。何度か紗映の見送りで面識があるはずだが、よっぽどケンジが怪しく見えるのか、これまでもあいさつを返されることはなかった。ケンジも慣れていたし、気にする性格でもない。

 だからすれ違いざまに声をかけられ、ケンジは面食らった。

「……あんた、比護んとこのボウズだね?」

 比護、と言われ一瞬とまどったケンジだが、秋江の旧姓であることを思い出してうなずいた。

「はい、自分は護拳流道場の門下生っスが……」

「よそもん入れたね?」

「……よそ者?」

 包丁のような大家の鋭い問いにケンジは動じない。人に威圧されることなど慣れすぎていたからだ。

 だだ、大家の言葉に言いようのない不安を感じ、目を細めた。

「人は悪くないんだが、ありゃ騙されたタチだね。越してくるまえに跡、つけられたね」

「なんのことっスか?」とケンジが尋ねても大家は小さな声でつぶやくだけで答えようとしない。その目がちらりと、二階に向いた気がしてケンジの嫌な予感が増していく。

「ボウズ、気ぃつけな。ここいらは比護のシマだが、あれも歳だ。むかしほど目は回せんよ」

 大家の曲がった背中が発した警告。それはあまりに抽象的で、まるでからかっているような台詞だが、老夫人の言葉がケンジの耳について離れない。

 秋江と真逆な物言いは、けれど師匠の言葉に似た重みがあった。

「ちょっとまってくださいっ! それって……」

 背を向けた行く大家を追いかけようとして、自分の名前をよぶ声に足を止めた。

「ケンジさん?」

「あっ……紗映さん。おかえりなさいっス」

 階段を降りてきた紗映がケンジの視線を追って首をかしげる。

「大家さんがどうかしました……?」

「い、いや、ごあいさつしただけっスよ」

 取り繕うようにあわてて後頭部をかいたケンジ。勘が、紗映に大家の言葉を確認しておかなければ、と告げているものの、手提げ袋を抱えて「そうですか」と不思議そうにする彼女を一瞬たりともケンジは悲しませたくなかった。

「ささっ、道場へ帰りましょ。暗くなってきましたし」

「まだ明るいですよケンジさん」

 ハハッ、と笑いながらもケンジが紗映の背中に手を回して急かす。

 普段なら、脅されてもできない動作だが、そんなことはケンジの頭になかった。ただどこからともなく、まとわりつくような視線が自分たちを囲んでいる気がして、ケンジは、とにかくここから紗映を離さなければ、とそれだけを考えていた。

 ケンジの考えは間違っていない。その直感も、だ。

 ひとつだけケンジが見誤ったとすれば、だれもが"正面から挑んでくる"わけではないこと。

 アパートを離れていく、長い二つの影。

 その影が去るのを待つように、ブルルっとエンジンの音のかかる音がすると、アパートから二軒ほど離れた駐車場から一台のバンが大通りに向かってゆっくり走っていった。

 箱形の車体をよく見れば、塗装ではなく、車用のステッカーでバナナ色のラインが雑に描かれている。『ハスカ宅急便』と、ありそうで存在しない運送会社のロゴまでシールしてあるバンは、いかにも"配達中"といった様子だ。

「いたぜ、ヤズ」

 ドライバーがバックミラーへチラリと目を向ける。荷物が満載されているはずの後部座席にヒゲ面の男が腰掛けていた。

「よし、出せ」

 ヒゲ面が満足げにつぶやくと、バンはそのまま走り去っていった。


 翌朝。親子のアパートでは朝から痛そうな声が続いていた。

「おとうさん……だいじょうぶ?」

「へいき、へいき……痛たたっ……」

 言った矢先から顔をゆがめる真都が娘に支えられ、食卓の椅子にそろりそろりと、腰を下ろす。まるでギックリ腰だ。

「だいじょうぶじゃないじゃん……秋江さんにいただいた軟膏、塗った?」

「塗った塗った。でなきゃ、歩けないよ」

 しきりにうなずく真都の腰には腹巻きにもみえる幅広のベルトが巻かれている。いわゆる、『腰痛ベルト』だ。

「秋江さん、ヒドいとこあるよね。わたしが怒ってもぜんっぜん、すまし顔だったし」

 台所で朝食の準備をする紗映は少し、不機嫌だ。食器の音がいつもより大きい。

「紗映。これはぼくのせいだよ。一回でやめようって師範はおっしゃってたのを、ぼくが『お願いします』ってなんども頼んだんだ。自業自得だよ」

 おそるおそる背筋を伸ばしたり屈めたりしながら、真都が説明する。

 昨晩から何度も紗映に話しているが、道場で畳から二人がかりで抱え起こされる父親の姿がよっぽどショックだったらしい。温厚な紗映があの秋江に臆することなく、食ってかかるさまは真都にも意外で、そして少しだけうれしかった。真都の気持ちを察してか、秋江はだまって紗映の抗議を聞いていた。

 きょう道場へ行ったら、秋江に礼を言おうと真都は決めていた。

「でも、運動なんてこれっぽっちのおとうさんをこんなにボコボコにするのは、やりすぎだよ」

「ははっ……よろこんでいいのかなあ、それ」

 頬を引き攣らせた真都のまえに、ドンッ、と茶碗が着く。

「秋江さんってもうちょっと、やさしい人だとおもってたのに」

 味噌汁と焼き鮭をならべ、紗映が台所に引き返していく。香ばしい鮭の匂いが味噌汁のやさしい湯気につつまれ、一日で一番落ち着く朝のひとときだ。

 真都は食卓へ戻ってきた紗映を呼び止めてから、ゆっくりと首を横に振った。

「師範ほどやさしい人をぼくはみたことない」

 紗映が食卓についたのをみて真都が続ける。

「そりゃ厳しいよ? 特に空手と、心構えのない相手にはね。容赦ないっていってもいいかもしれない。でもそれは、相手のためなんだとおもう。思いやりだよ、ホントのね……って、どした紗映?」

 もの珍しそうな顔で真都を見つめる紗映。まるで、"人が変わった人"を見るような目だ。

「おとうさん、なんか……いいこと言ってる」

「……おいおい紗映。それじゃぼくがダメ親父です、っていってるようなもんじゃないか」

「そんなことない……よ?」

 目を逸らした紗映が「いただきます」と味噌汁をすする。

 途端、あちっ、と舌を出した。手で扇いで風を送っている。

「ははっ! 相変わらず紗映は猫舌なんだなー」

「ひーから食べてっ! 遅刻するひょ?」

「はいはい」

 頬を膨らませた紗映に睨まれ、真都も箸を持った。さきより腰の痛みもやわらいだ気がする。

 こんな朝はいつ振りだろうか。

「いただきます……あつっ!」

 ただ、味噌汁はいつも以上に熱かった。


「いってくるよ紗映」

「はやいね、おとうさん」

 朝食をほぼ同時に終わらせると、片づけを紗映に任せた真都が席を立った。

 ジーンと腰はまだ重いが、だいぶ楽になった。掃除と道着の畳み方くらいはできそうだが、稽古は遠慮させてもらうしかない。

「なにかと面倒みてもらってるんだし、ただでさえぼくは役に立たないんだから、雑用くらい率先してやらないと」

 玄関の壁に掛かった紺のテーラージャケットへ真都が手を伸ばしかけ、横からさっと、さきを越される。

「こんど、クリーニングに出しとくね。はい、腕ひろげて」

「いやあ、クリーニング代がもったいない」

 言われるがまま、広げた腕に紗映が袖を通していく。

 偶然なのかもしれないが、左腕から羽織らせていく手つきは驚くほど、映美里そっくりだ。

「おとうさんっ? これ、ママからの誕生日プレゼントでしょ? たいせつにしないとダメじゃない」

 そうやって小言を言うところも彼女に似ていて、真都はただ黙ってうなずいた。

「……ありがとう紗映。そうだな。たいせつにしなきゃな」

 正面に回った紗映の身長は、真都とさほど変わらなかった。真都も背が高いほうではないが、いつしか同じ高さに愛しい目があった。

「うんっ、これでよしっと」

 うなずいた焦げ茶色の瞳を真都はおもわずぎゅっと、抱きしめたくなる。子どもの成長は早いというが、いつから娘は自分よりも大人になったのだろうか。

「ぼくがしっかりしないから、か」

「なに、おとうさん?」

 つぶやきはしっかり聞かれていたようで、紗映が首をかしげる。

 ボブカットの頭に真都がポンと、拳を置いた。

「……いいや、なんでもない」

 だからといって娘に甘えっぱなしはいけない。充分甘やかしてもらったし、いい加減シャキッとしないと彼女に叱られそうな気がした。

 だから真都はハグを堪え、背筋を伸ばす。

「おとうさんもがんばるから、紗映も学校、がんばってこい」

「うんっ!」

「……あ、でも、いやだったら別に無理していかなくても……」

「もうわかったってば。はやく出るんでしょ?」

「はいはい……押すなって紗映っ。いってきま~す」

「いってらっしゃいっ」


「さてと、そろそろ行こうっかな……」

 真都を追い立てるようにアパートから出し、朝食の片づけを済ませた紗映。リビングの時計は登校時間を指していた。真都が道場に通うようになって以来、紗映は朝の散歩に行っていない。

 河原をぼぅっと眺めようと前ほどおもわなくなったし、朝が忙しくなった。秋江へ話すと、「散歩は歳とってからでもできるいね」と笑っていた。

「ピンポーン」

 玄関チャイムが鳴ると続けざまに、男の声で「ハスカ宅急便ですー!」と響いた。

「こんな時間に宅急便? おとうさん、なんか買ったのかな……?」

 真都はたまに通販で日用品や本を買うことがある。ここに引っ越してきてからはその回数も減ったものの、もしかすると、道場で必要な物を買ったのかもしれない。

「はーい」

 紗映がドアを開けると、作業着に腕章を着けた人の良さそうな宅配業者が頭を下げてきた。

「おはようございます。すいません、ここ、ツキシロ・マコトさんのお宅で合ってます?」

「そう、ですけど……」

 まっすぐ目を見つめてくる宅配業者にかすかな違和感を紗映は感じた。住所の確認なら段ボール箱の伝票を見るはずだし、真都の姓は珍しい。"ツキジョウ"と呼び間違える人も多いのに、ボールペンを差し出すこの業者は、一発で"ツキシロ"と呼んだ。

「ならよかった。サインお願いしますねー」

 紗映の違和感を知ってか知らずか、にこっと笑った業者は紗映の署名を待っている。髪をかき上げるふりをし、ちらりと下の階をみると作業着と同じロゴのバンが見えた。

 知らない名前だが、だからといってその宅配業者がないとは限らない。宅配業が人手不足なのは紗映も知っている。

「……はい。ありがとうございました」

 伝票を手慣れたようすでちぎり、宅配業者から小ぶりな段ボールを受け取ると意外に軽く、なにも入っていないのではないかと紗映がおもったくらいだ。

「どうもー」

 帽子をさっと取ってお辞儀すると、足早に宅配業者は階段を降りていった。アパートの階段は急で、住んでいる紗映でも注意していないと足を踏みはずしそうになる。バンへ乗りこむ背中を見送りながらそんな感想が口をついて出た。

「あのひと、運動神経いいんだね」

 玄関を閉め、届いた荷物を食卓に置く。真都の部屋に持っていきたいが、そろそろ家を出ないと始業に間に合わない。

 今度こそ支度をしようと、荷物へ背を向けた矢先、《段ボールが鳴りだした》。

「えっ……?」

 くぐもった軽やかな電子音に固まる紗映。まわりを見回しても、音の出るような物はない。

 高校入学のとき、真都が携帯電話をプレゼントしてくれたが、家計が苦しくなってから紗映自身の希望で契約を切っていた。真都はハローワークの連絡用に携帯を持っているが、もちろん今は家にない。

「爆弾……じゃないよね……?」

 昔、紗映が観た映画のなかでは箱を開けると、大爆発が起きる。とっさに頭に浮かんだのは、自分の部屋にある母のカメラだ。

「窓ガラス、割れるかな……」

 間一髪でガラスを突き破り、脱出する映画スターの姿が頭を掠める。

 部屋の窓から飛び降りたら骨折するだろうか、と考えが逸れそうになったところで、電子音がピタリと止んだ。

「『……もしもし? ツキシロさん? ハマチ金融のヤズですがね』」

 想像力が豊かな紗映でも箱がしゃべった、とおもうほど天然ではない。

 それに、ヤズと名乗った声の持ち主は、記憶にある名前だった。たしか以前、真都が「世話になった」とか言っていた。

 おそるおそる開けると、段ボールに小さな液晶のついたシルバーのPHSが緩衝材に埋もれるように入っている。エメラルドグリーンの液晶に『ユーザー非通知』の文字が素っ気ない。

「……あの、もしもし?」

「『おやっ? 人ちがいかな。申し訳ない。失礼……』」

「いえっ! ツキシロ・マコトの娘です。父にご用でしょうか?」

「『お嬢さんですか。はじめまして。いやぁ~よかった! お父様と連絡がつかなくて心配していたんですよぉ。実はですね、お嬢さん。お父様は以前……』」

 紗映の頬がみるみるうちに青ざめていく。壁の時計が警告するように秒針を揺らすが、家にただ一人の住民は固まったように動かない。

 同じ頃、アパートに程近い廃屋の駐車場で、一台のバンが駐まっていた。肩と頬で携帯電話を挟んで通話中のヒゲ面の手には剥がし終えたばかりのステッカーが丸められている。もう一人の作業着の男が上着を脱ぎ、準備してあった古いドラム缶へ投げ入れると、ズボンのポケットからマッチ箱を取り出した。

 ヒゲ面の男がステッカーを放り込むと同時に、ぼうっとドラム缶から火の手が上がる。

 《真っ白な》バンへ乗りこむヒゲ面のアゴがニヤリと笑っていた。


「真都! ボトルをちょうだい」

「真都さん、道着をもってきていただけません?」

「お義父さん! じゃなくて真都さん、自分がやります!」

 とは、秋江、師範代の春江、そして次々に用を言いつけられ道場を駆け回る真都へケンジがかけた言葉だ。畳んだ道着の上に載せた水筒がフラフラ揺れている。倒れる寸前にボトルをキャッチしてくれたケンジへ礼を述べてから、真都が重ねた道着を脇に挟んだ。

「ケンジ君ありがとう。ぼくの仕事だから、自分でやるよ」

「でも腰が痛いのが顔に出てるっすよ?」

「ははっ。大丈夫。ほら、早く行かないと師範に……」

「ケンジっ! 人の仕事の邪魔せんの! 油を売ってる暇があるんなら私と組み手!」

 ひっ、と首をすくめたケンジの肩を叩いて「じゃ、これ持ってって」と秋江の水筒を手渡す。小走りに去っていく背中を眺め、これも秋江の気づかいなのだということが今の真都にならわかる。師範の顔の秋江にとてもそんなことは言えないから道着を抱えなおして先を急いだ。

「比護はおるかい?」

 道着を届け、給湯室で流しを磨いていると真都の横でノックもなく勝手口が開いた。秋江の名前を呼びながら勝手知ったる様子で顔を上げた老夫人に真都の手が止まる。老夫人もそこに真都がいると思わなかったらしい。窪んだ目が一瞬、見開いて視線を逸らした。

 紗映になにかあった、と父親の勘が警鐘を鳴らす。

「大家さん……? どうしてここに?」

「……比護に用があったんだがね」

 秋江の旧姓だとは知らない真都の表情に大家が諦めのため息をついた。

「あんた、客が来とるよ。生活が詰まっとっても金貸しは慎重にえらぶべきだね。それと良い子なのは結構だがね、あんな胡散臭い連中を家にあげるのは……」

「紗映っ!」

 血相を変えて飛び出していった真都の背中へ、やれやれとばかりに大家がため息を漏らす。ここに来ているということが、事態はそれほど切迫していないという証拠なのだが、あの様子だと気づいていないだろう。真都の慌てようは老夫人の予想通りだった。

 割烹着の袖から最新型の携帯電話を取りだし、道場へ歩いていきながら学生ばりの指さばきで写真を呼び出していく。宅配業者のステッカーが貼ってあるバンに運転手の顔、荷物の受け渡しをする運転手と紗映を上から見下ろす視点の映像から、望遠レンズで撮影した制服を燃やす男と電話中の背広姿の写真が次々に流れていく。

 廊下を進み、畳の前で大家が足を止めると、ちょうど組み手を終えた秋江と目が合った。

「万藤(ばんどう)警視正」

「やめとくれ。大昔のことだよ。それより比護」

 はい、と改まってうなずく秋江が尊敬の目で万藤の言葉を待っている。古参の門下生なら皆が知っていることだが、秋江は元キャリア警官の万藤に頭が上がらない。若い頃にかなり世話になったらしいが、詳しいことを聞くほど勇気のある弟子はいない。

「ここんとこウロチョロしとった怪しい連中が見つかったよ」

「今どこに?」

 警官バッジよろしく携帯電話を掲げる。

「あんたとこの弟子ん家だ」


 道着姿が街を駆ける。商店街を抜け、建設中の大型ショッピングセンターの脇を抜け、真都は走った。蝉が鳴き出しはじめ、正午前で気温は真夏日に近い。日ごろから運動不足の真都の額はすでに汗にまみれていた。しかも裸足で道場を出たものだから、アスファルトに足裏が擦れて一歩一歩が地獄のようだ。

 それでも、真都は足を緩めない。痛みや周りの刺すような視線は頭になく、一人娘の姿だけが真都を突き動かしている。

 妻が亡くなる数日前、真都はたわいないことで言い争っていた。記憶とは自分に都合がいいもので、なにが原因だったのか、いくら頭を捻っても思い出せない。部屋を出る際、映美里が「紗映はあなたのこと、尊敬しているのよ。あの子をガッカリさせないで」と言っていたことだけは覚えているから、きっと、飲みつぶれて帰ったのを咎められて頭にでもきたのだろう。ぎくしゃくしたまま時間が過ぎ、結局、彼女は逝ってしまった。それが映美里との最後の会話だった。

 思い出すたび、真都は自分の愚かさに体が震えた。現実から目を背けるため仕事を辞め、酒に頼った。そんな自分を見放さずにいつも、支えてくれたのが紗映だった。娘は自分よりよっぽど、大人だ。でもまだ16歳でもある。

 だから、あの子を守ってやるのが自分の使命だ。映美里と一緒にこれからも、ずっと。

「紗映っ!」

 アパートの階段に足を取られながら二階まで這いずるように上り、玄関へ体当たりするように押し開く。鍵はかかっておらず、そのまま室内へ倒れ込だ真都に紗映が慌てて駆け寄った。

「お父さん?!」

「紗映……大丈夫か……?」

「うん」

 目を伏せた娘の視線を辿り、真都は目当ての"客人"を見つけた。二人組の背広が居間の食卓で向かいあって座り、そのうちヒゲ面の男、ヤズが驚いたように振り向いた。もう一人が見定めるような目をしながら食卓のグラスに注がれた麦茶に口をつけている。

「おや。ツキシロさん! しばらく見ないあいだになんというか、武闘家へ転身ですか」

「娘になにをした?」

「お父さん、ちがうの。お二人はね……」

「いいからここはお父さんに任せて」

「そんな怖い顔、しないでくださいよ~。われわれはお嬢さんのお茶をいただいていたところです。ツキシロさんもどうです? 突っ立ってないでこちらにいらしてくださいよ。いや~おいしい!」

 紗映に支えられて立つと、居間の中央へ歩きながら険しい表情を崩さずに真都が続けた。

「家まで押しかけるのは非常識じゃないか? 金はちゃんと返す。だから……」

「ツキシロさん」

 ゆらりと椅子からヤズが立つと、スーツのポケットに手を突っ込んだ。人の良さそうな笑みがなおのこと不穏な空気に拍車をかける。

 紗映を逃がしたあと、どのくらい二人を足止めできるか考えていた真都へ、ヤズが一枚の書類を差し出した。借用書の「住所変更欄」に真都が書いた住所に取り消し線が引いてある。

「こちらのアパートは4丁目の5の9『ハイツ・ボーリス』ですよね。3丁目に番地はないし、『ハイツ・アーバンセ』なんてありませんでしたよ」

 借用書は確かに字名(あざめい)まで正しいが、以降の番地が違っている。アパートの名前も『ハイツ』しか合っていない。

「いや、それは……」

 目が泳いでいる真都を遮ったヤズがわざとらしくため息をついた。

「ツキシロさん、ねえ。われわれもお客さんを疑いたくないし、番地くらい間違えるのはよくあることですからねえ。ですが、さすがにアパート名まで"ごまかされる"とねー。こっちもビジネスでやってるんですよー」

 と、ため息をもう一つ。真都がわざと間違えて書いたのではないかと非難しているのだ。

「まあでも、お嬢さんは理解がとても早くて、お父さんの代わりに書いてくださるって言っていただけたんだけど、未成年にそんなことはさせられないですからねえ。うちってほら、信用をだいじにしていますし。だから、お帰りを待っていたんですよ。いや~実に賢いお嬢さんだ」

 しきりに頷きながらヤズが椅子へ腰掛ける。出ていくつもりはまるでないようだ。相変わらず麦茶をすすっている物静かなヤズの相方が部屋の空気を重苦しくしている。

「ねえ、お父さん。お金をかりているってどうして教えてくれなかったの? うちには貯金があるんでしょ?」

 真都の代わりに答えたのは、ヤズだった。グラスを一口すすってから、薄笑いを浮かべて上半身を父子へ向ける。

「まあまあ、そんなにお父さんを責めるとかわいそうですよ。これも、お嬢さんのため思ってのことですからねえ。ねえ、ツキシロさん?」

 ニタニタと見つめてくるヤズから目を逸らし、真都が短く息を吐いた。紗映が疑問に思うのは自然なこと。家事のほとんどを任せてきたが、真都が通帳を見せたことはない。生活費はいつも、紗映に手渡ししてきた。

 だから娘に答えるのは自分の役目だ。金貸しにしゃべらせるようなことはしない。

「貯金はあるよ、紗映。でもそれは紗映の将来につかうお金だ。ママと……映美里と結婚したとき、約束した。二人で貯めたお金は紗映のためだけにつかう、ってね」

「うっう……。実にほほえましい美談! そういうわけでツキシロ家の生活費はわれわれが支えている、ということです。失業保険など微々たるものですし」

 ヤズの言葉に真都は拳を握りしめるしかない。自己嫌悪に溺れず、定職に就く努力をしていていれば新しい生活の地に彼らが押しかけることもなかった。ヤズの言うとおり、小手先だけのごまかしは状況を悪化させるだけでしかない。

「ヤズさん。住所の件はぼくが間違っていました」

 すみませんでした、と頭を下げる真都に紗映が心配とビックリしたような表情を向ける。母が亡くなってから、自分の非を認める真都の姿を見たのは初めてだ。

「お金はきっちり、返します。ですから、ここはお引き取りください」

「いやね、ツキシロさん。われわれも無理に取りたてようなどと考えていませんよ。長いお付き合いですしねえ。本当に"返せない"なら仕方ない。ですがね。ツキシロさん、おたく、返せるんでしょ?」

 上半身だけこちらに向けたヤズがおもむろに立ち上がると、襟を立て直した。チラッと覗いた首に灰青の痕が見える。営業スマイルを浮かべているが、まばたきしない目は笑っていない。

 顔を上げた真都のツバを飲み込む音が紗映には聞こえた。父が緊張しているのがわかる。

「貯金は……使えません」

 決然と断る真都の声に食卓を叩く乱暴な音が重なる。

「ガンッ!」

「綺麗事ばっか言ってんじゃねぇよっ! 借りたもんは返すのがジョーシキってもんだろが! あん?」

 飲み干したグラスが衝撃で倒れ、テーブルを転がった。ビクッと震えた紗映を背中に庇いながらジリジリと真都が玄関へ下がる。

「おっと、お話はまだですよ」

 ヤズに先回りされ、真都の額を汗が流れた。出口をヤズに塞がれ、前からはズカズカとヤズの相方が詰め寄ってくる。後ろで握った紗映の手が小さく震えていた。

「ツベコベ言ってねぇで、さっさとカネ出しな! さもねぇと……」

 相方の言葉は最後まで続かなかった。

「ガシャーンッ!!」

 車が突っ込んだような衝撃と共にアパートのドアが室内へ弾け飛んだ。近くに立つヤズを正面から打ったドアがそのまま背広姿に覆いかぶさる。飛び散った蝶番の一つがスコーンと、ヤズの相方の額をクリーンヒットした。

「さもないと、なんだい?」

 一段と低い声で威厳たっぷりに言い放ったのは、道着の秋江だ。戸口に仁王立ちになり、腕を組んでいる。逆光と相まって神々しさすらある。

 そんな秋江の側からぬっと影が部屋に滑り込んだ。

「紗映さぁああん!」

「け、ケンジさん?!」

「怪我はありませんかっ! 遅れてすみませんっ! もう一人にしませんからぁ!」

 一直線に親子の元へ走ってきた道着姿は汗と涙でひどい顔だ。入ってくる途中、ちゃっかり踏みつけたヤズがうめき声を上げる。

「ヤズ?! おいっ。おまえら、だれだ?!」

 頭をブルッと振り、ヤズの相方が啖呵を切った。

「こんなことしてただで済むとおもうなよ! こっちは住所も知ってんだからな」

「脅迫だね、それは」

 しっかり録らせてもらったよ、とは、秋江の後ろから戸口をくぐったアパートの大家の言葉。曲がった腰から手のひらサイズのボイスレコーダーを掲げてみせると、慣れた手つきで縁のボタンを操作する。クリアに流れる"脅しの証拠"に、額の中央が赤いヤズの相方が口をあんぐりさせた。

 ボイスレコーダーを仕舞い、倒れているヤズへ目をやると万藤がギョロリと秋江に向いた。

「修理代はちゃんと払ってもらうからね。まったく、いくつになったら血の気が減るんだか」

「感謝します、警視正」

「け、警視正?!」

 文字通り、飛び上がって驚くヤズの相方の前を塞ぐようにケンジが一歩、前に出る。さすがに分が悪いと悟ったのか、大きなため息をつくとドカッと、床にあぐらをかいた。そちらには目もくれずに秋江が軽くと頭下げると、万藤は最後に紗映親子を順に見回してから去っていった。

「ケンジ、その人に手を貸してあげなさい」

「はい」

 ドアを退けてヤズを助け起こすケンジの横から秋江が固まっている親子へ歩いていく。

「秋江さん、ありがとうございま……」

「ベシッ!」

 ホッとした紗映に飛んできたのは平手と、きつい叱咤の言葉だった。

「無用心にも程があるよ、紗映。知らない人間を家にあげるなんて、私はもう少し分別がある子かとおもっていたけどね」

 頬を手で覆って目を見張る少女に、秋江は険しい表情のまま、

「大家から聞いた。相談したんじゃろ? 止めたのにどうして聞かなかったんだい。電話が郵便で届くなんて怪しいったらありゃせん。なにかあってからじゃ、遅いんじゃけ」

「わたし、お父さんが大事な書類を書きまちがえているって聞いて、どうにかしなきゃって」

 ケンジに支えられて椅子へ腰掛けたヤズを秋江が見ると、ヨレヨレの背広姿は「ご本人に聞いてください」と臆することなく肩をすくめた。

「師範。ぼくのせいです。元はといえば、ぼくがしっかりしなかったからこんなことに」

 悔しそうに唇を嚙んだ真都が娘に向き直る。

「もうこんなことにならないって約束する。だから紗映、無茶はしないって約束してくれる?」

「うん。お父さん、秋江さん、ごめんなさい」

 ペコリと頭を下げた少女に秋江も安堵のため息をつくしかない。

 そんな三人へ、皮肉たっぷりの声が水をさした。

「感動のシーンのところ申し訳ないんですがね。ツキシロさん。われわれも無礼がありましたし、お互い、そこんところは《不問》にするとしても、《契約》はまだ残っていますが」

「あんた、人ん家に押し入っといてまだそんなことっ……!」

「ケンジっ!」

 いきり立つ弟子を制し、師匠が借金取りに淡々と尋ねる。

「手荒な真似をしたことはすまなかったとおもいます。治療費は私がお支払いします」

「話のわかる方がいてよかった! どういう関係か存じませんが、あなたのところの弟子はわれわれに貸しがありましてねえ。ほら、アクション映画でもよく言うじゃありませんか。貸しはきっちり返す、ってねえ」

「脚色された物語と現実はべつもんです。映画なら、あなた方は《悪役》ということになる。私の役どころは通報することになりますが?」

 顔色ひとつ変えず切り返されたヤズの顔が引きつっている。

 そんな借金取りに、腕組みを解いた秋江がふっと、表情を緩めた。

「とはいえ、あなたの言ったことも筋が通っています。弟子の責任は師匠の責でもある」

「さすが黒帯。では、連帯保証人としてこちらに署名と捺印を。あっ、指印でもけっこうですよ」

 そそくさとスーツの内ポケットから書類とペンを取り出し、食卓に広げる。円形のスタンプ台を横に置くあたり、切り替えの早さはプロというべきなのかもしれない。

「師範、それはダメです。お金はぼくがちゃんと……」

「ヤズさん、と言ったかな?」

 ペンを手に取り、笑みを堪えきれない背広姿を振り返る。

「え、ええ」

「名刺をいただけますか。それから一筆、『今後、ツキシロ氏および親族には近づかない』という内容の誓約も、そちらのお連れの方と、ご所属の名前入りでお願いします。もちろん、指印でもかまいませんよ」

 ニッと笑った秋江を前に、ヤズは固まったまま、しばらく動けなかったのだった。


 *  *  *


「秋江ばあちゃん、よく借金を肩代わりしたよな。自分のことは自分の責任で、って普段からあんなに言ってるのに」

「あんたバカなの?」

 とは、ついさっきまで焼き栗屋の店主からもらった栗を頬張っていた、雪江の言葉である。耳ざとく雄桜(たけお)のつぶやきを聞きつけた従姉は、祖父の家へ向かう道すがら、二人が幼かったころのエピソードを従弟に話させては時々、補完するように口を挟んでいた。

 余所様には女神のようなスマイルを向けておきながら、実の従弟にはこの物言いである。

「はいはい、オレはどうせ、街のヒーローのおまけですよ」

 荷物のすべてを雄桜に任せ、焼き栗の大袋を平らげた雪江の足取りは軽く、鼻唄まで口ずさんでいる。麦わら帽子を押さえ、ワンピースを翻すその姿は確かに行き交う人々が目を留めるには充分だ。セミの声が騒がしい暑さの残る黄昏時に、素朴な雪江のメロディが冷水のように染みわたる。

「怪しい借金取りに紗映さんたち、家を知られてたんだよ? おばあちゃんがその場で返済してなかったら、いつまた連中がやってくるかわからないじゃない。誓約書なんて形式的なものに過ぎないし」

 口をとがらせた従弟のズボンに焼き栗の袋を突っこみ、聞き分けのない生徒を諭すように人差し指を立てる。

「それに、真都さんはあの後、アルバイトを掛け持ちしておばあちゃんにお金返して、引っ越しのお金まで稼いだんだから、自分で責任を取ったってことよ」

「でもさ、やっぱり引っ越すしかなかったのかな、マッコにぃたち?」

 真都さんにずいぶん遊んでもらってたよね、とニタリ顔の雪江。

「紗映さんにも可愛がってもらってたからコックオー、最後は泣いてたもんね」

「雪女もな」

 やり返す雄桜を華麗にスルーした雪江が遠くを見つめる。

「紗映さんの大学も遠かったし、しばらく怪しい車もウロウロしてたから仕方ないって。ま、ケンジがついてたから心配いらなかったけど」

 借金取りの一件の後、ケンジと紗映は正式に付き合い始めたことをきっかけに道場を止めて消防士の道へ。紗映は引き留めたが、ケンジの意志は固かった。ケンジの過去になにがあったのか、雄桜は知らないが、「頃合いだ」と誇らしげに見送った秋江の表情がいまでも記憶に焼きついている。

 大学卒業を機に昨年、二人は晴れて夫婦となり、披露宴には雄桜と雪江も招待され、新婚夫婦の幸せな顔と号泣しっぱなしの真都を励ます秋江の姿が印象的だった。ちなみに、真都は紗映が結婚した後、コンサルタント会社を起業したそうだ。秋江に助けられた経験を生かし、自分のように困っているシングルファザー・マザーの手助けをしていきたいと、秋江がほくほく顔で雄桜たちに語ってくれた。

「あ〜ホント、ケンジってば良い人に巡り会えて幸せもんだよ。リサも喜んでる」

 大きく伸びをした雪江の髪を夕風がサラサラ流していく。

 始めて聞く名前だが、ケンジの過去と関係していることくらい、雄桜にも想像がつく。なんだかんだとこの従姉は情に厚い。きっと、ホッとしているのだろう。夕陽に照らされた穏やかな顔がすべてを物語っている。詮索するのは無粋というものだ。

「そうそう」

 従弟の気遣いはどこ吹く風、わざとらしくうなずいた従姉に雄桜の勘がイヤなものを告げる。体を固くした荷物持ちを夕蝉がジィジィとあざ笑っている。

「コックオーが料理に目覚めたのも、紗映さんたちが引っ越しちゃったあとだったよね。おじいちゃんのお店にやったきた見目麗し〜い《オネエさん》に一目ぼれしてさ。目移り早いんだからぁ。お姉ちゃん、心配よ?」

「……うっさい」

 雄桜が小学生のような返事しかできないのは、従姉の指摘が図星だからである。それに加え、後の展開を思い出すと恥ずかしくてぐうの音も出ない。

 いま思い出しても信じられないことに、あの日、偶然に祖父の店で出くわしたその人を、中学生になったばかりの雄桜は好いてしまった。しかも、なにを考えたのか、自分から周囲に言いふらし、挙げ句、突撃したうえに撃沈した。その人に言われた言葉は忘れられない。「やめておいたほうがいいわ。あなた、女の子が好きなんでしょ?」。

 そう、その人は、生物学的には男性だった。

 確かに体格がよく、力も強かったから逞しい人だと雄桜も思っていた。けれど、その人は初めて会ったときから雰囲気が柔らかく、テキパキと動く様は芯の強さを思わせた。訳あって着ていたチャイナドレスにお団子ヘアが雄桜の好みかどうかは別として、その一生懸命な姿に、雄桜が憧れを抱いたのは間違いない。とても口にはできないが、自分の弱さを知っている雄桜自身、いまでもその人を心から尊敬している。

 夕陽のせいか、むくれたうえに頬が赤い従弟をさらにいじろうかと本気で考えていた雪江を呼び止めたのは、無理して高い声を出しているのが丸わかりな、蝶ネクタイにスキンヘッドのサングラスだった。

「あっらぁん? ユッキーじゃないの!」

 通りの隅々まで聞こえそうなバリトンボイスが狂喜しながら両手を突きあげた。

「ミィちゃん!」「っ……」

 神々しい光を放つスキンヘッドが軽やかにスキップし、乙女のようにヒラヒラさせる手は肉厚だ。指輪のめり込んだ指はさながら貴族で、はち切れんばかりの腹囲が特注とおぼしきショッキングパープルのワイシャツを膨らませている。

 大の男でも逃げ出すだろう迫力で突進してくるバリトンボイスは、意外にも滑らかに減速すると、なぜか対照的な姉弟の、目を逸らしていた弟へ抱きついた。

「しばらく会わないうちにますますキレイになっちゃって、アタシ、ジェラっちゃうわ!」

「ちょ、ビミコさん……苦し……」

「ミィちゃんこそ、肌つやがよくてうらやましい! 秘訣をおしえてほしいくらい」

「イイものをたくさん摂ること、よっ」

 サングラスをずらしてウインクする姿はちょっとした任侠映画の登場人物だ。そんな相手に「やっぱり食べるのって大事よね」と姉妹、もとい親戚みたく雪江が目を輝かせている。この二人は昔から異様に気が合う。当然、雄桜への接し方も変わらない。特に、雄桜が告白したことが雪江に知られてから。

 ミィちゃんこと、彼もとい彼女の名は美未子という。独り立ちしてから十年あまり、昨年ようやく改名にこぎつけた。戸籍上の性別と名前を変更するには、古く固まったこの国では岩を動かすより難しい。制度以上に周囲からのバッシングも多かったと、雪江から聞いている。

 美未子の職業は、フードメンターだ。それも名の売れた有名人である。雄桜は料理評論家だと思っているが、それを言ってひどい目に遭ったことがあるので黙っているが。  普段は首都や都市部の料理店を練り歩き、歯に衣着せない意見を残していく。美未子の批評は詳細な分析結果だ、と某有名グルメ評論家が評した通り、その助言を参考に工夫を施した店は軒並み、客の数がうなぎ上りだそう。評判が評判を呼び、いまでは星を付けることで有名なレストランガイドのメンターを務め、世界中を飛び回っている。海外の経験は美未子に個性を誇りに思うことの大切さを教え、誹謗中傷を乗り越え、念願の「女性である」ことが認められた。自身のいっさいを隠し立てしない彼女の姿は大勢に勇気を与え、カリスマ的な人気を博している。

 そんな美未子が何年かぶりに雄桜たちの地元を訪れているのだから、雄桜も驚くわけだ。

「ふ、フランスにいるんじゃ……」

 美未子の手には縦長の手提げ袋が下がっている。つや消しのされた厚手の高級紙に書いてある筆記体が読めなくても、中身の予想はつく。

「Exactement(イグザクトモン). ブルゴーニュのシャブリ・ワインは格別よ!」

 絞め技をかけられながらも食材のレジ袋を離さないのは、この人物の前で素材を無駄にするとどういう目に遭うか、想像もしたくないからだ。外見のまま、というべきか丸太のような腕の力はとてもただの美食家ではない。そして散々、その美食家にかわいがられてきた雄桜の鼻が慣れた香りを嗅ぎ取る。

「八角とクコの、実……?」

「やっと気づいたのねっ! もうっ、相変わらずの鈍感ぷりねぇ、桜の坊や。このまま絞めてママンにお料理してもらっちゃうところだったわ」

 ようやく腕を放すと咳き込む雄桜の背中をバンッと叩いて高笑いが続く。正直、周りの目線が痛いが、雪江の姿を認めると皆、納得の表情を浮かべるのだから従姉の顔の広さは恐ろしい。

「ぐほっ……母の店に、行ったんですか?」

「そうヨン。『華龍』のマーボーは変わらないわね。花椒(ホアジャオ)の効きが絶妙。辛さの中にも大豆の香りが立っている。絹ごし豆腐の喉ごしもすっきりしているわ。四川のものとはべつだけど、日本人の味覚に合ってる」

 腕を組んだ姿はまるっきり相手の生殺与奪を握ったと言わんばかりだが、コメントはいかにもプロらしい。幼い頃から食べ慣れている雄桜でさえ、豆腐の大豆の風味まではわからない。中華の鉄人と呼ばれた雄桜の祖父、秋雄をもってして『天賦の味覚』と言わしめた美未子である。声量が大きいだけのユニークなサングラスではない。

「ママンが嘆いてたわよ」

 と、サングラスの奥の目がじろりと向く。実際に見えたわけではないが、射抜れているのはわかる。短いため息をつくと、雄桜はレジ袋を持ち直した。

「店は継ぎませんよ。オレは趣味で作っているだけです。……プロには、なれません」

「オネエさんに『中途半端』、って言われたからかしらン?」

 美未子の言葉に雄桜はぐうの音も出ない。キリキリと手にレジ袋が食い込む。

「……才能がある美未子さんにはわかりませんよ」

「あら。師匠に聞いてないの?」

 腕組みを解いてスキンヘッドを撫でる美未子。額の皺が、素で驚いていることを語っている。雪江も何のことかわからないらしく、麦わら帽子を傾げた。

「おじいちゃんがなに?」

「ムフフ。師匠らしいわネ。で、ユッキーたちも師匠のお家へ行くとこ?」

 会話の流れについていけず、雄桜が「なんでわかるんですか」と眉をひそめる。

「もうっ、鈍感ボーイったら。きょうは敬老の日じゃない。ま、師匠はまだまだ若いけど」

「てことはまさか……」

 後ずさる雄桜の肩を美未子ががっしりつかむ。

「袋の中は卵に栗、大葉とシメジね。ふう〜ん、相変わらず桜の坊やは、和食なのね。久々に愉しませてもらおうかしらン」

「ついてくるんですか⁈」

「あたりまえでしょ」と、雪江のチョップが脳天に突き刺さる。

「いてて……なんでオレばっかり……」

「やっぱり仲イイわね。じゃ、行きながらオネエさんが昔話、してあ・げ・る」

 サングラス越しのウインクは、やはり迫力満点だった。


 *  *  *


 秋雄の親戚筋に、味香智秀(あじか・ともひで)という《青年》がいた。

 親戚といっても遠方に住んでおり、遠い叔父にあたる秋雄が智秀に会うのは年に一、二回の法事かお盆くらいのこと。秋雄の印象では、物静かで礼儀正しい体格の良い青年だった。ただ、昔気質な青年の親が嬉しそうに「将来は立派な男になるな」と酒をあおった時の反応が、なにかを堪えているようで気にはなった。

 そんな智秀が突然、秋雄のところへ転がり込んできたのは、雪のちらつく日の朝だった。店の仕込みに調理場へ立っていると、勝手口から物音がする。猫でもいるのかと秋雄が覗くと、薄手のパーカーを羽織っただけの裸足の智秀がうずくまっていた。霜焼けのように真っ赤な頬に、凍った涙が痕を残していた。

 事情を聞きたいが、秋雄にも店がある。

 当時の『華龍』はオープンから五年が経ち、ようやく常連客もついてきた頃だった。ここで息を抜けばあっという間に築いたものを失う。『華龍』は秋雄が脱サラして立ち上げた店だ。呆れながらも賛成し、店が軌道に乗るまでを見計らったように病でこの世を去った妻のためにも、『華龍』はなんとしてでも切り盛りしなければなれない。

 幸い、智秀に目立った外傷はなく、受け答えもはっきりしている。ここへ来た理由を言わないが、秋雄も尋ねなかった。熱い葛湯を手渡し、二階の母屋を案内して店に戻る頃には二人しかいないスタッフも掃除と準備に立ち回っていた。

 昼の繁忙時が過ぎ、秋雄が余り物でこしらえたチャーハンを持って二階へ行くと、智秀は床掃除をしていた。「もう大丈夫か」と目をパチクリさせる秋雄に智秀は気づかなかったらしく、廊下の端まで雑巾掛けしてくると「きゃっ⁉」と叫んで腰を抜かしてしまった。ぽかんとしている秋雄と智秀のあいだで、「ぐぅ〜」とお腹の音が鳴る。


「……そうか」

 母屋の寝室で正座した智秀に向かいあい、一通り話を聞き終えた秋雄は、それ以外に言葉が見つからなかった。智秀の足元には空になったチャーハンの大皿と湯呑み、洗濯したパーカーがキチンと畳まれている。今の智秀は秋雄のポロシャツとスラックスを借り、審判を待つような固い表情で膝に置いた拳を握りしめている。

「父親は、『二度と家の鴨居をまたがせない』と言ったのか?」

「はい。祖父母の家に行けば叩きだす、とも」

「友達はどうだ。高校でうまくやってると、盆のときに言っていたが」

「あれは噓です」

 腕組みをした秋雄の眉がつり上がる。

「家族に噓をついていたのか?」

「……入学したとき、中学から仲のいいやつがいました。思い切って打ち明けたら、次の日にはクラス中の除け者に」

「それで親には言えなかったわけだ」

「はい。結局、おなじ結果になりましたが」

 ふっ、と自嘲気味に笑う智秀に秋雄が問う。

「おまえさんはこれからどうしたい? 柔道をやるつもりはないんだろう。だったらどうする」

「わたしは、料理を学びたいです。いま、このチャーハンを食べて決めました」

「腹が空けばなんだってうまく感じるぞ。いっときの感情で将来を決めるのは……」

「いえ」

 大皿を手に取ると、まるで余韻を楽しむように智秀の表情が明るくなる。

「バランスがいいんです。みじん切りのキュウリがシャキッとみずみずしく、豚肉の脂の旨みを際だたせていました。さいの目に切ったニンジンは茹でてあるんでしょうか。甘みを感じます。そうそう、干しエビも入っていました。初めて食べましたが、歯ごたえがよく、深い味わいがありますね。コーンのフレッシュさとマッチしていますが、ニンジンの甘みと競っているように感じました。でも、固めに炒めたパラパラのライスが食材を一つにまとめていました。あっさりしているから、いくらでも食べられるんですね。塩コショウだけでこんなにおいしく出来るなんて」

 皿を畳に戻すと、智秀が秋雄に向き直る。その顔は穏やかな決意に満ちていた。

「だからわたしも、こんなに温かくおいしい料理を作ってみたいんです。ここで働かせてください」

 頭を下げる青年に秋雄の表情は固いままだ。しばし考え込むように目を閉じた後、店主の口から出てきたのは厳しい言葉だった。

「智秀君。はっきり言わせてもらうが、俺も親父さんとおなじように思っている」

 青年の身体がこわばる。それでも頭は上げない。

「正直、俺にも理解できない。おまえさんの、その、人格が男じゃあないということがな。そこのところは知ってほしい。おまえさんが自分に噓をつきたくないのと、おなじだ」

 同情してほしいんなら無理だ、と話す秋雄に智秀が歯を食いしばる。勢いよく体を起こすと、溜まったものを吐き出すように語気を強めた。

「同情など要りません。理解されないことも覚悟しています! わたしはただ、否定されることが我慢できない。わたしの心が女性というだけで、すべてを否定するのは許せない」

「ならどうする? 偏見なんてどこにでもある。俺がこの店をはじめたとき、融資を受けに銀行へ行ったら『サラリーマンだったんですよね』って嫌な顔されたよ。"おまえに料理と経営ができるのか"って顔に書いてあった。否定してくる人間はごまんといる。許せないんなら社会に復讐するか?」

「そんなことはしません。わたしは料理を通してメッセージを伝えます。『あなたがおいしそうに食べているその品は、オカマが作ったんだ』と」

 睨むような智秀の口元に笑みが浮かんでいた。それは投げやりな自嘲ではなく、困難を前に"やってやろうじゃないか"と肝を据えた人間の不敵な笑みだ。

 腹を決めた若者にそのような顔をされたら、年長者としてはその気概を試してやるのが筋というものだろう。

「結果で示してみろ、智秀君。料理は相手が満足するかどうかにすべて懸かっている。いくらこっちが良い出来だと思ったところで、『不味い』の一言でおしまいだ。お客が理不尽だと怒るか、自分の腕が足りないと反省するかは、おまえさん次第。相手に認めてほしいなら、相手を納得させてみろ」

「はい! じゃあ……」

 ただし、顔を輝かす青年に釘を刺すことも年長者の仕事だ。片手で制し、秋雄が一段と険しい表情になる。

「だが、家を出たことは感心できない。親父さんがどう言おうと、このまま黙ってウチに居続けるのはダメだ」

「でも、父は……!」

「折檻されたくらいで何だ? 社会で一人前になりたければ全否定されるくらい、ザラにある。皆、悔しさを涙で飲みこんで必死にやってるんだ。おまえさんは自分に正直に生きていきたいんだろう? だったら、そうすると親に宣言するくらい、できなくてどうする」

 智秀は悔しそうに俯いている。寝室の掛け時計へ秋雄が目をやると、昼休憩が終わる時間だった。

 立ち上がると突き放すように青年を見下ろした。

「俺は店の準備がある。店を閉めるまで母屋は好きに使っていい。夜になったら俺が親父さんに電話する。それまでに決心がつかないなら、送り返す」

 いいな、と念押しする秋雄に青年は俯いたまま頷く。

 部屋を出る間際、店主がこう言い残した。

「あの焼きめしは、塩コショウだけじゃない。俺が作ったもんを分析するのは勝手だが、思い込みは料理に必要ない」


 *  *  *


「うわー、おじいちゃん厳しっ」

「でしょー? あのあと悔しくて大泣きしたんだからン」

 と、相変わらず姉妹のような掛け合いの雪江と美未子。ちなみに、雪江は並んで歩いているのに、なぜか雄桜は右腕をがっちりつかまれている。歩きにくいほどこの上ないし、何といっても暑い。

 だいぶ陽も翳ってきたが、気温はあまり変わらない。今夜も熱帯夜は間違いなさそうだ。

「それって、看板メニューの『中華焼きめし』ですよね。あれでも、コーンなんて入ってたっけ。隠し味に昆布とイリコが入っているのは聞いてたけど……」

「イヤンッ! あのとき言ってほしかったわ!」

 勢いよく背中を叩かれ、雄桜がよろめく。目的地まで二駅ほどあるが、秋雄の家までこの体がもつか心配になる。

「……昔はもっと優しかったのに」

 ため息にうっかり愚痴をこぼすとバリトンボイスが涼しい声で返した。

「人との接し方がわからなかったからネ。ずいぶん素っ気なかったとおもわないかしらン?」

「最初、遠慮してたもんね、ミィちゃん」

 意味ありげに見つめてくる従姉に雄桜の嫌な予感が消えない。ここはさっさと退散すべきだ。美未子から離れた隙に雄桜が距離を取って二人を振り返る。

「……さき、店よってくる。じいちゃんとこに持ってく料理も準備しないと。美未子さん、お土産運んどきましょうか?」

「じゃ、お願いしちゃおっかしら」

「はい」

 レジ袋を片手に持ち替え、美未子から高級紙の手提げ袋を受け取る。底を支えながら脇へ抱え直す雄桜の気配りにサングラスの奥で美未子が嬉しそうに目を細めていた。

「さては逃げるつもりだな、コックオー?」

 腰に手を当てる雪江。従姉をチラリと見てから美未子に視線を戻した。

「こいつの相手はいいですから、じいちゃんとこに行っててください」

 一日お疲れでしょうから、消えるような声でそう言い残し、駆け出していく。従弟の背中を狐につままれたように見送る雪江の肩をポン、と強面サングラスが叩いた。

「坊やも成長したわね。そんなに心配しないでいいんじゃない、お姉ちゃんとしては?」

「えっ?」

 心の内を見透かされ、珍しく目を泳がせる雪江。そういうときだけ、祖父譲りの芯の強い目が年相応の不安を抱える姉の目を覗かせる。

「あの子も自分なりに道を刻もうとしているんじゃないかしら。危なっかしくみえるかもだけど、ときに見守ることもだいじよ」

 美未子と仲良くなったのは、雪江が雄桜のことで相談したからだった。やりたいことが見つからず、暗い顔をして毎日学校から帰ってくる従弟をどうにか元気付けたいとあの手この手で試したが、むしろ雄桜はますます距離を置くようになっていた。困り果て、勇気を振り絞った雪江の話しかけた相手が、当時、祖父の店で修業中だった美未子だ。

 美未子も、形のうえでは"振って"しまった雄桜が心配だった。二人の祖父である秋雄のところへ来るまでは自分も同じように、将来が見通せず不安で仕方なかったからだ。秋雄は美未子の個性を「理解できない」とはっきり言っているし、店での日々も楽なことのほうが少ない。それでも厳しい秋雄の言葉の裏に信頼を感じていたし、お客さんや近所の人たちが何かと応援してくれたから、不安も徐々に薄れていった。

 だから、雄桜に自分の姿を重ねていたのかもしれない。美未子にはとても他人事に思えなかった。

「わたしが雄桜の居場所を奪った気がしてならなくて……」

「道場のこと?」

 うなずいた端正な顔に夕陽が影を落とす。

「それはないんじゃないかしら。前にも言ったとおもうけど、アタシ、坊やに直接聞いたの。『お姉ちゃんのこと、どうおもってる?』ってね」

 肌艶の良い大きな手がそっと、ワンピースの肩を正面に促す。

「そしたらあの子、『空手をしている姉貴がいちばんカッコいい』って答えたのよ? 恥ずかしがっていたけど、アタシの目を正面からみて言ったの。あなたのこと、応援してるのよ」

「……知らなかった」

 見開いた雪江の目にみるみる涙が溜まっていく。

「あらあら」

 スラックスのポケットから、綺麗に折りたたんだファッションブランドのハンカチを手渡しながら、雪江の麦わら帽子をさっと外してやるとさりげなく顔を隠すように扇いだ。通行人の視線から目元を拭く雪江を遮る気遣いだ。

「ありがとミィちゃん。でもその話、初めて聞いたよ?」

「あらン。オネエさん、口が滑っちゃったわね。坊やに口止めされたんだけど、ナイショにできる?」

「もちろん! 女の子同士の約束はぜったいよ」

 鼻をすすった雪江の笑顔は眩しいくらいだった。


 *  *  *


「……ただいま」

 暖簾をくぐると、懐かしい香りが鼻をくすぐった。盆に帰って以来だからひと月しか経っていないはずなのだが、雄桜はずいぶん久しく感じた。営業時間内だが、きょうは特別にランチ時間で店を閉めていることもあって店内に客はいない。

「雄桜じゃない。どうした?」

 エプロンで手を拭いながら出迎えてくれた母親は少し驚いた顔をしていた。お客もいないから厨房服からラフな恰好に着がえている。他に人の気配もないのでスタッフはもう上がったのだろう。

「あー、ちょっと寄っただけというか……」

 祖父の家で集まることは連絡してあるものの、店に寄ることは言っていない。雄桜自身もここに来るのを決めたのはついさっきなので、返事がおぼつかない。

「そう。てっきり、雪ちゃんの荷物持ちをさせられてるのかとおもったわ」

「まあ、だいたい合ってるけど」

 苦笑いの雄桜に母の桜子がすかっとした笑顔を返す。

 視線を逸らし、雄桜が奥のテーブルへ目をやるとオードブルの大皿にずらりと、料理が並んでいた。どれも祖父の好物で、店の看板メニューでもある。

「厨房、空いてるわよ」

 背後を指さす桜子。雄桜の考えていることはお見通しだ。

「じゃあ、ちょっと借りる」

 店の奥に歩いて行きながら雄桜が手提げ袋を桜子へ手渡した。

「これ、美未子さんからじいちゃんに、って」

「美未子……?」

 ピンとこなかったのか、首をかしげる桜子。雄桜がいら立つように「智秀さんだって。フードメンターの」と補足するとようやく理解したような顔になった。

「あの人が来てるの?」

 その顔に嫌悪感が混じっている。母親のその顔を見た途端、すっと腹の底が冷えた気がした。

「……やっぱりいい。じいちゃん家で作る」

「待って雄桜」

「なんだよ⁈ わざわざお土産持ってじいちゃんに会いに来てくれたんだぞ! それを嫌そうな顔して、恥ずかしいとおもわないのか?」

「おもわないわ」

 淡々と首を振る母親に雄桜は開いた口がふさがらない。

「あの人のせいで、あなたがどれだけ傷ついたか、わかってるの? いまでもそれを引きずって……」

「昔のことだっ!」

 レジ袋がキリキリといまにも切れそうな音を立てた。

「俺は引きずってなんかいない。じいちゃんやお袋からよっぽど多くを教えてもらった。それをよくも嫌そうな顔ができるな!」

「ならどうして逃げるの」

 桜子の声はあくまで冷静だ。それがかえって雄桜を追い詰める。

「……逃げてない」

「じゃあ家族と向きあいなさい」

「なんの話?」

「私はあなたが店を継がないって言いだしたとき、怒ったことを後悔してる。あなたには、あなた自身の道があるって、あのあと父さんに言われたわ」

 雄桜が高校を卒業したときのことだ。祝いの席でたまたま次の後継者の話題が出たとき、当時とばかりに桜子は息子へ水を向けたのだが、雄桜がきっぱり拒否した。親類縁者の前ということもあってつい、桜子が声を荒げてしまい、主役の雄桜が出ていく結果となった。

 以来、雄桜は実家と距離を置くようになり、大学へ進学する代わり、アルバイトで学費を稼いで専門学校に通っている。

 母親の桜子にしてみれば、結局のところ専門学校で学んでいる息子は、駄々をこねる子どもとちっとも変わらない。それでいて「店は継がない」と言うのだから、意地を張って現実から目を背けているも同然だ。

「それと美未子さんを嫌っていることと、どう関係してるんだ?」

「あの人が嫌いなんじゃない。ただ、あなたの好意を突っぱねたうえに、あんなふうに貶されて、そんな苦しんでいるあなたの姿が見てられないのよ」

「ちがうって」

 ため息をついて雄桜が母親を振り返る。頭一つぶん、高いところにある息子の目は、早くに逝った頑固で一途な揺るがない夫にそっくりだった。

「自分のやりがいを見つけて輝いている美未子さんがまぶしいんだよ。俺は料理が好きだけど、プロの料理人ってほどでもない。美未子さんの言ったとおり、中途半端なんだ。俺も美未子さんみたいに自分のやりたいことを見つけたい。人の役に立てて、自分が誇れることを」


 *  *  *


 智秀が秋雄の元へ来て3カ月が経った。

 始めは、智秀の父が怒鳴り込んできて連れて帰ろうとしたが、自分の気持ちを堂々と打ち明け、一人前になるまで家に戻らないと宣言する息子の意思に負けたのか、秋雄に迷惑を掛けたら力ずくで連れ戻すことを約束させるとトボトボと帰っていった。秋雄は口にしなかったが、智秀のことで親戚たちと相当、揉めたらしいことは智秀も薄々、感じていた。実の子でもない自分になぜこうまでしてくれるのか不思議でならなかったが、それ以上に、努力して報いなければという決意が強かった。

「おまえは料理に向いていない」と秋雄に言われたのは、店の雑用にも慣れ、包丁を何回か握った、春先のことだった。

「どうして、ですか……?」

「分析は得意なようだが、それが腕を迷わせている。頭で考えすぎるんだ。塩気が多いからって砂糖を入れればいいってもんじゃない。理屈じゃ正しいかもしれんが、鍋の中までそうとは限らん」

 智秀の炒めたチャーハンを味見した秋雄がレンゲを調理台に置く。中華鍋の傍では皿に盛ったチャーハンが一口かじられたようにポロリと、形を崩し、作った本人まで痛そうな顔をしている。

「それは……おいしくない、ということですか」

「いや、味は悪くない。むしろ整いすぎているくらいだ。私が教えたとおりだな」

 褒めているようで秋雄の顔は暗い。智秀にも訳がわからない。

「だが個性を感じない。おまえが作ったのは間違いないが、まるで市販品のようだ」

 口を開こうとする智秀を手で制し、秋雄が続ける。

「料理は気持ちなどと精神論を言うつもりはない。気合いだけでうまい品が作れるなら、この店はとっくに繁盛しているだろう。……智秀。自分の料理を作ることに恐れを抱いていないか?」

「恐れ……」

「俺の料理を学ぼうとしてくれてるのはわかる。だが、一人前としてやっていくには上手にできるだけでは足りない。食べてくれた人におまえが作ったことを、料理でわからせるんだ」

「わたしにそれが足りない、と」

 頭巾を取った智秀の目が赤い。店の手伝いから料理の練習、秋雄に負担をかけまいと近くのスーパーでアルバイトをこなす日々だ。疲れは相当なはずだし、父親のことも頭から離れられないのだろう。智秀はよくやっている。口には出さないが、秋雄は自分の選択が正しかったと自信を持って言えた。

 その智秀に「料理人は向かない」と言うのはつらいことだった。智秀がまだ、中途半端に料理人を目指していたならこんなことは言わなかった。腕が上がれば店の厨房に立たせてもいいし、店を開きたいなら送り出してやればいい。

 だが智秀の覚悟は生半可ではなかった。

 店の手伝いをしているとき、秋雄の手元を見る目は真剣そのものだった。店が閉まった夜も厨房に立ち、鍋を振り、メモ帳を手放さない。少ない休みの日も料理に関する本を読んでは秋雄に味見を頼み、その意見に耳をかたむけた。アルバイトで稼いだぶんはほとんどが食材や調味料に消え、見かねた秋雄が新年に新しいコートを買ってやったほど。その入れ込み様は、秋雄が店を始めたときの熱意と同じか、それ以上だった。

 いっそ腕が上達しなければ追い返すことも簡単だっただろう。智秀の料理の腕は確実によくなっている。腕を磨き続ければ、一端の料理人も夢ではない。

「足りないのは、覚悟だ」

「覚悟はできていますっ!」

「いいだろう。ならば明日、厨房に立て。おまえの作れるメニューのオーダーが入ったら、代わりに包丁を握るんだ。常連には言わない。それでお客が気づいたら俺はおまえに謝る」

「謝るだなんて、そんな……」

 時刻は陽がとうに沈んだ春の夜。智秀の声が店の前を通り過ぎる自動車のエンジン音に消されていく。腕を組んだ秋雄を見た智秀の握る頭巾にシワが寄る。

「だがもし、《俺が作ったんじゃない》と気づかないで帰るようなら、考え直すんだ。たとえ腕があがったところで、行き詰まるのは、見えている」

 料理がしたい、と智秀は言った。だがそれは《本当にやりたいこと》ではない。

 智秀の震える肩に秋雄が手を置いた。

「ほんとうは俺に恩を感じて厨房に立っているのだろう? ならもう充分だ」

 その言葉にハッと智秀が顔を上げた。拒絶されたような痛々しい顔は、まるで裏口に体を丸めていたあの日のようだ。

 だからこそ秋雄は表情を変えずに問う。

「料理を作ることではなく、その料理をどうすればより良くできるか、直感的に理解しているんだろう? 俺にない才だ。そして求められている才能でもある」

「そんなことは……」

「気休めじゃあないぞ。うちに来た日、俺のチャーハンを分析したろう。『ニンジンとコーンが食い合っている』って。気づいているかもしれんが、あれからコーンは外した。おまえの言う通りだったからな。このところ、チャーハンのオーダーが増えただろう? おまえの、アドバイスのおかげだ」

 秋雄の手に力が入る。見上げた鉄人の目はどこか珍しく興奮し、うれしそうだった。

「いいか。いまの評論家連中は自分のことしか考えていない。読者に受けるかどうか、当たり障りのないコメントしか言わない。だが本当の料理人なら、自分の料理に対する客観的な評価は喉から手が出るほどほしい。それが、的を射たアイディアならなおさらだ」

 一度、秋雄の店にも評論家を名乗る人物が訪れたことはある。それも辛口で人気を博していた有名人だったから、不安に感じたのは無理もない。事前に連絡もないまま、ふらりと立ち寄った評論家は、スタッフも連れずに店主に形ばかりのあいさつし、3品ほど注文。手早く胃袋に収めると、さっさと帰ってしまった。

 そんな訳で後日、グルメ雑誌の出版社から掲載の可否を求める電話に、秋雄は呆れてしまったのである。それでも店の繁盛につながればと許可をしたところ、雑誌に載ったのは「脱サラ中華の鉄人が作る逸品」として二言三言、無味乾燥なコメントだけだった。貶されずに済んだことを喜ぶべきなのだろうが、正直、「鉄人」と評されるより、料理に対する率直な感想のほうが何倍もありがたい。お客から得られるものとは異なる、プロの評価だ。

「おまえの料理は上手い。作るのにも慣れてきたころだろうし、方向を変えるのは勇気がいる。だが、智秀。その才能は大勢の役に立つ。俺はそれを活かして立派になってほしい」

「でも評論家なんて、わたしにはとても……」

「おまえは作る側の苦労を理解している。その言葉だから、上辺だけじゃないんだ。ただの評論家じゃない。いまどきの言葉で言うなら……メンターだな」

 慣れない横文字を使う師匠の言葉に智秀はクスッと笑みをこぼした。その目はまだ赤いが、力が満ちている。

 スッと息を吸った若者の表情は晴れ晴れとしていた。

「はい、師匠!」


 *  *  *


「てなことで、フードメンター・美未子が誕生したのよ?」

「フードメンターっておじいちゃんが付けたの⁈ 知らなかった……」

「師匠なりにアタシのこと、考えてくれてたのよ。肩書きにこだわる人じゃないけど、『自分から打って出るには必要だ』ってあとでおっしゃってたわ。カタカナが流行るのを予見してたみたいね」

 休日で空いた電車の座席に腰掛けた美未子の胸元で、サングラスがそろりと揺れる。懐かしそうに微笑むフードメンターの目は在りし日を見るように、流れていく景色を追っていた。

「ミィちゃんがフードメンターになったってことは……おじいちゃんのテストに落ちたってことね?」

「ユッキーもずいぶん言ってくれるじゃない。でも、そっ。アタシが魂こめて作った麻婆豆腐は、おいそうにお客さんが食べてくれたわ。『華龍のマーボーだ』ってね。よろこんでもらったのに悔しかったの、あれが初めてよ。ま、おかげで吹っ切れたし、結果オーライかしら」

 点々と灯り始めた街の明かりが車窓に線を描く。極太の腕を窓枠に置いた美未子の横で、麦わら帽子をつかむ手が細枝のように見える。陽に灼けて太陽の香りがするワンピースの声はどこか、沈んだ陽を惜しむようだった。

「私も、そんなふうに強くなれるのかな」

 なれるわ、と返すのは簡単だ。だが、そっと目を向ける美未子は無言で先を促す。

 普段、サングラスを掛けているのは、顔をさらしたくないからでも気取っている訳でも、ましてや本当に日光がまぶしいからでもない。目は口ほどにものを言う。数々のカメラや鉄人を前に堂々と物申せる美未子にも本心を目に出さないのは至難の業だ。

 口ほどにものを言う目は、正直だ。

 勇気を振り絞ろうとしている人を前に、正直な目ほど必要なものはない。

「ときどき考えるの。秋江おばあちゃんみたいに強くて、やさしくて、みんなから頼りにされる人になれるんだろうか、って」

「師匠の妹さんね。ユッキーママが継いだんだっけ?」

 こくりと頷いた雪江の横顔を紺色の夜が染めていく。

「きょう、昔の話を雄桜としてておもった。秋江おばあちゃんみたいになれる自信がない。ずっとあこがれて背中を追いかけてきたけど、どんどん遠ざかっていく。私はどうしたらいいんだろうって」

 太陽の子どものような雪江がうつむく先を、美未子は見ない。いつだって明るく、他人を気づかい、笑顔を忘れない強さの裏に不安はつきものだと、美未子は知っているからだ。

 蛍光灯が照らすグリーンの床を見つめる横顔は、幼い少女のように脆く、触れれば壊れてしまいそうだった。そんな雪江を初めて目にする美未子は少し驚いたと同時に、安堵もした。

 弱音を吐かない心は、いつか壊れてしまう。強い心の持ち主ほど、案外、気がつかないものだ。

 そして強い者はいつだって、自分と向き合う不安を持ち合わせているものだ。

「探しつづけるのよ」

 突き放すような言葉に少女がハッと顔をあげる。年長者の特権は、こういうとき余裕を見せられること。だから美未子も半分、のけ反ったような姿勢のまま、怯えた目を真っ直ぐ見返した。

「答えはユッキーの中にあるわ。だけど、それを見つけるのはスパイスの効いたカレーから隠し味のしょうゆを見つけるくらい、難しい」

「私はミィちゃんほど強く、ない」

「いいえ」と、今度は即座に否定する。やや姿勢を正してから美未子は言葉を続けた。ちょうどトンネルに入った車内がガタゴトと揺れる。その音に負けない程度にはっきりと、言音に自信を載せて。

「強さは積み重ねが築くものよ。ユッキーの空手だって、稽古のたまものでしょ? 最初から強い人はいないし、迷わない人もいない」

「でもこれからどうやっていけばいいか、見当もつかない」

「ユッキーは人に力を与えるの。そういう人はね、トンネルに一番に入る人とおなじ。だれよりもさきに真っ暗なところへ飛び込んでいくけれど、光を一番さきに見つけられるのもその人」

 悩んでいるときに運よく道標が見つかるほど、人生は甘くない。一寸先も見えない暗闇にいるときは、たとえ道標があっても見えない。

 だから道標ではなく、光があると信じて進むしかない。

「ユッキーがほんとうはどれだけ強い人か、アタシにはわかる。あなたの従弟も、おばあちゃまもきっとね。それでもユッキーがその証(あかし)が欲しいっていうなら、周りを見てみて。みんなあなたを頼りにしてるじゃない? きょうもお手柄だったんでしょ?」

「どうしてそれを……?」

 素直に驚いてくれるのは嬉しいことだ。美未子はとびっきりのウインクをしてみせてから「オネエさんの情報網はスゴいのよ」とだけ答えておいた。

 車両がトンネルを抜け、くぐもった車内の音がすっと、宵に消えていく。窓から見える街はすっかり濃紺に染まっていた。

 木琴の通知音に駅名を告げるアナウンスが続く。

「もうすぐ着くわね。これはね、ユッキー。アタシからのアドバイス」

 改まった言い方にワンピースが背筋を正して向き直った。こんな立ち振る舞いが自然とできるのだから、美未子の自信はまず間違いない。得意げになってしまいそうなのを、培った経験でぐっと堪え、一人の先輩女子として至極、真剣に口を開く。

「迷うことを恐れないで。結果がすべてじゃない。その過程が、あなたをもっと強くする」

 それに、と今度は一人のプロフェッショナルとして、足を組んでみせる。この姿勢が違和感なくできるようになるまでどれだけ練習したか、ごくりと生唾を飲み込んだ目の前の、未来の師範ならきっと理解してくれるに違いない。

「当たり障りのない人づきあいなんて、ペッパーの効いてないゴートウォーターよ」

「……なにそれ?」

 電車が減速しだした。もったいぶるように立ち上がる美未子に続いて雪江も立ちあがった。間近で見る若い肌つやは、純粋にうらやましい。

 だから寄った眉間に軽くデコピンを打ち込んだ。とっさに避けられてしまったが。

「もう。相変わらず隙がないわね」

「ちょっと、おしえてよミィちゃん! その、ゴートなんとかってなんなの?」

「フフッ、ナイショ。桜の坊やに聞いて。旅先からずいぶん、いろいろおしえたからねぇ。もし、忘れてたら……お仕置きね」

「たのしそー。じゃ私も手伝う!」

 雄桜が聞いていたら、間違いなく顔を引きつらせるような類いの話。

 並んで電車を仲良く降りていく二人の背中は、実の姉妹のようだった。


 *  *  *


 雄桜が「中途半端」と言われたのはなにも、美未子の嫌がらせからではない。美未子がカミングアウトしてから落ち込み気味だった雄桜に世話を焼いたのは、まだ智秀と呼ばれていた美未子のほうだ。

 その頃の智秀は成人しており、自分の腕を試すべく都会へ武者修行に出ていた。師匠である秋雄に、雄桜の高校卒業祝いへ呼ばれたものの、顔を出してよいものか、考えあぐねていた。理由がどうあれ、雄桜を傷つけてしまったのは事実だし、五年近く経って今さら古傷を剥がす真似はしたくない。今も引きずっているとは考えられなかったが、世間の風当たりを考えると、やはり地元に帰るべきではないかもしれない。雄桜の将来を想ってこそだった。

 美未子が師匠へ、断りの電話を入れると応対したのは声変わりの済んだ、雄桜だった。

「……雄桜くん?」

「あっ、智秀……じゃなかった。すみません。び、ビミコさん……?」

「いいのよ智秀で。戸籍じゃ、まだ変わってないんだから」

「はい」

 電話口で答える声はすっかり大人だった。言葉を探そうとしている姿が頭に浮かぶ。

「でもビミコさんで。名前、変えたがっていましたから」

「おぼえてくれてたのね。ありがと」

 つい、嬉しくなって口が回る。相手の言葉の裏にある、隠しきれていない戸惑いを感じながらも。

「高校、卒業したって師匠に聞いたわ。おめでとう。いまは大学? それとも就職?」

「……服飾学校に」

 雄桜のわずかな沈黙で、自分がしゃべりすぎたと気づいた。思わず美未子は目をつぶった。

 しまった、と思ったときには低い声が耳から心臓を貫いていた。

「あの、じいちゃんに用なら代わります」

「待って」

 とっさに引き留めた理由が、美未子自身にもわからなかった。その証拠に頭が真っ白になって言葉が出てこない。

 ただ、このままじゃいけない、と思ったのは確かだ。今、話をしなければ、もう二度と口をきけない。

 そんな直感に近い理由だけで、美未子はたどたどしく言葉を紡いだ。幸い、受話器から息づかいは変わらなかった。

「雄桜くん、調理師の夢はどうしたの?」

「もういいんです」

「よくないわよっ! あんなに料理が好きだったじゃない! 師匠に教わって店を継ぐって……」

「あなたに言われたくないっ‼」

 今度は美未子が沈黙する番だった。

「あなただって夢を捨てたじゃないですか! オレはあなたが作ってくれるチャーハンが好きだった。料理のことを楽しそうに話すあなたを見ているとオレもうれしかった。なのに、あなたは厨房へ立つことを諦めた! そんなあなたに夢がどうのこうの、言われてたまるかっ‼」

「勘違いすんな!」

 久々に出した地声が遠い記憶のように頭へ響く。電話越しであることも忘れ、美未子は立ちあがって言葉を吐いた。それくらい、頭に来ていた。雄桜に謝ろうとしていたこともどこかへ飛んでいた。

「アタシは本当に自分がやりたかったことを見つけたんだ! 料理はそれを教えてくれた! いいかい雄桜? あれこれ考えるのは勝手だよ。けど、夢を捨てたなんて決めつけるもんじゃないよ! そんなことを言えるのは、自分で夢を放り投げた人間だけだ」

「オレはちがう!」

「なら証明してみなっ!」

 受話器を握る手がミシミシと鳴っていた。

「にげるんじゃないよ、雄桜。服飾学校を選んだのは、調理コースに切り替えられるからじゃないの? そんな中途半端な気持ちじゃ、後悔することになる。胸に手をあてて自分に聞いてみなさい。それでいまの自分がいい、っていうならアタシはもうなにも言わないよ」

 偉そうに言ったものだ、と美未子も思う。怒りの理由には雄桜の言葉が的を射ていたこともあるのだ。どうあれ、料理人の道を手放したことには変わらない。もし料理を続けていたら、と考えることが全くないかといえば、噓になる。

 上京して以来、フードメンターとして仕事を請け負ったのはたった一度。それも、アルバイト先の上司に娘の料理の味を見てくれ、と頼まれたから。味は決して悪くなかったが、美未子がいくつか指摘したときの父娘の顔は忘れられない。結局、美未子のほうからそのアルバイトは辞めてしまった。順調に一人でやってやっていけるほど、社会は甘くない。

 地元に帰る選択も、何度と頭をよぎった。その度、快く送り出してくれた秋雄を想い、自分を鼓舞した。父を思い出し、怒りからパワーを得たこともあった。

 美未子はだから、雄桜に自分と同じ苦労を味わってほしくなかった。雄桜はまだ若い。将来を悩むことはいくらでもある。そのとき、未練を残すような選択はしてほしくない。後ろ髪を引かれながら前へ進むことがどれだけ辛いか、美未子にはよくわかるからだ。

 後悔のない人生は、食べた人全員が美味しいと言ってくれる料理のようなもの。追い求めるのは良いが、達成は不可能に近い。

 それでも手を伸ばすなら、相応の覚悟が要る。

「答えは急がなくていい。だけど、自分の気持ちには正直でいて。アタシからの、たった一つの願いよ」

 だからこそ自分も腹をくくらなければならない。相手にだけ決断を迫るのは、卑怯者のやり方だ。

 返事のない電話口に、美未子は言づけを頼んだ。

「おそい時間に悪かったわね、雄桜くん。師匠に『しばらくこっちで頑張ります』って、伝えてくれるかしら」

「……はい」

「ありがと。頑張れよ!」

 ガチャン、と電話が切れるまでの寸刻が、美未子には何時間にも感じられた。

 ツー、ツー、と不通音が鳴っても受話器を置くまでしばらくかかったくらいだ。

 安アパートの薄い壁越しに、夕蝉の声が物悲しく響いていた。


 *  *  *


 フライパンに薄く油を引き、温まるまで手をかざしっ放しにして慎重に見極める。使い慣れた四角いフライパンではないから、勝手が違って難しい。十回ほど繰り返してもまだ感覚がつかめていない。

 念じるように、真剣な顔をして厨房に立つ息子の姿を、母親の桜子は少し離れた店内のテーブルから見守っていた。外はすっかり陽が暮れ、隠居した義親の夕食時を過ぎようとしている。電話の一本くらいすべきなのだろうが、息子の気が済むまで桜子は動かないつもりだった。

 想いを口に出して思うことがあったのか、雄桜は「厨房を貸してくれ」と言い出したきり、フライパンと向かいあったままだ。何回か出来上がっては首をかしげ、また一から作り直している。調理台の上には卵焼きの黄色い山が積み上がっていた。

 普段の桜子なら、とっくに口を挟んでいる。黙って好きにさせているのは呆れたわけでも、息子可愛さからでもない。こんな風に、息子のすることをただ静かに見守ったことがなかった、とふと気づいたからだ。

 夫が事故で急逝して以来、桜子はとにかくがむしゃらに店を切り盛りしてきた。息子を亡くしてからというもの、義父でもある雄桜の憔悴ぶりは尋常ではなく、とても厨房に立てる状態ではなかった。義母の秋江や親族からは、店を畳んでしばらく休め、と慰められることもあったが、桜子は頑として拒んだ。それは店のため云々以上に、悔しかったからだ。

 義父と厨房に立っていた夫は実に生き生きしていて輝いていた。夫は亡くしても、その生き様まで失ってはならない。その姿を息子に残せるのは、自分しかいない。

 けれど、固執しすぎていたのかもしれない。父親のように生きてほしいと願うあまり、押しつけていたのかもしれない。

 背中は見せるものであって、見せつけるものではないのだ。

 厨房に立ち、真摯に料理と向かいあっている雄桜を見れば、その背中をよく見ていたとわかる。これまで必死になりすぎてゆっくり、桜子が見ようとしなかっただけで、ちゃんと息子には伝わっていたのだ。

「……できた」

 雄桜が皿に載せた卵焼きを見てつぶやく。息子の横顔はいつの間にやら凛々しく、大人になっていた。黄金色のロールと同じくらい、笑顔が輝いていた。

「おじいさまに持っていく?」

「うん」

 立ち上がり、ラップの位置を教えに厨房へ向かう桜子の足取りは軽い。

 ふと上を見上げ、視線が合う。

 店の奥の壁に飾ってある家族写真のなかの夫が、初めて、笑っている気がした。


 *  *  *


「おそいね、雄桜」

「あらユッキー、かわいい従弟が心配?」

「そんなんじゃないってば。私はコックオーが料理をけちょんけちょんに言われるところを見たいだけ」

「家族の落ち込む姿が見たいってかい、雪江?」

 二階から降りてきた秋江が、台所でグラスを洗う孫へ鋭い言葉を投げかける。真っ白の総髪にいくぶん痩せた秋江だが、心まで見通すような眼は健在だ。背中へ手を回したまま、最後の数段をゆったり踏んでいく。

「そ、そうじゃありません、師範」

 しゅん、とうなだれた雪江の背筋はまっすぐ伸びている。道場ではなくても、染みついたものは変わらない。

 雪江の横で食器皿を並べていた美未子でも、秋江の前ではいつも緊張感をおぼえる。そこにいるだけで威厳を示せる人が、世の中にいると知ったのは秋江のおかげだ。

 人数分、重ねた皿を軽々持ち上げると、美未子は少しだけ助け船を出すことにした。この家ではもちろん、サングラスなど掛けていない。

「雄桜くんの料理、ユッキー大好きだもんネ。ツンデレがモテる時代だけど、素直になることもダイジよ?」

「はーい」

 気の抜けた返事だね、と呆れながらも秋江が目を向けてくる。

「すまないね智秀。はるばる来てくれたのに手伝いをしてもらって」

「いいえ。普段ご無沙汰していますから、こういうときでもないと恩返しができません」

 秋江は美未子に理解を示してくれた数少ない人だ。ただし、「親の付けてくれた名前を変えるのは褒められたもんじゃない」と言って"旧名"で呼び続けている。言い分は理解できるし、はっきりと言ってくれるので美未子も気にしていない。

 気にかかるのは、二階のほうだ。

「やはり、師匠は……?」

「降りてこんよ。まったく。いつまで引きずっているんだか」

 ため息をつく秋江だが、眼は遠くを見ていた。急に老け込んでしまったようにさえ見える。その視線のさきに誰がいるのか、言葉にしなくても美未子にはわかる。

 食卓に皿を並べながら、蝶ネクタイを締めたフードメンターは続けた。

「心の傷は時間がかかりますから。あとでお料理、お部屋へ届けますね」

「顔をだすか、あやしいがね」

 電車のなかで雪江に聞いたが、ここ何年も秋雄は孫の雄桜に会おうとしないという。前に美未子が会ったときは平気そうにしていたものの、急にふさぎ込むようになったらしい。雄桜もそのことでずいぶん、悩んだそうだ。

 秋雄の性格で単に孫の顔も見たくない、というのは考えにくい。現に、雪江とは普通に会話するのだ。小さい頃から懐いていた雄桜が傷つくのもよくわかる。

 あくまで予測に過ぎないが、美未子は原因がわかる気がした。

 雄桜の姿が、あまりに亡き息子と似てきたからだろう。迷いはあれど、雄桜は料理人の道を歩もうとしている。そうして厨房に立った孫の姿を思い浮かべ、秋雄の心はまた痛むのだ。

 それでも人は前進するしかない。目を塞いだところで痛みは和らぐことがないし、失ったものは戻らない。時間は過ぎていくだけで、決して帰ってはこないのだから。

 秋雄とて頭ではわかっているはずだ。ただ、あまりに傷が深く、直視できないだけ。

 かつて暗闇にいた美未子へ手を差し伸べてくれた恩人に、今度は美未子が力になる番だ。

 師匠の姿を美未子が思い返していると、玄関がガラガラと鳴った。

「おそくなりました」

「おばあちゃん、じいちゃんいる?」

 片手にオードブルの風呂敷を、もう一方の手に黄金色の短冊が二本載った小皿を持った雄桜が入ってくる。別れてまだ数時間しか経っていないが、その顔はつき物が落ちたように清々しい。

「上にいるよ。じゃ、私らはさきにいただくとしようかね。桜子、雪江、手伝っとくれ」

 雄桜の卵焼きへ目をやると、秋江はすぐにテキパキ指示を出しはじめた。この機転の利かせ方はさすがとしか言いようがない。経験の差はそう簡単には埋められない。

「雄桜くん、自信作ができたみたいね」

「うん。うまくできた、とおもう。……あの、美未子さん、感想をもらえるかな。その、プロとして」

「あら」

 驚いたせいでとっさの反応ができなかった。雄桜が自分から意見をもらいに来るのは初めてだ。美未子だけではなかったらしく、テーブルに料理をよそいでいた桜子まで目をぱちくりさせていた。

 雄桜の目は真剣だ。なら、こちらも誠意を示さなければならない。

 ただし、物事には順番がある。

「ええ、いいわよ。ただし」

 言葉を切った美未子を雄桜が不安そうに待っている。軽く咳払いして続けた。

「まずは師匠に食べてもらいましょ? 雄桜くんの自信作はきっと、よろこんでくれるわ」

 今度は雄桜が目を見開く番。逡巡は一瞬で、青年はしっかりうなずいた。

「わかった」

 年長者たる者、いつだって導く存在でなければならないのだ。

                                                                                            終わり

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