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五 気付けなかった望み

 陽射ひざしは一度いちどさえぎられて、すぐにさあっと明るくなりました。

 シノティラは何も言いません。イエドはそわそわと、シノティラのほうに向きました。

 イエドは驚きました。シノティラの頬には涙がしたたっていました。

 心は重重おもおもしくなりました。イエドにとって初めて見る親の涙でした。


 ところが、それはイエドの思ったような涙ではありませんでした。

「悪いことなんか、してないじゃないの」シノティラは目元を指でなぞりました。「イエドはイエド自身でいれば、わたしはかまわないの。今のイエドは、わたしが産んだときと比べれば、本当に大きくなったよ。もうイエドにだいたいあげたんだから。……わたしの望みがどうなったとしても、イエドの望みが、いつかはわたしの願いになってくるもんなのよ」

 シノティラは落ち着いて、今度は強く言いました。

「それに、わたしの望みは変わらないのかもしれない。イエドの望みは、あれから変わってない?」


「……演舞えんぶしか取りがなかったけど、ほかに何ができる。そういう、気持ちなんだけれど」イエドは心のふかからみ上げるように言いました。

 シノティラの涙は、イエドの心のふかませましたが、イエドの眼はまだ重い影におおわれています。

「でも、あのときできたことが今はできない。何をすればいいのか分からないんだ」イエドはうつむきました。


 シノティラは、ふと気付きました。そして、心のうちでユウエリマにありがとうと言いました。

「まあそうよね。でも、平気じゃない? 誰だって小さいときから、できることを見付けながら成長するものだから。イエドが言葉を初めて話した時をおぼえていないように、今この時だって、何かできるようになってるよ。気付かないだけでね……」


 シノティラは、思い出を語り始めました。イエドをはげまそうと、そしてシノティラ自身も思い出しながら、今までのことを語りました。


 生まれたばかりの泣いているイエドを抱いて一緒に大泣きしたキュンドのことや、家族や近所が集まってにぎやかだったこと、そして、日日の成長、子ども同士で遊び回っていたこと。


「……こういうことも、イエドに話すべきだったんだね。わたしもやっと気付いた」

 イエドは、歩くことができないので落ち込んでいましたが、ほかのみんなと同じように見たり書いたり、話したり聞いたりしてきたことをシノティラの思い出からあらためて知りました。できることがある、と思うことができました。


「……少し、救われたような、落ち着いたような気がするよ」イエドは明るい眼差まなざしになりました。

「イエド。ユウエリマにもそう言いなさい。わたしがこうして思い出したのも、ユウエリマの助言じょげんがあってのことだから……」シノティラはこう言いながらも、声が小さくなるのでした。


「ユウエリマの助言じょげん……。昨日きのう?」

 イエドはユウエリマを思い浮かべました。笑っているように見え、そのかたわらにはフィサが居ました。

「ユウエリマの家族、会った記憶はある。でも、フィサじいさん以外は今どこに住んでいるんだろう。昔はよく家に来ていたっけ」


 そして、イエドは何気なく言いました。

「……あいつは言ってなかったけれど、卒業のときには来たんじゃないかな」

 すると、シノティラがイエドをまっすぐ見て言いました。

「……あのね、イエド」

 イエドは、シノティラの真剣な表情にぎくりと心が固まりましたが、何か覚悟をしなければならないと感じました。

「今から話すことは、イエドが見てきたユウエリマがずっと心に抱いていたこと……」

 再びシノティラが話したのは、イエドの記憶と心を揺れ動かすことでした。

 シノティラは、目線を落として言いました。

「ユウエリマのご両親は、くなった……。十年も前に」


 庭に山からの強い風が吹いてきました。


 イエドの心のうちに、大きな変化が流れ込んできたようでした。あるときに見たユウエリマが、一人しずかに遠くを見えていたのは何故なぜだったのか。それを初めて知りました。

 そのときイエドは、普段どおりに声を掛けるだけでした。今思えば、昔のユウエリマの返事はとても小さい声でした。

 ユウエリマは、段段と変わってきました。強くなってきました。しかし、悲しさが大きいからこそユウエリマは強くなろうとしてきたことが分かりました。


 イエドは思いました。――自分は今まで何のことで落ち込んでいたんだ。ユウエリマに比べたら……、このままではいけない。


 シノティラは、庭のほうに目線を上げました。

「これまでは、遠くで働いているとか都会の病院に居るとか、あなたに嘘を言ったこともあった。けど、本当はいけないと分かっていた。……イエド。ユウちゃんは、長く悲しさとさみしさを背負せおってきた。重い心を抱えてたんだよ。でも、フィサおじいさんは厳しくても、心が広かったから、一緒に重さを支え合ってうえに持ち上げた。ユウちゃんをがさないで、しっかり考えさせてた。

 ユウエリマは、やっと上を向いて自分の心を見つめ直したんだね。イエドは聞いた? ユウちゃんね、本当に国士になりたくてあの学校に入学したの。自分を変えるためだったんだろうね」

 イエドは深刻な表情になりました。

「みんなは、ユウエリマをちゃんと見てなかった。おれも……同じだったかもな」イエドは息をつき、庭に顔を向けました。

 シノティラはその横顔を見て、もっと早く話すべきだったと感じました。

 すると、イエドはあたまを振りました。

「あー、そうか。そうだったんだ――」イエドは天井てんじょうを見上げて言いました。

 その目には、イエドが今まで見てきた、ユウエリマの演舞えんぶが浮かんでいました。学校で女生徒じょせいとが演じられないとされてきたやくを、ユウエリマは果敢かかんに練習し、演じました。

 ユウエリマが、はなわざが多い役を演じる自分と同じ舞台に立つことを望んでいたのではないか、とイエドは気付いたのです。

 しかしその望みが、イエドの怪我けがによってたれてしまったことを、イエドは今まで思いもしなかったのでした。

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