2学期の終業式の日。なんとなく来ているのではないかという予感があって、放課後に学校裏の土手へ行った。マイはおばさんが来ていて、3者面談があった。帰りは任せておいてもいいだろう。
やはり、いた。
川から吹いてくる冷たい風で、肌がヒリヒリする。今年の冬は比較的暖かいけど、それでも寒いものは寒い。ネックウォーマーにあごを埋めて、河川敷のグラウンドから部活の元気なかけ声が響く中、彼の元へと向かった。
「よう」
制服姿で土手に腰掛けていた新田は、僕の気配を感じて振り返ると、微笑んで立ち上がった。
不登校とか、停学処分をくらっている生徒は大体、終業式とか始業式の日に親を交えて面談がある。無期停学中の新田も、このタイミングでいつ復帰するかという面談を受けているだろうと予想していた。
ドンピシャだ。
「よくわかったな」
「学校に来ない生徒の事情に詳しいんだ」
新田は制服の上に薄茶色のマフラーを巻いている。手に缶コーヒーを持っていた。ジョウジアのブラックだ。
「冬休み明けから復学だとさ」
川の方を向いて、コーヒーをひと口飲む。もうすっかり冷めているのか、もともとコールドなのか、ぐびぐびと飲んだ。その口元に、あざがあるのが見えた。けんか上手の新田が、あざなんて作っているのは珍しい。いや、初めて見たかもしれない。
「その口、どうしたん?」
あちらを向いていたので気が付かなかったが、目元にも打撲傷のようなあざがあった。
「お前も覚えがあるんじゃないのか?」
手の甲で口元を拭うと、こっちを向いた。笑みが消えている。
「学校来てないのに、毎日のように学校関係者に会うわ。ああ、いや、違うか。清栄のやつらじゃないしな」
独り言のようにブツブツと言った。何のことだか、よくわからない。
「お前のところにも、黒沢の手下みたいなのが来ているだろう?」
缶を持った手で僕を指差す。ああ……。先日のホームの一件は、そういうことなのか。
「そういえば…」
「仕返しだろうな。しょうもね」
新田は吐き捨てるように言うと、またコーヒーをひと口飲んだ。そして、僕を見て優しげな笑みを浮かべる。
「城山が元気そうでよかったよ。ボロボロになって、黄崎もまた学校に来られなくなっているんじゃないかと思っていたから」
「心配してくれてたの?」
「そりゃ、心配するだろう。俺の大事な対戦相手なんだから。俺と戦う前に大けがでもされたらと思うと、夜も寝られんかったわ」
新田はハハッと力なく笑った。少々傷がつこうが、きれいな顔をしていることに変わりはない。
「想定外の無傷っぷりに正直、驚いている」
そう言って、腕を広げる。芝居がかったこのポーズが、本当に好きなんだな。
まあ、まだ一回しか絡まれていないし。
だけど、僕と比べて新田のダメージはどうだ。けんかをして、反撃されているところなんて見たことがない。それが、顔にあざを作っている。黒沢の報復がどれだけ執拗で、どれだけ人数をかけたかがうかがわれた。
「報復というか、それっぽいのがあったのは一度だけだったから」
「知ってる。派手にやったらしいじゃん」
大して汚れているわけでもないのに、新田は自分のスラックスを手で払った。
「え? いや、駅でちょっと突き飛ばしただけなんだけど…」
「喉輪落とし一発で気絶させたって聞いたぞ」
新田は楽しそうにククッと喉を鳴らして笑った。喉輪落とし? なにそれ? 知らなかったので、あとでググッた。ああ、なるほど。プロレスの技なんだ。
「いやあ、気絶なんて…」
「駅のホームでやったんだろ。普通、そんな人目の多いところでは、やらないんだよ」
新田は真顔になると、指で缶をつまんで振った。もう空なのか、チャプチャプいわない。
今まで一方的にやられるばかりで、けんかなんてしたことがなかった。だから、そんなルールがあるなんて、知らなかった。
「動画が出回ってるぞ。お前のところに襲撃が行かなくなったのは、そのせいかもな」
ドキッとした。ええっ、そんなもの、いつの間に撮られていたんだ?
「え、動画って」
「お前が喉輪落としで一発KOするところだよ」
「なんでそんな動画が出回ってるのさ」
背筋を冷たいものが走る。ネックウォーマーを巻いた首に、冷や汗が浮いてくるのを感じた。
「そりゃあ、黒沢から『城山をシメろ』って指示が出ているから」
新田は真顔のままで、サラッと恐ろしいことを言った。
「だけど、ノックダウンで岩出を再起不能にするわ、喉輪落としで半殺しにするわ。いくら黒沢の指示でも、ちょっと手を出しにくい存在になっているんだぜ、お前。今、この界隈ではちょっとした有名人だ」
どんな界隈だよ。それにしても、そんなことになっているとは知らなかった。
「マジで勘弁してほしいんだけど」
すごく迷惑だ。巻き込まないでほしい。だけど、「手を出しにくい存在になっている」と言われたことには、ホッとした。
「いいじゃん、不良どもに恐れられて。お前はもう、いじめられっ子卒業だ」
ハッとした。え、今、なんて言った? いじめられっ子卒業? 僕が聞き返そうとしたとき、先に新田が口を開いた。
「そりゃそうと、対戦の話は前向きに考えてくれてるんだろうな」
上目遣いになって、ニヤリと笑う。ちょっと凶悪な顔をのぞかせた。
「うん。昨日、エントリーした」
実は、そうなんだ。自分でも意外なことに、僕は新田の対戦要求を飲んだ。
「おお…。そりゃ、よかった」
新田は僕が対戦要求を本当に受けたことに、驚いたようだった。目を見開いて、あからさまに驚いた顔をした。だがすぐに顔をほころばせると、心からうれしそうに微笑んだ。チラッと舌を出して、今にも舌なめずりしそうだ。
前回の試合が終わった直後、代表に新田から対戦要求のあった試合に出たいと申し出た。
「なんだ、キックに興味があったのか」
代表はボソッとそう言っただけで、割とスムーズに話が進んだ。碧崎さんには「フルコンとキックは全然違うから、急ピッチで適応させないと間に合わない」と言われ、通常のクラスが終わった後に特訓を受けている。
「主催者の人が、俺のジムの会長と知り合いでさ。お前と戦えるように、調整してもらうから」
新田はうれしそうにニコニコ笑っている。まあ、そうしてもらわないと困るよ。新田以外の人と試合して、帰るわけにもいかないし。
「年齢も体重も一緒くらいだから、不都合はないはずだけどな。今、体重なんぼ?」
「72キロくらいかな」
「ミドル級だな。それ以上、増やすなよ」
「わかってる」
ミドル級の上限は73キロだった。
「Bクラスでエントリーしただろうな」
新田はまた僕を指差して念押しする。
「ああ、間違いない」
Bクラスというのは初出場か、もしくはそれに近い選手だ。他の打撃格闘技経験者が出る。Cクラスは完全な未経験者。AクラスはBクラスで3勝以上しているキックボクシング経験者。体重とキャリアの有無で、参加するクラスが分けられている。
「楽しみだな」
新田は目を細めて、満足げにうなずいた。いや、僕はそれほど楽しみじゃない。むしろ、今からもう緊張している。早くも試合鬱に襲われていて、一人で試合のことを考えていると心臓がバクバクいい出して、頭が真っ白になった。
新田の対戦要求を飲んだのは、岩出に続き、こいつともどこかでけじめをつけないといけないと思ったからだ。飲まなければどこまでも追いかけてきそうだし、そうなれば新田を経由した黒沢との縁も切れそうにない。
僕は、早く黒沢との縁を切りたかった。あいつが僕のことを、ひいてはマイのことを全く見ないようにさせたかった。本人と直接対決するのは怖い。それに、こちらからあえて刺激するのも嫌だった。
だから、とりあえずあいつの周辺にある僕との縁を断ち切っていく。黒沢のように自分の手を汚さずに嫌がらせをしてくるやつより、新田みたいに真正面から襲いかかってくるやつは、わかりやすくていい。
「約束、忘れんなよ。負けたらケツマ◯コな」
新田はもう露骨に自分の唇をベロベロなめて、興奮し始めた。さっきまでの優しい雰囲気は影を潜めて、目がギラギラしていて怖い。試合までまだ何日もあるのに、そんなテンションで大丈夫なのだろうか。
「わかってる。だけど、僕が勝っても、お前にはぶち込まないからな」
「つれないこと、言うなよ」
新田は目をギラつかせたまま楽しそうに笑うと、もうほとんど入っていないはずの缶コーヒーを傾けて、飲み干した。