黒沢は襲撃事件から約2週間後、学校に復帰した。
なんでも黒沢が親切にも自分を振った元カノのお見舞いに行ったところ、あまりの優しさ故にモテモテな黒沢に嫉妬した新田がブチ切れて奇襲したということになっているらしい。何、それ? なんで毎度毎度、そんなウソストーリーが広まるわけ?
そういうわけで、戻ってきた黒沢は事情を知らない大多数の生徒から同情され、同級生はもちろん他のクラスからも大勢、お見舞いの生徒がやってきていた。休み時間になると男女のシンパから取り囲まれ、穏やかな笑みを浮かべている。
まあ、都合がいい。
そうやって大勢に囲まれているうちは、こっちに目が向かないだろうから。
今回の一件で、まだマイ(あるいは僕も含まれているかも)にちょっかいをかける可能性があることが、よくわかった。岩出と決闘ごっこをした時に今後一切、関わるなと言ったはずだが、早速、反故にされている。
どうする? 改めて本人と決闘するか? だが、真正館時代のことを思い返せば、僕も成長したとはいえ、とても勝てるとは思えなかった。
「ねえ、どうしたん? ぼーっとして」
マイに話しかけられて、ハッと我に帰った。
学校からの帰り道、駅のホームだった。マイはまだ大勢の生徒に囲まれて登下校するのが苦手で、この日も少し時間をずらしていた。部活で残っている生徒以外が下校した後で、ホームは人がまばらだった。
「ああ、いや。なんでもない」
しどろもどろになりそうなのを抑えて、何気ない顔をする。でも、なんでもないことない。
根本的に解決しないと、いつまでも黒沢はちょっかいをかけてくるだろう。僕だけならまだいい。マイにも被害が及ぶことを考えると、居ても立ってもいられない。胃がキリキリと痛む。
マイは学校の鞄とは別に、ひと抱えほどある紙袋を持っていた。最近、毎日学校に持ってきている。中身は毛糸と編み棒だ。スポーツ少女である一方で裁縫が好きで、小学生の時からマスコットを自作してランドセルにつけたりしていた。つい最近、また再開したみたいだ。休み時間に〝隔離室〟に行っても黙々と編み物をしていて、相手してくれない。
「何、編んでるの?」
「秘密」
聞いてみたが、素知らぬ顔をして教えてくれない。
実はちょっと期待している。それ、時期的に僕へのクリスマスプレゼントじゃないのか? クリスマスに好きな女の子から手製の編み物をもらうなんて、漫画みたいだ。
いや、そうじゃないかもしれない。
おばさんへのプレゼントかも。いやいや、おじさんかもしれない。期待するだけして肩透かしだったら、がっかりする。はっきりするまで半分期待、半分スルーしておこう。
そんなことを考えていた時、マイの頭越しに2人の学生がこっちに向かってくるのが見えた。頭髪を茶髪と金髪に染めた、いかにもガラの悪そうな男子だ。黒い短ラン&ボンタンなので、清栄学院の生徒ではない。ただ、顔つきはまだ幼くて、中学生に見えた。
嫌な予感がする。
僕らのすぐそばまで来ると、茶髪の方が声をかけてきた。
「おう、清栄の城山って、お前か」
くちゃくちゃとガムを噛みながら、ものすごい上目遣いでにらんでくる。甲高い声で、なおさら中学生みたいだった。金髪の方はといえば、マイを頭の上から足の先まで舐め回すようにジロジロと見ている。マイが怖がって、僕の方へ体を寄せてくる。
なんだ、このシチュエーション。昔、漫画でこんなの読んだことあるぞ。
いじめられていた中学時代は、いかにも不良という学生が怖くて、見ただけで震え上がっていた。目を合わせないように下を向いて、逃げ出していた。今も怖くないことはない。普通に怖い。寒い時期だというのに、脇の下にジトッと汗が流れるのを感じる。
「城山かどうかって聞いとんねん」
にらまれて、ゾゾッとする。思わずごくりと唾を飲んだ。
「城山なんやったら、ツラ貸せや」
黙っていると、茶髪が明らかにイラッとした声ですごんだ。
はい、そうです。
そう言いかけた時、金髪の方が素っ頓狂な声を上げた。
「おい、カッちゃん! こいつ、黄崎真依やぞ! 岩出の兄貴にぶち…」
マイの名前が出た瞬間、反射的に体が動いていた。臆病な僕を置き去りにして、別の僕が勝手に動き出したみたいだった。金髪の細い喉を右手でつかむと、一気に持ち上げる。僕の方がはるかに背が高い。金髪の足が地面から離れた。
あれ、僕ってこんなに力持ちだったっけ? 片手で軽々と持ち上げて、背中から地面に叩きつけた。
ドサッ
投げられた金髪は、尻餅をついたまま目を丸くした。茶髪も先ほどのイカつい表情はどこへやら、目を見開いて驚いている。
「それ以上、なんか言うてみろ! こ◯すぞ!!」
自分のものとは思えないドスのきいた声が出て、われながらびっくりした。体が震える。恐怖のせいか、怒りのせいか、わからない。ツーンと大きな耳鳴りみたいな音が、頭蓋骨の中で反響している。僕はパニックを起こしているのだろうか? それでも握りしめた手のひらに、汗がふつふつと浮いてくるのはわかった。一歩踏み出すと、マイと2人の間に立ち塞がった。
「わかったんか!」
声が、頭の中で反響する。自分がこんなに大声を出せるとは、思わなかった。ただ、マイを守らないといけないという一心だった。一喝すると、金髪は目を見開いたまま立ち上がった。茶髪が低い声で「おい、行くぞ」と腕を引くと、恐怖にひきつった顔で振り返りながら、小走りで逃げて行った。
信じられない。撃退したぞ。
その時、ホームにいた人が、かたずを飲んでこっちを注視しているのに気づいた。視線が痛い。どっといろいろな音が耳に飛び込んできて、思わず目が泳ぐ。「何あれ、けんか?」「ヤバくない?」。遠巻きに見ている人々のささやきが聞こえた。マイを見ると、半分口を開けて呆然と僕を見つめていた。
幸運なことに、すぐに電車がホームに入ってきた。マイの腕を引いて、逃げるように乗り込んだ。
空いていたので、座席に腰掛ける。先ほどからマイがずっと僕のことを見ている。ただでさえまん丸な目が、驚きで見開かれてさらにまん丸になっている。よほど驚いたのか、口もポカンと開いたままだ。
「ご、ごめん」
なんだかよくわからないけど、とりあえず謝ってみた。汗がすごい。今になって額から、脇から、ドッと流れ出した。
「え……。なんで謝ってるん?」
マイは小さな声で聞いた。
「いや、なんか…。怖い思いをさせたかなって」
「え……」
手が震えている。膝も笑っている。背中がびしょびしょになって、シャツが肌にベタッと張り付くのを感じた。
「マイ、大丈夫?」
手のひらで顔を流れる汗をぬぐった。
「え、大丈夫って、何が?」
「ほら、息とか…。苦しくなってない?」
「え…。全然、大丈夫」
くそう。この電車、暖房効きすぎだろ。マイがなんともなさそうなのが不幸中の幸いだった。
「と言うか、怖いのを通り越して、すごいびっくりした…」
マイがやっと瞬きした。
「あの、いじめられっ子のまあくんが、不良をやっつけた…」
震える手で、僕を指差す。ああ、やっぱり怖がらせてしまった。
「ああ、いや。ちょっと待って。あんなのやっつけたうちに入らないから。突き飛ばしただけやし。何もしてへんし」
「まあくん、片手で持ち上げた……」
「いや、それも、たまたまやし!」
マイの視線ですら、痛かった。ギュッと目をつぶる。今になって心臓がバクバクいっている。ああ、怖かった。マジで怖かった。一歩間違えば、ボコボコにされていた。マイも酷い目に遭っていたかもしれない。
対処として正しかったのかどうか、わからない。ツラを貸せと言われたが、言いなりになっていれば、もっとひどいことになっていただろう。報復に来られたら、どうしよう。なんだか車内の人にもジロジロ見られている気がする。落ち着かない。
「マイ、ごめん。なんか余計なことして。これから登下校の最中に、また絡まれるかも」
「え…? ええよ」
マイはキョトンとして、おかしな返事をした。「ええよ」はないだろう。
「ええよ、じゃなくて。マイを危ない目に合わせるわけには、いかないでしょ」
「その時はまた守ってよ」
マイはフッと肩の力が抜けたように笑うと、僕の肩にポンと手を置いた。その手が少し震えていた。
「頼むよ、正義の味方くん」
そう言って、ニコッと笑う。あ、怖かったのは僕だけじゃなかったんだ。やっぱりマイも怖かったんだ。そう思うと、急に落ち着いた。さっきまで胃袋を吐き出しそうなくらい、パニックになっていたのに。
この一件が、また僕を取り巻く状況を変えることになったと知るのは、しばらく経ってからのことだ。ただ、当時はそれがわからなくて、登下校の最中にまた襲撃されるのではないかとヒヤヒヤしていた。万が一、乱闘になった場合に備えて、こっそり通学カバンの中オープンフィンガーグローブを潜ませていた。
マイには秘密だった。だって、心配をかけたくなかったから。