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六 家にやってきた春

 しばらく、静かになりました。そよ風が外から流れてきました。

 イエドは、はたとたくに向いて言いました。

「このままじゃだめだ! 考えよう、何ができる、じゃない……どうするか」

「急にどうしたの?」

「ああ、過ぎたことを思い出して後悔してる場合じゃないんだ。ユウエリマは出発してしまう。すぐに前進をするところなんだ」

 イエドはかたくまばたきをしました。

「ユウエリマは、大きな悲しいことを克服したんだ。でも、あいつは今、おれの前を歩いているからさ、早く自分のことを決めないと……」

 シノティラは少し息をみました。そして、笑いました。

「何だかあなたは、ついさっきのように難しい子なのか、それとも単純なのか、わたしにもはっきり分からないわね。元気になったのはいいけど? それはユウエリマがイエドをちゃんと見ていたおかげだから、そう一辺倒いっぺんとうにならない」


 イエドは、笑っているシノティラを見て、落ち着かせられました。大きく息をしました。

「はあ。分かった。……ユウエリマのおかげか」

「そう。ユウちゃんは、しっかり見てたし、考えていてくれたんだから」

「……しっかり見て、考えるか。そういえばおれも、あの樹には、そうしていた気がするけれど」イエドは考え込んで言いました。

「樹のイエドのこと?」シノティラは言いました。


「あっ。それでも、〝イエド〟のことしか考えてないってはなしになるか」イエドの声は、少しおどけていたように聞こえました。頭に手を当て、「やっぱり一辺倒いっぺんとうだ」と、言いました。

「……そっか」シノティラは樹を見ました。

 イエドは顔を上げました。

「あの樹がきっかけだったね」シノティラは樹を眺めながらささやきました。

「あの花が咲いたから、あなたも明るくなって……」


 イエドは振り向いて樹を見つめました。

 なぜか、車椅子に座った頃から気になり始めた存在。

 咲いた花花。そして、同じ名前。


 樹の方から何かが風で飛んできているようにも見えます。花がっているのでしょうか。

 するとそのとき、聞こえたのです。


 動けずとも、咲けばいい。

 誰かは動く。

 咲いたこの花を求めて来て、見たり、嗅いだり、触れたりしたくて、動く。

 手に取ってもいい、この花を求めて来たのだから。

 そしてわたしは、運ばれるのだから。

 ようやくわたしは、ここから動ける。

 わたしも求め、見たり、嗅いだり、触れたりして、何かを知りたい。

 わたしだって、何かを求めて咲き、動こうとしたのだから。


 かすかなつぶやきなのか、心のうちから出た言葉なのか、それが自分からなのか、どこからなのか、イエドは分かりませんでした。

 それはイエドにだけ聞こえたらしく、シノティラは花びらが舞う、綺麗で懐かしい景色に目を奪われているだけでした。


「イエド……?」シノティラは、遠くへ目をみはるイエドに言いました。

 イエドはき立てられたように両手を卓に立てました。

「樹のイエドのところに、運んでほしい」イエドの目には力が込められ、少し焦点が合っていませんでした。


 シノティラは、車椅子のイエドを庭のすみにいる樹のもとまで押して行きました。

 イエドは樹を見上げて深く呼吸しました。すると、ひじ掛けに手を置いて無理に立とうとするので、車椅子はぐらぐらとかたむきました。


「イエド。気持ちは分かるけど、まずは座る」

 シノティラは車椅子をおさえ、イエドを座らせました。

 そして、イエドの腕を自分の肩に掛けさせて樹のもとに寝かせました。


 厚い苔が、イエドの頭をやわらかく受けました。イエドは大樹の幹の柱と、広く空を覆う枝の天井を見ました。

 あた一面いちめんは、木漏こもがきらきらとうつっています。

 シノティラは縁側えんがわに戻り、庭のすみの樹のイエド、その根元で仰向あおむけになっているイエドを眺めながら思いました。


 いにしえの大樹さま。今日、あなたは花を咲かせた。あなたはイエドと繋がってるのかもしれない。どうかイエドに何か恵みを下さい。あの時のように。


 庭に風が吹いてきました。山からのぬくもりの息吹いぶきでした。

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