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四 樹のイエド

 翌日の早朝、イエドはシノティラよりも早起きをしましたが、それを知らずに起きて来たシノティラを驚かせてしまいました。


 驚くのも当然でした。イエドは縁側のゆかせて頬杖ほほづえしながら庭を見ていましたから、一人で寝床から起きられなかったイエドがそこに居るのが、シノティラには予想外過ぎたのです。

 実際は、部屋から上半身だけでって来たということでした。


「イエド……。また、こんな無茶をして!」

 シノティラは膝をつき、イエドの両肩に手を当てて言いました。痛痛しく見えたのでした。

「学校の稽古けいこくらべれば、このくらい朝めし前……」

 イエドが腕を立てて起こしていた上半身をうつ伏せにすると、床に小さく音が響きました。イエドの腹の音でした。

「あ。急に空いてきた」イエドは久し振りに笑いました。

 そんなイエドを見て、ほっと息をついたシノティラは言いました。

「……実際に朝めし前ね。じゃあさっそく、支度しようか」


 二人は食卓に向かい合って、早めの朝食をとりました。縁側から陽が射していました。

 一日の始まりにしては騒がしい朝でしたが、こんなに気持ちが軽くなったのは二人にとって久し振りでした。


 食べ終えた頃、シノティラは食器を重ねながら訊きました。

「なんで早起きして、一人でここまで来るなんてことしたの?」

「裏の山と庭の間に立っている樹。昨日から花を咲かせそうで、今朝けさには咲くと思ってた。いや、咲いてくれって思ってもいたから、どうしてもさ」イエドは嬉しそうに言いました。

「どうしてもって……?」シノティラは縁側の方を向いて座っていましたが、今それが目に映りました。

 イエドはそちらを見ず、頭の中に思い浮かべるように続けました。

「真っ白な花だよ。樹はずっとそこにいたはずだけれど、その花を見るのは、これが一回目な気がする。ちゃんと見ていなかったから、昔にも咲いていたかもしれないけど」

「あ、きっと見てなかった。前に咲いたときは、イエドはとっても小さかったし……」


 シノティラは手を止め、庭のその樹を見ながら言いました。そして、イエドを見据えました。

「あの樹の名前を知ってた?」

「名前? ええと、なんだろう……」イエドは思い出そうとしました。しかし、分かりませんでした。

「あの樹の名前はイエドっていうんだよ」シノティラは、微笑んで言いました。

「え? おれと同じ?」イエドはいかにも不思議だ、という表情をしました。


 シノティラはゆっくりと言いました。

「イエドを産んだ頃にね、あの樹は珍しくたくさん花をつけた。その姿が、わたしらを祝福してくれているように見えて――じゃあ、あなたの名前をこの子にもらいますってことになった。ただのきじゃないよ。その樹のように育ちますように、と願いを込めた」


 イエドは、腕でふんばって上半身を庭に向けました。その樹は陽に当たり、点点と花を輝かせています。黒いみきは力強く立っています。


 ところがイエドは、自分がその正反対だと思いました。母親の願いを裏切ってしまったと思いました。


「名前は、最初の贈り物のようなものだね」シノティラはそっと囁きました。

 イエドは謝ることを考えましたが、言葉が見付からず、そのまま不意に思ったことが声になるのでした。

「おれ、もしかすると何か台無しにしたのかも――。この体が、名前より最初にもらったもの? でも、おれ、相当悪いことをした……?」

 イエドは庭を向いたまま、顔を腕にうずめました。


 シノティラの最初の贈り物は、自分自身をくれたことだと思い、何かの後悔で心が埋まっていきました。

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