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十二 記憶と現象

「コドおじいさん?〝イエド〟とだけ呼んでみて。今のところ、返事をするのはイエドのほうだからね」ボクは言いました。

「おう、そういうはこびぢゃったなあ」

 コドとボクは、たがいの顔を見てうなずき合いました。


「うむ。イエドや」コドはイエドに向き直って言いました。

 イエドはコドの真剣な顔が、どこか懐かしく思いました。

「うん」とりあえずイエドが短く、呼びかけにおうじますと――。

「そうぢゃな……」コドはつぶやきました。

「おまえさんはなん経緯けいいでここに居る?」

 ボクとコドは、期待の面持おももちでイエドを見ました。

「え?」イエドは答えが分かりません。

「そうかい……、分からぬかい」コドは背凭せもたれに寄り掛かり、イエドをじいっと見ました。「うむ。イエドもちょいと元気なさそうぢゃが……、そりゃあ、しかっとあっちにつながっとるでな、その証拠ぢゃ」

 コドは深く息をしました。

「わしは絵で見た、しかも黒鉛筆くろえんぴつえがかれたイエドの樹しか知らぬのに、こうして自然の色のイエドの樹の枝と葉を見とる。記憶だけが夢になるとも言えぬわけぢゃなあ」

 コドはあごを上げて、天井の照明に目を向けました。

「イエドはここについて、ボクちゃんから聞いたかい?」

 イエドはただ頷きました。コドもまた、ボクの引き込むような話し方に似ていました。あるいは、コドの話し方をボクが真似しているのでしょう。


 さらに向こうの照明へと目を移し、コドは膝に両腕りょううでを支えにして少しかがみました。その上目遣うわめづかいの視線は、まわりを遠く見渡みわたしていました。

じつは、わしは船に乗ったことがない。でも、今こうして乗っとるよなあ。して、わしは孤独ぢゃった。でも、今はやけに楽しんどるよ。ここでわしは、たくさん勉強した。日没にちぼつ朝陽あさひとを、何回なんかい何回なんかいも、えがいたもんぢゃ。ボクちゃんと知識のきそい合いもした」

 コドは懐かしみながら話しました。

「……でもなあ、こうして夢ん中に長居ながいしとると、ここで生きとるようになる。わしは、もう起きとらぬと思うんぢゃ。一週間、二週間、あっちの現実っちゅう所でなあ」

 コドはそう話し、左の窓に顔を向けました。

 すると、コドが見つめる枝の葉が、かさかさとなびくように動き、落ちました。隙間すきまができ、そとが見えてきました。

 しかし、さっきのような眺めはなく、暗い雲の中でした。つめたい大粒おおつぶの霧が中に入ってきました。コドは右へ振り向き、ひらいたままの扉の中に向けて声を張り上げました。

「おうい、船長さんや。雲ん中ぢゃぞ!」

 そとで風がぴゅうぴゅうとしたへ向かって鳴りました。


 飛行船はぐんぐん上昇し、雲の上に抜け出ました。


 遥か遠くの星星ほしぼしが、船と同じ高さに浮いているようでした。それらの輝きは、一つ一つがちらちらと明滅めいめつしていました。

 イエドが外に身を乗り出そうとして、窓のふちに手を掛けますが――。

「あれ? 硝子ガラスってある。枝が消えたし、葉もない……」

 三人はそろってまわりを見回みまわしました。周りに落ちていた葉も、一つ残らず消えていました。

「良かったあ。あの本にはさんでおいて」ボクは胸をろして言いました。

「ほう、ボクちゃんや。わしのまいまなかったんかい」コドは笑って言いました。

 以前に似たような〝運び〟で、取りそんじた思い出があったのでしょう。

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