目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

十九 輪を成す上弦と下弦

 天井の照明はまるで、列車の乗客が眠気に耐えてはまた目を開くかのように、光の強弱を繰り返しました。

 イエドは窓の外を眺めていました。

 コドが降りた今、船はどこへ向かうかを考えました。いつも同じ時間に浮いていたというこの飛行船は、イエドが来たとき動き出しましたが、とうの本人は行き先を知りませんでした。

 イエドは思いました。


 どこへ行くんだ。おれをどこかへ連れて行こうとしているんだろうか。


 イエドは、不安になりました。その目は明暗めいあんを交互に映します。そのせいか、この船が安定せず、揺れながら進んでいるように感じました。


 ボクは外を見つめ続けていました。その横顔も不安そうでした。

 明暗の間隔かんかくは広がりました。

 イエドは暗さが長引ながびいても、そろそろ明るくなるだろうと思いました。

 ところが、一向いっこうに明るさは戻りませんでした。一つの照明がかろうじて小さな明かりをたもっています。

「電球が切れたのかな?」イエドは言いました。

「え? 今、何て言ったの?」ボクは振り向いてきました。

「電球。明かりが消えてるだろ」

「……あれのこと?」ボクは天井を指差しました。「あれは、コドおじいさんが取り付けてくれた石油灯せきゆとうよ」

「コドさんが――」

 イエドの目は、その見方みかたを変えました。


 電灯は石油灯に形を変え、コドが腕を伸ばして石油灯を取り付ける光景がかすかに見えました。


「……ただの明かりにしか見えなかった。本当は石油灯だったのか」

「知ったらそう見えたでしょ?」ボクは言いました。「それに、明かりが消えたのは、おじいさんが降りたからだよ。もう油を足す人――灯火を守る人が居ないから、消えたんだね」

「そうなら、コドさんが取り付ける前はこんなに暗かったのか」イエドは見渡しながら囁きました。

「ううん、そうでもなかったよ。今だって、ほら――」ボクは窓の外に向きました。「あの星が、あんなに明るい。光がここへ向いているよ」

 イエドは、どれがその星か見付けられませんでしたが、おそらくその星の光によって、ボクの後ろの壁はぼんやりと照らされていました。しかしイエドには、ボクが言うほど明るくは感じませんでした。

 イエドはそれを不思議に思い、目をらしてその壁を見続けました。

「……あれ? ボク――きみの後ろ、の形が見える」

 ボクは後ろを振り向きました。

「ボクには見えないよ。輪の形って具体的には?」ボクは目をきょろきょろさせて壁を見ました。

 イエドは目を凝らすというより、何かを思い出そうとしながら光の輪を見続けました。


 ――小雨が降り続けるなか、陽が差している堤防の上に、誰かは座っています。

 両足を堤防のきわからぶら下げて、両腕を支えに真上まうえを見ています。

 空には、その誰かを虹がまたがっています。

 見えるはずのない真下から、虹が見えます。

 そのままで誰かは、対岸の堤防に向かって呼びかけます。

「おうい、そっちはどうだあ?」と。

 そして対岸の誰かは、同じように両足をぶら下げて、身をかがめて真下の水面すいめんを見ています。

 その川には、虹が沈んでいます。

 遠目で見ると、あいだ水面すいめんはさんで上弦じょうげんの虹と下弦かげんの虹が大きな輪をつくっているのです。しかし、上弦と下弦の虹は、それぞれ全く異なった揺らぎ方をしています。

 そのままで対岸の誰かは、向こう岸の誰かに答えて言います。

「はあい、見えるよ」と。

 片岸は虹を見て「綺麗な虹だ」と、もう片方かたほうも虹を見て「綺麗な虹だ」と思っています。

「虹なのに、随分と上までそびえてる」――もう片方は「虹なのに、かなり深い」と、それぞれが別のことを思うのです。

 そして、「虹なのに、風に靡いている」――「虹なのに、水に揺らいでいる」と、それぞれ思います。

 そして、互いに顔を正面を向き、顔を合わせるやいなや「あー。すごいものを見たね。それに首がったね」と異口同音いくどうおんに言いました。

 二人は意気投合を感じて笑い合います。

 二人は、互いが同じ虹を見たのだと思い込み、同じような感想を持ったと感じたのでした。

 結果として口をついて出た言葉は、首が凝ったことだったため、そして互いの心を確認しなかったため、その二人は真相を知ることなく、本当は大きなれ違いをしてしまったのです。

 どこを見て、本当は何を見て、何を思ったのかを知らないままなのでした――


 イエドが昔どこかで、何度か見聞みききした〝おとぎ話〟でした。

 それを映している心象しんしょうの中で、低く通る声が聞こえてきました。

「……互いに心持こころもちをともに合わせなければ、同じ方向を見つめるとしたところで、同じ見方をし、同じものが見えるとは限らない」


 何の前触まえぶれもなく、船長が扉を開けてイエドとボクの座っている席に向かって来ました。

「……それとはぎゃくに、互いに心持ちを共に合わせていても、同じ方向を見つめていれば同じものが見えるのか、はたして。きみら、どう思うかね」

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?