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第64話 僕のパーカー

 耳に入れておいた方がいいかなと思って、3月の試合の相手は新田で決まっていると、代表と碧崎さんには伝えた。


 「あっ、そう。知り合いなんや」


 代表は拍子抜けするくらいスルーだった。いつもの真顔で、シャツの中に手を入れてお腹をボリボリとかいている。


 「そいつ、キックボクサーなんか? それとも別の格闘技やってて、キックの試合に出てくるんか?」


 碧崎さんは興味を示してくれた。と言っても、こっちもいつも通りの真顔だったけど。


 「ボクシングやってるそうです。だけど、どっちかといえば、けんかの方が得意そうで。僕も以前はよくしばかれていましたし……」


 新田がうちの学校のいじめグループのメンバーで、特攻隊長みたいな存在だという話をした。


 「けんかするやつは大体、ガーッと力任せに攻めてくる。あまりボクサーであることを意識しなくてもいいと思う」


 僕を相手に「こんな感じで」と腕を振り回して、襲いかかってくるふりをした。


 「こういう相手はディフェンスが雑だし、すぐにスタミナも切れる。しょうもないパンチをもらわないようにしっかりディフェンスして反撃して、持久戦に持ち込むのがええわ」


 なるほど。


 「ちょっとそんな感じで、スパーしてみようか」


 午後のフルコン稽古が終わった後だった。碧崎さんはボクシンググローブとキックレガースをつけ始める。


 正直、憂鬱だった。


 碧崎さんはめちゃくちゃわかりやすく教えてくれるし、練習に付き合ってくれる。おかげでこの1カ月くらいで、我ながらキックボクシングがすごく上達した感じがする。


 ただ、碧崎さんのスパーは怖いのだ。簡単に言えば、ものすごくパンチ力とキック力がある。軽く当たっただけで、衝撃がすごかった。「俺が手を出したところに、雅史が勝手に突っ込んでくるからや」とよく言われたけど、僕が突っ込んでいくところに的確にパンチやキックを出してくるのだから、避けようがない。


 攻撃すればカウンターをもらうし、ディフェンス一辺倒になれば崩されてクリーンヒットをもらっていた。黒沢も力が強くてスパーをするのが怖かったけど、碧崎さんに比べれば力任せで全然、我慢できた。碧崎さんの攻撃はガードの上からでも効く。本当に怖かったので、必死になって防御した。


 3分10セット胸を借りて、ヘトヘトになって倒れ込む。


 汗の匂いが染みついたマットに顔をつけたまま、考えた。新田はそんなスタイルで来るだろうか。けんかがしたいのならば、いつもの土手でも構わないはずだ。わざわざキックの大会に引きずり出されたということは、きちんとキックで戦いたいのではないか。


 「碧崎さん、もし相手がけんか殺法ではなくて、ボクシングスタイルで来たら、どうすればいいですか」


 起き上がって、聞いてみた。碧崎さんはグローブを外しながら、こっちをチラリと見る。僕は汗でびしょびしょなのに、ほとんど汗をかいていない。ちなみに僕はTシャツ1枚。碧崎さんは分厚いパーカーを着ている。それでこの差。いかに無駄な力を使っていないかがわかる。


 「簡単やん」


 いつものぶっきらぼうな調子で、即答された。簡単なの?


 「蹴ったらええやん。雅史は空手やってたから前蹴り、知ってるやろ? ボクシングのパンチが当たる距離は思った以上に近いし、そこに入られる前に蹴ってしまえばいい」


 ちょっとやってみようか、とまたグローブをつける。しまった。休めると思っていたのに、また再開させてしまった。


   ◇


 最近ずっと、キックボクシングの猛特訓を受けていて、家に帰ってくると午後11時を回っていることが多い。そんな時でも、マイは僕の家で勉強して待っていた。


 「おかえり」


 大体、食卓にいた。母さんや竜二と一緒に、まるで家族の一員のようにして僕の帰りを迎えてくれる。僕に勉強を教えてもらいにきていたはずなのに、いつの間にかマイが竜二の宿題を見てやるようになっていた。


 その日は珍しく、食卓にいなかった。「おかえり」の声は母さんだけだ。マイは?と聞こうとしたら、先に母さんが台所仕事をしながら「マイちゃん、あなたの部屋にいるわよ」と言った。


 時々、勝手に僕の部屋に入っている。


 竜二に教えることがなくて、自分の勉強にも気が乗らない時に、僕の部屋で漫画を読んでゴロゴロしていた。ドアを開けると、ゴロゴロしていなかった。いつものちゃぶ台を出して、参考書を開いて勉強していた。


 「おかえり」


 一瞬だけ目を上げて、また戻す。


 「勉強してたんや」


 「うん」


 何か違和感があってもう一度よく見ると、いつの間にか僕の部屋着を着ていた。


 いつも僕が風呂上がりや朝、起きがけに着ている黒いパーカーで、胸の部分に何やら英語がズラズラと書いてある。面倒なのでしっかり読んだことがない。どうせ、カリフォルニアとか書いてあるんだろう。


 問題はそのパーカー、秋に押し入れから引っ張り出して以来、ほとんど洗ってないということだ。毎日のように袖を通してはいるが、これを着たまま外出したり汗をかいたりすることがないので、いつも脱いで勉強椅子の背にかけて、そのままにしている。


 「マイ、それ、どうしたん」


 僕の視線に気づいたようだ。


 「これ? ちょっと寒いから借りてる」


 寒いなら暖房付けたらいいじゃん。


 「それ、全然洗ってないんだけど」


 「そうなん? 臭くないよ」


 マイは手を止めて襟首をかき寄せると、自分の鼻に押し当てた。


 やめなさい。


 僕のサイズなので、マイが着ると超オーバーサイズだ。袖はまくり上げているし、裾はスカートみたいになっていた。スリムジーンズの膝の上あたりまでカバーしている。


 ブカブカなのが、かわいいっ


 平静を装って、リモコンのスイッチを押して暖房をつけた。


 「最近、遅いやん。試合?」


 ドキッとする。


 そうだ。新田との試合に向けて、特訓を受けている。碧崎さんに「1カ月前に疲労のピークを作れ」と言われて、毎日ヘトヘトになるまでミットを打ち、スパーをしていた。


 そうだと言えば、応援に行きたいと言うだろう。応援に来れば相手が新田だと知るだろうし、新田を見れば辛いことを思い出すかもしれない。いや、間違いなく思い出す。


 返事に詰まった。


 「あ、試合なんや。なんで教えてくれへんの? また応援に行くよ」


 マイはニヤッと笑った。僕が黙っている時は、大体『イエス』であると知っている。そして、素直にイエスと言えない事情があることも。


 「う、ううん。うん」


 困って、どっちともつかない返事をする。


 「どうかしたん? 応援に行ったらあかんのん?」


 「いや、そういうわけじゃない。応援に来てくれるのは、うれしい。ただ、ちょっと今回は事情があって」


 負ける可能性も高い。それだけに、あまり見にきてほしくなかった。


 「行ったらあかんのや」


 マイはちょっとだけ声のトーンを落とした。がっかりしたのか、イラッとしたのか、どっちだろう。


 「うん」


 チラッと見ると、またパーカーの襟元をかき寄せている。僕の体臭が染みついた衣類をスーハーして気持ちがいいのか? もしかして、知らなかったけど、匂いフェチなのか?


 その後は大して雰囲気が悪くなることもなく、その話題はそこで打ち止めとなり、マイはわからないところを2つ、3つ質問した。もう完全に追いついた。最近は予習をしていることも多く、逆に僕が教えられることが増えてきた。


 マイは僕の部屋で勉強すると、落ち着いて集中できるという。当初の目的は、休んでいて遅れた分を取り戻すためだった。追いついてしまったのであれば、もう僕の部屋でやる必要はないんじゃないか。


 「すっかり追いついたやん」


 毎日、1時間強程度とはいえ、この時間がなくなるのは惜しかった。


 「どう? マイちゃん、すごいやろ」


 膝立ちすると腰に手を当てて、胸を張ってドヤ顔をする。ぶかぶかのパーカーが、かわいい。そして、マイのドヤ顔もかわいい。少し眉毛に力を入れて、ニンマリ笑うのだ。


 「追いついたら、自分の部屋でやるん?」


 気になっていたことを、聞いてみた。


 マイは少しポカンとした表情をしたが、僕の言わんとしていることを理解したのか、腕を組んで顎に手を当てると、うーんとうなり出した。そんなに悩ませるようなこと言ったかな?


 「本音を言えば、これからもここでやりたい」


 斜め下を見ながら、ボソッと言う。


 「まあくんが迷惑でなければ、ここで……」


 「ええよ」と即答したかったが、何か下心があるのではないかと思われたくなくて、ひと呼吸置いた。いや、下心だらけなんだけど。


 「自分の部屋じゃなくていいの?」


 心にもないことを聞いている。


 「うん。こっちの方が気が楽やねん」


 落ち着くとか集中できるとかいう言葉を使わずに、気が楽だと言った。


 「僕は全然、ええよ」


 「ほんま?」


 パッと表情が明るくなる。目をキラキラさせてこっちを見た。


 「うん、ほんま」


 そういう顔をしてくれるの、うれしい。


 「よかった! まあくん、ありがと」


 ニコッと笑って、僕に向かって両手を合わせた。


 うちで勉強し終わった後は毎日、マイの家の玄関まで送って行った。すぐ隣なんだから大丈夫と何度も言われたけど、こんな夜中だし、むしろすぐ隣だからこそ、送っていかないといけないと思っていた。


 「じゃあ、また明日ね」


 「うん、また明日」


 ちょっと待てい。マイ、僕のパーカー、着たまんまだろ。


 「マイ、パーカー」


 「ああ」


 マイは今更、気が付いたかのようにパーカーの裾をつまんだ。


 「借りてていい?」


 いや、よくない。


 「だからそれ、全然、洗ってないし」


 「ええよ。洗って返すから」


 「今、もらって帰ったら、洗うから」


 「ええよ、ウチが洗うから」


 また襟元をかき寄せている。


 「え? なんなん? 気に入ったの?」


 「うん。あかん?」


 ちょっと待って。そんな目で見ないで。玄関ポーチの灯りで、マイの目がウルッとしているように見える。


 ああ、かわいい。めっちゃかわいい。


 正直なところを言えば、超オーバーサイズのパーカーを着たマイは、めちゃくちゃかわいかった。クリスマスイブの夜のように、思い切りかき抱きたい衝動に駆られる。そのまま着ていてもらって大いに結構。ただ、それは長らく洗っていないという一点のみ、気になって仕方がなかった。


 「それともなんなん? こんな寒いのに、ウチにここでこれ脱げって言うん?」


 少し怒った顔をする。そう言われると、辛い。


 「わかったよ。気に入ったんなら、マイが着てて構わないから」


 マイは一転してニコッと笑った。


 「ありがと。うれしい」


 また襟元をかき寄せて、今度はほおずりしている。よほど気に入ったのだろう。


 「じゃあ、おやすみ」


 「おやすみね」


 そのパーカー、まだ僕の手元に戻ってきていない。

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