わたくしは気ままに、勝手に、愚かに、これを書いている。
しかしだ。
この神という名の、
人の誰が何をどうしようとも、神は人の名付けた「もの」、これ以外の何ものでもない。
そうして、神の存在は、いかほどの「虚無」から「真実」を導き出すかで変えられる。
導き出したその「真実」をも、実像までは及ばない「もの」として居させることが、神の存在に必要だ。
こうわたくしが書くわけ、それは導き出したその「真実」が本当の実像なわけがないからだ。
実像は
その実像は、倒木やら、石ころやら、
声、音、絵、文章、表情、行動で
ただし、きみの心が
その
しかしだ。
きみが何も表現せずに、たとえ実像で居る状況だとしても、きみの心はとてつもない虚像を
この心の虚像が、神の
きみの心は表現するとき、「虚無」から「真実」を導き出している。
神の存在は実像までは及ばないと書いたわけ、それは神が虚像から存在を得ているからだ。
きみは必ず、何もせずには存在を守れないと知っている。
これは生きることに
感じ、呼吸し、ものを獲得し、食べ、
きみが何の気なしにただ思っているだけで、きみの心を見ると、きみの容姿の実像は視界から消えて、とてつもない虚像を本当に見ることができる。
そのとき、きみは実像と虚像の
きみこそ「虚無」と「真実」を持っている。
つまるところ、それは神と同じだ。
以上で、どうして倒木や、石ころや、きみが存在をするか示したつもりだ。
人ではなく、世界が神の実像を表現する。
人は世界の
そして、
虚と実はどちらも神であり、きみでもある。
ボクは、読み止めました。
イエドは今まで
「……きみは一体、誰なんだ」イエドは目を
「まあね。何も区別しなくたっていい。例えば、全てはイエドに起こったことだっていう解釈よ」
ボクはイエドの瞳をまっすぐに
「ここが、夢の世界でもね」
ボクは幼さに