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九 神についての話

 わたくしは気ままに、勝手に、愚かに、これを書いている。

 しかしだ。

 この神という名の、一見一聞いっけんいちぶん壮絶そうぜつなそれは、所詮しょせん、人によって存在を得ている、とわたくしは考えている。

 人の誰が何をどうしようとも、神は人の名付けた「もの」、これ以外の何ものでもない。

 そうして、神の存在は、いかほどの「虚無」から「真実」を導き出すかで変えられる。

 導き出したその「真実」をも、実像までは及ばない「もの」として居させることが、神の存在に必要だ。

 こうわたくしが書くわけ、それは導き出したその「真実」が本当の実像なわけがないからだ。

 実像はすでに世界によって存在をしている。

 その実像は、倒木やら、石ころやら、なんならきみでもあると言ってしまおう。

 声、音、絵、文章、表情、行動でげんに表れた心も、その実像だ。

 ただし、きみの心がなんの気なしに思っているだけで、誰にも知られていない状況なら、その心は虚像だ。

 そのようなきみをわたくしが見ると、きみの容姿ようしは実像で居ると知ることができる。

 しかしだ。

 きみが何も表現せずに、たとえ実像で居る状況だとしても、きみの心はとてつもない虚像をまとう。

 この心の虚像が、神の存在源そんざいげんである「虚無」だ。

 きみの心は表現するとき、「虚無」から「真実」を導き出している。

 神の存在は実像までは及ばないと書いたわけ、それは神が虚像から存在を得ているからだ。

 きみは必ず、何もせずには存在を守れないと知っている。

 これは生きることにつながる。

 感じ、呼吸し、ものを獲得し、食べ、おぼえ、かくれ、まもり、はぐくみ、考え、げることだ。

 きみが何の気なしにただ思っているだけで、きみの心を見ると、きみの容姿の実像は視界から消えて、とてつもない虚像を本当に見ることができる。

 そのとき、きみは実像と虚像のあいだに存在をする。

 きみこそ「虚無」と「真実」を持っている。

 つまるところ、それは神と同じだ。

 以上で、どうして倒木や、石ころや、きみが存在をするか示したつもりだ。

 人ではなく、世界が神の実像を表現する。

 人は世界の一端いったんであり、全世界だ。

 そして、きょじつの両者がきみの考えることだ。

 虚と実はどちらも神であり、きみでもある。


 ボクは、読み止めました。

 イエドは今までいていて、流れるように何かが心象しんしょうに現れてきました。ボクの声が途絶とだえても、心象に現れてきた何かは途絶えることがないままに、イエドの心のふかとどまるのでした。

「……きみは一体、誰なんだ」イエドは目をみはって言いました。「その文章の意味を、きみは分かって……」

「まあね。何も区別しなくたっていい。例えば、全てはイエドに起こったことだっていう解釈よ」

 ボクはイエドの瞳をまっすぐに見据みすえて言いました。そして両腕を広げました。

「ここが、夢の世界でもね」

 ボクは幼さに似合にあわず、微笑ほほえみました。

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