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二四 約束の呼び名

 ボクとイエドの周りは、かすみが掛かったように薄れました。

 これまでは乗客たちがそうして姿が見えなくなっていたことが、客車の中の全体に起こったのでした。

「どうしてかな? これ……」ボクにもその状況が説明できませんでした。

「別れることには変わりないのに、あまり寂しくないって言ったらいいか、今までのと全然違う別れ――」ボクはイエドを見上げて――。「ううん」と首を横に少し振りました。

 それを見たイエドは、「別れたくないよね」と言われるかと思いかけますが――。

「出会いだね。出会えて良かった。そして、また会いたいって、楽しみなんだ」とボクが言いました。


「でも、また会えるって言いたいけど……どうしたら……」

 イエドはボクを素直には見られず、言いました。

「急いで考えてみる。……もし、再び会えるならば、……待ち合わせ場所を決めてから帰られるといいのにとか――思ったりした」

 やっとイエドはボクを見て、思い出しました。

「そうだ! 呼び名を付け合おう。おれのも、きみのも、この名前はまぎらわしいからな。そうした方がいい」

「うん。そおいうことならあ」ボクはもったいぶり――。「……ボクは、フロイと呼ぶね」


 それは、昔話によく登場する人物の名前でした。


「フロイ、か。ありがとう」イエドは微笑んで言いました。「おれは、……そうだ。きみを、ロフラと呼ぼうか」


 それは、古代伝承劇に登場する人物の名前でした。

 ボクが、その名前を気に入ったという微笑みを返したように、薄れるイエドの視野は捉えます。夢ということは分かっていたイエドですが、そのボクの表情は確かな実像だったのでしょう。


 互いに名前の由来は、もう聞けませんでした。

 周囲は白い光に覆われて、時がないと知らせてくるかのようです。


 二人は、互いに相手が見えなくなりました。しかし、まだ手を握り合う感覚がありました。その間に――、


 付け合ったその名前を今この時、別れのためには使わず、どこかで再会したその時に使おう。


 二人の心の内で、その約束がわされたのでした。


 しかしどこからか、かすかに声がします。


 目が覚める?


 夢を見なかった?


 何も見なかった?


 きみは覚えてくれるの……かなあ。


 是非ぜひとも……、覚えていて……ほしいのだけれど……


 イエドは、光の中に居ました。


 その視界が捉えたのは、ほのかに赤めいた光景でした。それは瞼越まぶたごしの木漏こもです。


 しばらく浅い眠りと、ぼんやりとした目覚めを繰り返すイエドは思いました。

「そうか、なんか目を閉じようとしたら、とっくに閉じているんだった……」


 イエドの目が開きました。

「もう、慣れない早起きのせいで……しかし、長い夢だった」イエドは思いました。

 大樹の天井は真昼の日光を受けながら、そよ吹く風になびきました。

「……どれくらい……眠っていた?」

 木漏れ陽の作る地の模様も靡き、イエドの目にちらちらと映っているのでした。脚は、いつものように動きません。

 あくびにも聞こえる、イエドの大きな溜め息。ふと――、「ん、夢?」と心の内に浮かびます。

「どんなのだったか……」イエドは呟きました。

 イエドは何かがちかっと反射した光をまぶしがって、目線を下にらすと、胸の上に一枚の葉が見えました。それを手に取り、陽に当てて葉脈をかしました。

 それを見て、イエドは思いました。

「この葉脈ようみゃくの模様と、瞼の血管の道筋みちすじとが重なり合って……? それで――」


 イエドは家の上方じょうほうを見やりました。高く、遠くにある大気に何かが浮いていた気がしましたが、手にしている葉のほうに気がとられるのでした。

 このときイエドに思い出されたのは――、

 この緑の栞を持って、そのロフラという子に会いたいような気持ちだけ。


 会ったこともないその子、その名前――ロフラは……


 そのとき、縁側えんがわから一吹きの高い口笛がこだましました。

「へえ。咲いたのか」口笛の吹きぬしは、感心した様子で言いました。

 その声には聞き覚えがありました。イエドは顔を縁側へ向けました。

 そこには、フィサが立っていました。

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