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二二 乗り降り港

 イエドの心象には、自分の心を照らしてくれるような星の光と、ボクの心のふかにある不安の感情が映りました。

 そのどちらも、イエドの視覚に届きそうな実像になります。心象にある星の光を視ようとして、イエドの瞼は閉じてそれをさえぎった一方で、ボクの不安からにじみ出た視えないものは、そのままイエドの瞼の隙間から染み込むのでした。


 イエドは思いました。「ちょっと、何か、違うじゃないか? 光が強いからといって、それが大事じゃない。まず、おれはボクの後ろに光の輪を見たんだから――」


 ボクは独りで、がっかりしたように諦めを呟いていました。

「他のことを伝えようとしたつもりだったのに、ボクが見てほしいのはボクじゃ見えないのに、なんで、なんで……」

 ボクには、自分が望んでいない状況だったのでしょう。イエドがここから居なくなるという、これから先の出来事が、その心に浮かんでしまったのです。


「……そんなこと、言ってないでさ、言い直したって遅くはないだろ?」

 イエドは目を開けてボクに振り向き、言いました。

「〝あの星〟より、元元もともとはきみのことが気になってたはずなんだ、ボク――きみは、おっちょこちょいだし、分からず屋さんだってコドさんに言われていたんだぞ? 今、コドさんの気持ちがよく分かったよ」

 ボクは背凭せもたれに倒していた体を起こしても、うつむいたままでした。

「ああ、ボク……とても嫌な予感がしてたんだけど、良かったあ――」

 するとボクは、強がって言いました。

「ボクが、分からず屋さんだって?」ボクは震えた声で言いました。「イエド、そうだね、そうだよ。ボクは本当の名前も、居場所も分からない。ボクは、ボクが分からないんだからさ」

「これで分かった。ほら、一歩前進できてる。確かに、ボクは分からない――でも、おれは分かった。ボクがそうなんだと、今こうして言われて!」

 イエドはこう言いながら、ボクの隣の席に座りました。

「きみは、おれの最初の見方じゃ、何でも知っているふうだったよ。きみが、きみについて分からなくなっていたなんて、思いもしなかったから」

 ボクは一度、大きく頷き、俯いたまま言いました。

「何度も、ボクは繰り返してしまう。船長に言われたばかりなんだ。――『あの星を確実に伝えなければ、分からないし、見えもしない』――てね。何度も聞いて、大事なことなのに、その通りにできないんだ」


 イエドは今はここに居ないリオノ船長に対し、妙な気持ちになりました。あの「厳しい教師の雰囲気」は、勘違いだったように感じるのでした。本当はリオノ船長の何かが感じさせた、イエドの警戒心だったのでしょうか。

 しかし、ボクが語ったリオノ船長が、保護者であるということもありましたから、それをそのままボクに話すことが今のイエドにはできないのでした。


 ボクは顔を上げ、訴えるように打ち明けました。

「本当は、イエドが居ることを信じようとできていなかった。停泊港でもない所で、急に乗車してきて、しかもボクが思っていたことを聞いていたようだったし――。ボクはイエドについて何も知らないはずなのに、その場でよく見えたから。これは夢の中の夢なんじゃないのかって思ったの……。

 名前もすぐイエドだって分かった。でも、ボクもその理由は分からないんだ。あと、最初からイエドの思いがよく聞こえたことも、ボクの思い違いかと思ったけれど――そのときはなんだか混乱もあって……。でもそれはあとで、あの緑の栞が取れたからさ。このままイエドと、ここに座っていようって思って……」

 イエドはここで目を開ける直前の、あの声の言葉が思い出されました。

「やっぱり、あれはきみだった」イエドは囁きました。「覚えてもらえないのが普通だって、言ってたね」

「……そうなんだ。みんな、あの星を見ると、ボクを忘れる――それほどのことが、みんなの心に起きるらしくて……。コドおじいさんは、ボクのために長居ながいしてくれた人、たった一人だけの。

 他の人たちは、あの星を見たら帰ってしまう。再び会うことはなかったよ。そうだ、ちょうどこれからその人たちは――」

 すると、船が微かに振動しました。

「第四速度に切りわったね」ボクは言いました。「さっき言おうとしてのが、これから青葉号が進入する、みなと――この辺りは長い自由乗降じょうこう区域が続いているよ。その人たちは〝駆け込み〟でもいいから、乗り降りできるみたいなんだ。いつのにか乗って、降りている具合ぐあいにね」


 イエドは、何かの居る気配を聞きました。

 こもった声。わずかしか聞き取れず、姿のない存在。それがボクの言った「その人たち」でした。イエドは恐る恐る立ち上がり、通路に立って見渡しました。

「こんなに人が乗って来ていた? いつの間に……」

「そんなに見えるの? イエドはすごいね」ボクは今のところ、イエドしか見えていない様子でした。「今見えているのは、イエドには目につくきっかけがあるから、かな? まだ見えていない人たちが居るかもしれない。――大勢おおぜいの人が行きう街の中を想像して――その人込みの中、本当に見える人はね、少しでも気にまったから見えるんだ。目に留まったあとが肝心だよ。ふと何か思っても、大抵たいていのことを忘れないようにするためにはさ」

 人人は透き通った姿で席に着きます。しかし、座席で向き合っているにもかかわらず、人人は互いの存在に気付いていませんでした。


 厚手の外套を着た、身を縮める警備員――らしき人。

 ぎ服を羽織はおった、平鞄ひらかばんを抱える仲買人なかがいにん――らしき人。

 幼子おさなご肩車かたぐるまして、片足で歌か何かの拍子ひょうしをとる父親――または兄、らしき人。

 腕に包帯を巻いた、細身の拳闘家けんとうか――あるいは負傷者。

 乾いた雨傘をかたわらに立て掛け、濡れた雨着を手巾しゅきんで拭う通勤者――というよりは、それを演じている役者でしょうか。


 イエドは、それぞれの身のうえも、名前も、性格も、他のことも何一つとして確かなことは知りませんでした。

 ただ分かることは、誰もが窓の外を眺め、しばらく経つと顔を逸らして立ち去ることでした。その去って行く先も分かりません。その人人ひとびとは、姿が薄くなりつつ、どこかへ帰ってしまうからです。

「ボクにも薄くだけど見えてきた。この人たちはここと現実に、半分ずつなんだって。誰だって、いつ、どのような星を見たかなんて、船長の話だと、覚えていないみたいだよ。そして、いつの間にか降りているんだ」ボクは通路をうかがって言いました。

 そして、ボクは声の調子を落としました。

「ボクがコドおじいさんの降りる時期を知ったのは、コドおじいさんが光を手に取らないで、ただ見たって言ったときなの。おじいさんは、もうボクの手を借りなくても、いつもだったら見えないはずの、あの通り抜けるだけにしか見えない光がしっかり視えていたんだってボクは気づいたから。

 でもそのとき――ボクが眠っていたときにその場で降りれば、コドおじいさんの現実では時間がもっとあったのに、おじいさん、残って居てくれたんだよ……。それなのにね、それでも十分じゃないと思ったボクは、船長に頼みに行ったわけなんだけど、変だよね、ボクって本当――」

 イエドは、先程の自分に重ねて考えると、あのまま外の星を瞼が遮らずに見続けていたら、知らないうちにこの夢から覚めて、何もかも忘れてしまっていたかもしれないと思えてきて――。

 それがとても、悔やまれることに感じました。

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